カート・ヴォネガットのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
『人生の目的は、愛すべき人を愛すること。自分の人生をコントロール出来ていないと感じていてもだ。』
『素晴らしき地球ーーどうにかすることできたはずだ。でも僕らはケチで怠け者だった。』
地球の部分を自分の生命と置き換えて考えてしまいました。
自分に対してケチで怠け者な態度はいけないですね。
どうにか出来る時間はまだあるはずです。
さてこのこの本はカート・ヴォネガットのスピーチの記録です。
大学の卒業式や講演会などですね。何の気なしに読んだんですが、
ラスト131ページの言葉読んで涙腺崩壊!!!
糸井重里さんのコピーに同感。
『ヴォネガットは目とこころにしみる。』
目にしみすぎちゃて、しみすぎちゃって、まいります。
ラスト1ページだけでも -
Posted by ブクログ
あぁ、大好きだなあ。愛すべき作風。
しかしこの語りは真似できないレベル。100万年後から振り返って100万年前の登場人物を描きながら、いきなり今場面に登場している彼らの最期の様子を語り、今度はまだ生まれてもない赤ん坊のそのまた子どもを描いたり。自由自在に思えて、情報量をなんだかんだで配分してる気もする。一度分析してみたい。
まあそんな上手さとかより、ヴォネガットの作品はこの中毒性に引っかかった時点で全作読みたくなっている。
テキトーにくすくす笑いながら読んでるだけですべて良し。
そしてヴォネガットがこの言葉をエピグラフに持ってくるのが、皮肉でいながら泣けそうになる何か。 -
Posted by ブクログ
お宝を持ち帰った桃太郎は死ぬまでに何回人間不信に陥ったか。
月に帰ったかぐや姫は朽ち果てるまで何度鼻の穴をほじったか。
人生が映画のようにドラマチックでもメトロノームのように規則的でも、エピローグは上映時間の冒頭から既に始まっているという事をこの小説は喋っている。予想外にてきぱきと終わってしまった人生に面食らう事もなく、終わってしまった物語のパーツを一個一個拾い集めておもちゃ箱に仕舞い込む様子を楽し、めと言われても多分無理な話です。そうです、誰かを奮い立たせるようなお話でも、夢を増幅させるような紙芝居でもないです。ただ【そのあとどうなりました?】【はい、彼はお菓子を作るのが好きです】という、噛み合うようでそもそも始めからお互い噛んですらいない、語り手と世界との通話記録があるだけ。
でも人生の記述文法はそれが一番適切だと思うから、自分は死ぬまでこの本から目を離せない。
無人島に持って行くのも無人島なんて行きたくないと思わせてくれるのも、等しく、この一冊。
これが暖炉だ。なくなっちゃったら、生きていく気が風邪を引く。
【P292】
もう暖炉がないと知ったとき、母は意味深長なことをいった。
「あら、どうしましょう――暖炉がなくちゃ、これ以上生きていく気が起きるかしらん」 -
Posted by ブクログ
ヴォネガットの作品は皮肉と温情の闇鍋である。ある部分だけをつまみ出せば、それはあまりに口汚い世間への罵りであり、またある部分を切り取れば、まるで宗教の説話のような訓辞になっている。しかし全体として作品を見れば、どうしようもなくひどい世界でも愛してやまない作者の理想主義である。
この『デッドアイ・ディック』でも、ライフル銃で妊婦を撃ち殺してしまった少年の人生を、かばい立てすることなくえがいいている。兵器、銃器というものは、使用者の善意・悪意・無為を問わず、使用すれば人を傷つける他はない。中性子爆弾にしてもそうである。見かけがきれいに残っていれば、それは破壊ではないのか。居抜きで占領者が殺戮後の都市を使用するとする悪魔のような所業を、ライフル銃で人を誤って殺した少年の罪と並べたのではないか。
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ヴォネガットはニヒリストである。
しかし、人間は、人間社会はどうしようもないものと思いつつも、正義あるいは神の名の下における持てるものの都合の良い理屈からなる運命論には屈しない。
ヴォネガットは全体には絶望しているが各々の問題に対してのかすかな希望は捨てない。
ヴォネガットは各種の講演やエッセイ、書評、インタビューが納められた本書で語り続ける。
