笙野頼子のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
純文学をよく知らない癖に馬鹿にし、否定する者たちに闘いを挑んだ記録。
今でも純文学というジャンルが残っているのは、著者のおかげかも、と思う。
闘った相手について、
「例えば彼らに特徴的なのは知識の欠落したままする実体のない一般論、そして自分に都合のいい自作の用語定義とそれを使ってする少数者攻撃です。その時に表すファシスト丸出しの異様な被害者意識や、安手の過激フレーズを考えなしに使いたがる心の弱さ」
と書いていて、現在もそういう人物はいるな、と思った。
他にエッセイや書評もあって、時代を感じて面白い。
「ストーキング」という言葉は当時出てきたばかりだったんだな、と思った。 -
Posted by ブクログ
これは面白いと言っていいのか、どこがどう面白いと感じたのか、何とも感想が難しいのだけど、特異な作品であることは間違いない。最も強く感じたのは、この著者は外部に対するより自分への興味がとても強い方なのだなぁということ。その程度の感想しか持てなかったというのはとても情けないのだけれど。
文中に描かれる視点移動が、知覚を呼び起こすのではなく分析的評価に直接結びつく様が、とても興味深かった。外からの刺激を受け入れるのに、都度評価を伴うのは大変だろうなぁ。自意識の壁がとても厚いのだろうなぁ。こういう人は生きるのがしんどそうだ。本作に登場する人物に悉く共通するそのような個性に同情する。でもこういう人って -
Posted by ブクログ
笙野頼子作品を人からすすめられたので、読んでみようと購入しました。三作品収められていて、どれも良かったのですが、「なにもしてない」が出色でした。皮膚科に行くのを日々先延ばしにするところが秀逸で、病院の診療時間を調べて保険証を準備して…その日はそれで終わりというあたり、「そうそう!」とうなずきながら読みました。母親の支配から逃れたいのに、母親が心配で実家に帰ってしまう、その葛藤もじれったいほどよく描かれています。
ほかに収められているのは「二百回忌」と「タイムスリップ・コンビナート」。前者は普段と逆の行動をとることが奨励される<イベント>を描き、女性が男性を投げ飛ばしてもOK、むしろよくやったと -
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読んでいるうちに景色が回りだし、しまいには眩暈がしてくる。そういう類の小説。
これと似た印象の小説を思い出そうとしてみたが、草間弥生の『クリストファー男娼窟』あたりだろうか。
だが、あちらよりはだいぶ、感覚的じゃない。
いや、感覚は独特だが、笙野の場合そうした感覚はすべていったん反省の元に置かれ、感じている私というものを上から見た状態で、改めてそこに感情移入するというような、回りに回った経路を辿るようになっている。
読者としてそれに付き合って出口に出たと思ったら、入口からは想像もできない場所に出た、ということがままある。
だが、不思議と疲れるとか、面倒な印象はなく、むしろ軽妙でさえある。
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Posted by ブクログ
好きだ。たぶん「何これ、わけわからん」と言う人が多いのだとは思うけれど私はけっこう好き。しっくり来た。
最初はこの著者の壮大な独り言のように連綿と続いていく文章に戸惑いを覚えるが、次第にそれがくせになってくる。単なる独語に留まらず広い世界の地面すれすれをかっさらって通ってゆくような気持ちよさ、自分がすくい上げたくて叶わなかった感情の群れを体現してもらったような爽快感を感じる。特に「なにもしてない」「二百回忌」が好き。
音読したくなる文章だ。ある種の詩などは音読している内に狂気へ昇華してしまう怖さがあるが、これは詩的な文章なのかと思いきやそうとも言い切れず、地べた付近でばたばたしている葛藤が生 -
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想像してみてほしい。どんなに最愛の人、生涯の伴侶、来世も予約済み、であっても、ある日突然彼ないし彼女が小指の爪ほどの大きさになった挙句3万匹ほどに増殖したらどうだろうか。あるいは、一周約10メートルの顔面だけの存在となって、落語の小咄ばかりしゃべるようになったら。一瞬、かもしれないけれど、「きもちわるい」が過りはしなかっただろうか。
きっと、どこからどこまでを自分が彼ないし彼女と見なしていたのかという枠が徐々に浮き彫りになり、すなわち崩壊して、目の前の「物体」が一人歩きをはじめ、まったく別の感情が産まれるに違いない。こよなく愛する人でそうなのだ。では憎くて仕方ない人だったらどうなるか。逆に愛や -
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前評判と異なり、読んでいて爽快感はありませんでした。
母との関係に特別思い煩うことが無いせいかもしれません。私が。
言葉に表せない複雑な感情を母に抱いている「娘」であったら、どのような読後感であっただろう。
私は終始半笑いで、狂気を鈍い冗談で薄めたようなこの物語を読んでいました。
母性神話を解体する文学的実験、と言えば聞こえはいいけれども、個人的には実験的な面白さや未知なる表現に対する興奮は皆無で、むしろその実験を試みる著者の「必死さ」に不気味さを感じ、それでいてなぜか心惹かれました。
飄々としていてシュールな語り口の下に、「母の存在」なるものを(それは個人的な母にとどまらず)を何としてでも