笙野頼子のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
かつての日本は,おたんこ(おたく)が反権力を前面とし,少女商売を海外にも輸出して,世界をオタク化していく。その根本には,知感野労(ちかんやろう)のアマノタコグルメノミコトがいるが,それと袂を分かったミタコ教を弾圧し,差別化する精神が宿っていた。ミタコは弾圧され,捕らえられた学生は自殺して,古い霊とコミュニケーションをとる。
上の部分を書いているだけで頭が痛くなる。この本は『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』が下敷きにあるのだが,25歳で賞を取って好き勝手に書いていたら,書評家や評論家に,「気が違っている」「電波が届いているのだろう」と酷評され,おまけに「ブスだ」と云われ,反論することに汲々としていた。私小説的なことや,身の周りの小さな出来事を書く内に年配になり,誰も相手にしなくなった所で,また,妄想を書き始めた。いやぁ,酷評されるわけだよ。芥川賞や三島賞を取った人だからね。
あとがきで作者が書いているとおり,あとがきを先に読まないと読みかたも判らない。ジャケ介してしまった人のためのあとがきの一番最後に,では1ページ目に戻って・・・と書いている。そして,彼女は今後の50年,好きなことを書くらしい。佐倉の古墳群は見に行った。あれが見える所に彼女は住んでいる。彼女には,その上に飛び交う霊が見える。
確かにねぇ・・・オタクが日本を征服し,オタク文化を世界に輸出する日は近い。って云うか・・・もう始まっているのだろう。彼女は私と同じ歳。辛い四半世紀を生きてきた,同情はするよ。妙な世の中になってきたとも同感を憶える。読みにくいこと,この上なしなのは酷いよ。 -
Posted by ブクログ
あんまり詳しくないというか、話したくないというか、考えるのが面倒臭いというか、あたしにはそういう類の話である。「純文学」というヤツの話である。
大筋は、新聞の「文芸時評」に書かれた、口当たりのいい純文学非難であった。ハッキリ言ってしまえば、それは純文学不要論、純文学意味無し、純文学死ね、である。それに対する笙野氏による反論、及び論争を「エッセイ」として書いた「論争・反論」を一冊にまとめた本。あたしはその、純文学云々というモノの論争には、あまり興味がないのだけど、これは誰かが書くべきテーマであるのかも知れないなー。
「サブカルチャー」っていうモノが一定の地位を築き上げた現在、純文学だとか、古典美術だとか、クラシックなモノへ、どうしても胡散臭さを大衆に与えてしまう。ただでさえ、取っつきにくく、分かりにくく、話のネタにもなりにくく、またエンタメとしては存在しない純文学であるし、それに対して大衆文学へのハードルの低さが拍車をかける。ただ、それはそれ、読者というのが居なければ、小説家が成立しないという、絶対的理論を掲げるマスコミに対して、作家達は自分の作品を売るという方法でしか対決出来ないと言うジレンマがある。一部のマスコミが純文学を否定するのには、根強い『数の論理』があり、消費システムというものから逃れることのできない現代人の宿命があるのだと考える人は多いであろう。売れる物を書く、という事に対して、売れなくても書くという姿勢は、あまりにも投げやりで自意識やプライドばかり高い作家の我が儘に見えないこともないのだが、しかし本来の小説の意義とは一体何か。作家には、「書きたいモノ」がある、それは間違いない。
本を売る為に書き始めるという作家も、今では少なくないのかも知れないが、そういった主旨で書かれたモノなど結局消費されれば消えて無くなってしまう希薄なモノでしかないだろう。それでもやはり、売れることを追求し、より多くの人間に読ませるという事が目的であると、ハッキリ断言してしまっている出版業界というのが、作家と対になって存在している以上、避けて通れないモノなのではないだろうか。作家が自分の書きたいモノを書くタメには、作り出されたモノを買う人間が必要になってしまうし、そのためには、作家本人の思惑外の作品の制作も、致し方ない場合があるだろう。あたしは、それが大衆文学のきっかけになってしまったのではないかと、ちょっと思っている。
しかし、売ることを目的に書かれた作品を、頭から否定するというのもおかしな事で、実は読んでみたらとても良い作品だった、ということが大いにあり得る。最近の傾向として特に思うのが、作品そのものは、明らかにエンタメ作品で、大衆文学であるのだけど、その作品を読んでみるとそこには、様々な手法を用いて作家の思想が込められていることが良くある。例えばミステリという仮面をかぶった純文学、ファンタジーを使って口当たりを良くした純文学、学園ラブコメと称した純文学。売る為の手法を用い、それにも増して、作家の意志を強く感じる作品という存在を強く感じる。ただ単に面白おかしく、萌え萌え、というだけの作品が売れるのは、もう常識で、マンガなどを見てみればまさしくそのような作品の羅列でしかない。むしろ作家のオナニー的な萌え追求作品だけでも、数多く存在するし、読者も作者との萌えの共有を、好意的に受け止め、購入する。
しかし純文学というのは、「純」である以上、そういった売れることを目的とした仮面をかぶせることを良しとしない。だからこそ、今現在、稀少となりつつあるのではないだろうか。それは決して間違いだとは思わないし、無くなってしまっては悲しいし、それだけは避けるべきだと思うのであるが、しかしだからといって、純文学だけを文学だと言う気もない。あまり普段考えることのない視点であり、また作家自身の言葉で書かれている所為か、とても真実みがある。しかし、この手の論争で良くあることだが、客観的な判断を保つには、両方の意見を同じ量だけ知る必要が、どうしてもあるな、と思わざるを得ないのだった。