笙野頼子のレビュー一覧
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ネタバレまるで宇宙そのものみたいだった……という意味のわからない感想が浮かんでくる。すごい作品を読んでしまった。
「母の縮小」は内容が突飛でなかなかついていけなくて、「母の発達」の途中からめちゃくちゃ面白くなってきて、「母の大回転音頭」ではこんなものを書く作者がすごすぎると思った。どうやったらこんな話になるのだ、天才なのか。
書いてあることの意味が全然分からないのになんだか理解できる気がしてくるのが不思議だった。母がいない人は支配しやすくて母親気取りの人物につけこまれるだとか、悪魔の母の中に愛や安心やありがとうが存在しているだとか、妙にハッとさせられる箇所がいくつかあるのだ。
母と娘の関係の難しさ、お母さんという存在が世間からどう扱われてどう生きているか、皮肉が効いている。こんなものは一旦ぶち壊さないとそこから抜け出せない。再構築する上で娘にも大きな変化があるのが面白かった。拘束を解かれた二人が苦しみながら自由に生まれなおすことの爽快さがそこにあった。
それと単純に言葉の面白さや語呂の良さで繰り返し目で追いたくなる文章でもあった。
世界をこねくり回したような作品だったのに、読後はすっきりした満足感に包まれている。 -
Posted by ブクログ
もう、ほんと、すさまじい。はじめから終わりまで全力疾走。奇妙な夢の世界でゾンビ達と死闘する1人の女のお話、であると同時に、女として生まれた人間がこの社会で受ける様々な呪いや侮蔑に対し、言葉を武器にして、たった1人で、真正面から闘う「現実の女」のお話でもあった。
負けたらゾンビになってしまうから、自分でいたければ戦い続けるしかない。まさにレストレス(休みなし)バトル。すごいとしか言いようがない。読みながら自分もバサバサ切り刻まれる心地がしたし、いい加減休ませてくれーと叫びたくもなったし、変幻自在の豊かなイメージにこめられた鋭いブラックユーモアに笑った。
テレビゲームのような設定およびアクションだ。回転仏間や無限鏡砂漠のダンジョン感たるや。若妻ゾンビとの対決なんかアニメでも見てるようだった。それもこれもあくまでもゲームであるという意味でこの世界設定なんだろう。お前らの伝統やら「現実」はゲームであり夢なのだと。
桃木飛蛇が回転仏間でゾンビのカーニバルに無理矢理参加させられる様なんて、まんま法事で田舎に帰った独身女性の災難そのままで、解像度の高さに、笑いごとではないが笑ってしまった。ゴミ出し戦争も笑った。都会で原子として生きる分には問題にならないが、田舎に帰ると噴出するあれこれ。
ラスボスの「ゾンビ王子」の造形もキャラクター設定も皮肉が山盛りで、これも読みながらにやけてしょうがなかった。60代のくせに自称少年のナルシストゾンビ。小娘にすら母性を求めながら「男は永遠に少年の心を持っているのだ」とか言えてしまう中高年男をあれこれ思い出した。絵にしたらまさにこの「ゾンビ王子」ではないか。
そして、『だいにっほんおんたこめいわく史』のタコグルメがもうこの時期からいたのは驚いた。まだ王様ではないにしろ、甘やかされし傲慢肥満マザコン男として嫌らしさを爆発させていてまったくブレてなくて良かった。
階段地獄の「馬鹿女」解体バトルもしみじみ好き。相変わらず言葉のセンスが鬼のよう。肩車で娘の首をしめる先祖代々の母達も滑稽さそのままにリアル。ただ一点、アニマだけは色々と身につまされて辛かった。
飛蛇がなぜ蛇なのかを考えると面白い。蛇といえば楽園追放の悪役だ。この物語の場合、スプラッタシティが楽園とすれば、誰にとっての楽園なのか。答え: ゾンビ。 -
Posted by ブクログ
デビュー10年目、32年前の作品。これはこれで、もう、良すぎて目眩がしてくる良さだ。何でこの歳になるまで笙野頼子を知らなかったんだろうと、心底、不思議になるくらい共感大爆発の内容で、読みながらうなずきすぎて、心の首がもげそうになった。
