あらすじ
愛猫よ君のために戦争を止めたい。しかし私には文学しかない。さぁ、だから文学で戦争を止めるよ。お髭ふくふく毛色白黒垂れ耳の猫神様が語る平和で幸せな猫台所日記に影を落とす戦前。愛・猫・愛・飯・戦・争・反・対ご飯とお薬、憲法守れ!本書は新聞テレビなどより良く報道しております
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Posted by ブクログ
中野重治は、?外論の中で次のように書いていた。「?外にはぬくい心が書けている。けだものが二ひきくっついて温め合うような心が欠けている」「彼は指一本ひとに指させなかった。しかし一般に作家は、人に百本も指をささせるところから出発した。人に百本も指ささせること、これが?外にはできなかった」(「俗見の通用」)。まさに猫と人とが「くっついて温め合うよう」に生きる作者のありようは、?外的な「諦念」や「余裕」からあたう限り遠い。そういえば、中野は書いていた。?外には「人に百本も指をささせる」ような「勇気」がなかったのだ、と。その意味で本書は、「勇気」に貫かれた一冊でもある。
互いに重い病を抱えた猫と人とが一つ屋根の下で生きる日常がいかに脆く、綱渡りであるか。そのことを誰よりもよく知っているから、本書の作者は「タフなカナリヤ」になることができる。〈共食〉というイデオロギーに囚われ、人に食べさせるため・見せるための料理をめぐってトラウマ的な過去を経験してきたからこそ、好きなときに好きなように自分で手をかけたものを食する〈食の自己決定権〉を脅かす「人喰い」どもの所業に、強い危機感を覚えずにはいられない。台所とトイレを入口と出口として、自分らしく生きることは自分らしく作って食べることであるという発想に貫かれたテクストは、新自由主義の生=政治的なシステムを、具体的な運動=政治のマターへと翻訳し、理解することを可能にしている。
かりにこの作が文学ではない、と評価されているのなら、そんな文学はなくなってしまった方がよいと私は思う。逆に、このよいうなテクストを文学としてとらえ、このテクストにさらなるコトバを継いで行けるような読者を作ることが大切ではないか、という思いを強くする。