富はもっと公平に分配されるべきである。社会共同体を再構築し人々の絆を取り戻すべきである・・・
それはかなわぬ夢であるどころか、そうした思想が返ってより悪い結果しかもたらさないこともヴォネガットは充分に知っている。
だけど希望を繰り返す。
人間は絶望的に愚かであるが、希望を語れなくなるほどの絶望はないから。
むしろ肥大化した脳が、退化して動物になった方が人間は幸せだろうと思いつつも。
笑いながらでも泣きながらでも希望を語り続けること。
大いに語ることはとても健康的だ。 -
Posted by ブクログ
トラウトとヴォネガットのグランドフィナーレを飾る、ヴォネガットの最後の長編小説。
タイムクエイクとは、過去十年をリプレイする現象だ。
これまで過ごしてきた十年間を、自分の意思とは無関係にやり直さなければならない。
あのときの事故を防ぐことも、あのときの失敗を防ぐことも、あのときの失言を取り消すこともできない。
皆一様に、自らのたどってきた、愚かしくも誇り高き十年をなぞる羽目に陥る。
ところが、リプレイ終了と同時に、自分の意思で行動をしなければならない。
何にも考えずに行動してきたのに、ある瞬間を境に、「自由意志」のスイッチが入る。
そうすると、人はどうなるか。たとえば、動く歩道に乗って移動をして、
歩道が終わると自らの足で一歩を踏み出さなくてはならないが、
あなたが相当ぼーっとしていたとしたら……。
突如、動く歩道が終わり、おそらくあなたは前につんのめって転ぶだろう。
タイムクエイクとは、そういうことである。
十年間のリプレイ。
非常に面白い発想で、 最後の最後にヴォネガットはSF的な要素の小説で
グランドフィナーレを飾ってくれたと思ったものだが、
このリプレイとは、今のわれわれのことなのかもしれないと思うに至った。
自らの意思で考え、気づき、動けとずっと訴えてきたヴォネガットだった。
しかし、もう「坑内カナリア」理論だけでは追いつかない世界情勢に業を煮やし、
読者への最後の贈り物としてこの物語を仕上げたのではないだろうか。
ヴォネガット作品に度々登場した孤独で不遇なSF作家、
キルゴア・トラウトは、リプレイ終了後に
「あんたは病気だったが、もう元気になって、これからやる仕事がある」と、
混乱する人々を励まし続けた。
そして、たくさんの人々から感謝されたトラウトは、一人ぼっちではなくなった。もう孤独じゃない!
「タイムクエイク」は、ヴォネガットのラストの小説であり、
これまでのヴォネガットの小説を継続して読んできた読者への特別なプレゼントでもある。
そのため、他の本を読んでない人にとっては、おそらく意味不明な描写も多いはずである。
が、個人的には、いろんな思い入れのある作品だ。 -
Posted by ブクログ
副題は「または、もう孤独じゃない!」。ヴォネガット1976年の作品。
ここでのテーマは拡大家族。そう、ヴォネガットが生涯テーマにした「拡大家族計画」だ。
「スラップスティック」は、設定も展開も登場人物も、なにもかもがハチャメチャで奇想天外。
特に、主役のスウェイン医師と姉のイライザとの「お祭り騒ぎ」のくだりは爽快そのものだ。
この爽快感がヴォネガットらしさなんだなぁ。
テーマ的としては、「猫のゆりかご」でヴォネガットが提唱したボコノン教をうんと推し進め、
現実的にしたもののように感じた。
人びとをカラースで分類した代わりに、「スラップスティック」ではミドルネームを政府が発行し、
無数のいとこ兄弟姉妹を提案した。
アイス・ナインで人類が瀕死のふちに立たされる代わりに、重力の激しい変動を用意した。
SF的な要素が濃いながらも、「タイタンの妖女」のようなやりきれなさは感じなかったし、
「猫のゆりかご」のように突き放した絶望感も感じなかった。
ただ訪れるものを受け入れつつ、人々が変容していくことにも動じず、
淡々と生きてゆく数少ない登場人物のありようは、ヴォネガット文学を貫く普遍的なテーマに則っている。
この作品は、設定の奇想天外さにおいても、
根底に流れるテーマの普遍性においても、ヴォネガットらしさがバランスよく含まれている。秀作。
なお、訳者あとがきでは、拡大家族のヒント、星座占いがなぜこうまでも受け入れられているかについて
ヴォネガットが語ったコトバが引用されていたが、
この作品を理解するうえでとても大きな助けとなった。うーん、さすがだ。