ただ、この作風だからこそポップにならず、たとえば自分のような、文芸誌一度も読んだことのないような人間に届かなかったのも、なんとなく分かる。みんなが読んでる村上春樹の真逆という感じがする。
ともかく、描写が緻密で、情報量も多くて、豊かな世界だった。どうしてそんなピタリと書いてくれるんだと何度も思った。母と娘の関係など鋭い心理描写が多かった。
ナニモシテナイとナニカシテル、幻想と現実、他人と自分の間を行ったりきたりしながら、どうやっても自分自身でしかいられない愚直さで、効率主義一辺倒に染まりつつあるこの社会を生きる主人公が、もう本当にすぐ隣にいるかのように感じた。
労働力として数字に換算される事が、当たり前だと思わされ、非生産的であれば存在する価値もないように思わされているけれど、それでも皆どっこい存在している。この主人公のように。
ある日突然、手が腫れてぼろぼろになった彼女は、病院に行かず、意地のようにナニモシテナイ的な何かを孤独に試み続ける。そのことごとくが的外れで、あべこべなんだけど、自分でも分かっているし、そうするしかないし、それなりに楽しんでもいる。
おかげで手は「農家の嫁の手」写真さながらの、ゴワゴワゾンビとなり果て、痛みは奥歯に響くほど増大したけれど、ある意味それでいいのではないか。
彼女はすでに彼女自身に到達しており、物語の中で「成長」し、何かを悟って、「あるべき私」へとバージョンアップする必要がないのだ。
もしそんな「成長」などしたら、単なるナニカシテル人たちに変わるだけであり、実際、そうなるのは楽だけれど、彼女は山奥に生えてる苔のように、なんだかワケの分からない、世の役に立つとは思えないような存在として存り続けるしかない。これは、意識せずにする戦いだと思う。
そして、それをそのまま描ききることも、めちゃくちゃ根源的な戦いだと思った。 -
Posted by ブクログ
笙野頼子の内面の自由を守るための言葉たちがとても好きだ。あまりに自由に跳ね回るフレーズのパレードも。
今作はあおり、かづき、ばらきの御三姉妹神の来歴と巡行を描くことで、彼らの生き様を妨げ続ける国家や国の神という大きなものたちの空っぽさを描いているような気がする。
めちゃくちゃ好きなのだけれど、ちゃんと読めるほど勉強できていない自覚はあって。感想を書く資格などないかもしれない。それでも『人の道御三神といろはにブロガーズ』、やっぱりおもしろかったのだ。
大きなものは敵に見えるけれど、秦氏単独で見ると調子良く寄ってきたりまた喧嘩したりするみたいに、いや評論家の人みたいに作中で病んでるようにしか見えない人もいるけど、一つ一つを観察して描いていく書き方が好きだなと思う。ドラの観察がとてもよかった。こういう観察の上に発見があって、通り過ぎてしまうようなことに気づいたり、少し幸せになったりするんだと思う。
論争福袋もまた、福袋の性質を分析した上で論争を詰め合わせるというアイデアが粋で。日記をもっと読んでいたいなと思った。
げげげげごごごん、げうげうごごごー
げげげげごんごんごん、げんげんげげげい -
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中野重治は、?外論の中で次のように書いていた。「?外にはぬくい心が書けている。けだものが二ひきくっついて温め合うような心が欠けている」「彼は指一本ひとに指させなかった。しかし一般に作家は、人に百本も指をささせるところから出発した。人に百本も指ささせること、これが?外にはできなかった」(「俗見の通用」)。まさに猫と人とが「くっついて温め合うよう」に生きる作者のありようは、?外的な「諦念」や「余裕」からあたう限り遠い。そういえば、中野は書いていた。?外には「人に百本も指をささせる」ような「勇気」がなかったのだ、と。その意味で本書は、「勇気」に貫かれた一冊でもある。
互いに重い病を抱えた猫と人とが一つ屋根の下で生きる日常がいかに脆く、綱渡りであるか。そのことを誰よりもよく知っているから、本書の作者は「タフなカナリヤ」になることができる。〈共食〉というイデオロギーに囚われ、人に食べさせるため・見せるための料理をめぐってトラウマ的な過去を経験してきたからこそ、好きなときに好きなように自分で手をかけたものを食する〈食の自己決定権〉を脅かす「人喰い」どもの所業に、強い危機感を覚えずにはいられない。台所とトイレを入口と出口として、自分らしく生きることは自分らしく作って食べることであるという発想に貫かれたテクストは、新自由主義の生=政治的なシステムを、具体的な運動=政治のマターへと翻訳し、理解することを可能にしている。
かりにこの作が文学ではない、と評価されているのなら、そんな文学はなくなってしまった方がよいと私は思う。逆に、このよいうなテクストを文学としてとらえ、このテクストにさらなるコトバを継いで行けるような読者を作ることが大切ではないか、という思いを強くする。 -
Posted by ブクログ
硝子生命論に引き続き、二冊目の笙野女史であったが、どちらも毛色が違いながら主題は同じ作品であると思えた。
ただ、こちらの方が面白かったかな。克明に描かれた悪夢の物語である。
この作品を、というか二作ともなのだけど、何にしろこれらをフェミニズム的な視点から受け取ることにいささかためらいを覚える。
もちろんそうした概念を用いた作品ではあるが、もっと根源的に自己を描くにあたって、その自己の一側面としてフェミニズム的側面が存在し、その面が強いという印象を受ける。
醜悪に描かれる男性像は、同時に女性像をも鏡写しに醜悪なものとしている。つまりは、より根源的に人を描いていて、その突端がフェミニズムという寸法である。
ここまで自己をさらけ出してえぐり出した作品で、ただフェミニズム的側面だけを取り出すのは、読者として不誠実にすら感じられる。
他律的ではなく自律的な自己の獲得、というと陳腐で身も蓋もない解釈になるが、自己を獲得したことで蛇はお姫様に戻ったのだろう、と私としてはシンプルに解することにした。女性であるからフェミニズムとなろう、しかし、地獄は女性にだけ限られたものでないことは物語の中でも記述されているところである。
それにしても、今更ながらに読んで作者の着眼には空恐ろしいものを覚える。
言葉の世界に、虐殺という習慣がカーニバルとして行われ、細かな形骸化したシステムを無視すれば村八分、外からの人を受け入れ定期的にその世界へ落とす。
その意図するところではないだろうが、個人的にはインターネットそのものの暗喩にしか見えないのだ。それだけに、本当に恐ろしく、その知性には脱帽するのみである。
あと、余談であるが、巻末の解説は面白く読んだのだけど、読後感の邪魔になった気もする。他者の解釈も面白いには面白いのだけど。 -
Posted by ブクログ
機会があって、読ませていただいた本である。なかなか興味深い読書体験だった。終盤の論理的な狂気描写にはさすがに気疲れしてしまったけれど。
ここで描かれるものは私には「意思を持つ他者への嫌悪と恐怖」と感じられるのだけど、少なからず共感するところもあって、なかなか興味深い読書体験であった。
本質的には某巨大掲示板で女性への嫌悪を撒き散らす向きと変わらない。傷つけられることへの過大な恐怖は、結局のところ自己へのコンプレックスの裏返しだ。
特に異性(男性)への攻撃的な描写には社会的にパートナーとなるべき存在への抑圧的な感情が見られ、自分を傷つける意思を廃した人形を代替として扱う屈折は、現代のオタク評論でも読んでいるような心地で読んでしまった。このへん、作者の慧眼を感じ入るべきか、時代が変わり性別が反転しても人の本質は変わらないと思うべきか。
ただ、女性がこうした感情を持つ場合、男性とは比較にならないほど「性的暴力」の可能性が潜んでいる。その点では、男権主義的な社会への反発以上に、含みをもって描写されている気がする。生殖、性的機能といった単語が出てくるたびに、そうした怯えのような感情を感じた。
普段は読み慣れない純文学(で合ってのだと思う)を読んで、少し感想が膨らんでしまった。
その上で、どうでもいい余談であるが、多崎つくるを今年読んでいるために、純文学・私小説では失踪がセオリーなのかと勘違いし始めている私であった。