藤本タツキのレビュー一覧
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ネタバレ 購入済み
二部自体は、、、
二部はデンジの恋愛が描かれたと思っていますが二部から描かれた内容は二部の中で完結されないまま終わりました
話の流れ的に三部は今までにデンジが会ったキャラがみんな出てくると思っていて一部の伏線は三部で回収されるかと想像しています -
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ネタバレまさに「どちらを選んでも地獄」としか言いようがない。
チェンソーマンが死の悪魔を喰らえば、世界から「死」が消える。だがそれは救済ではない。どれほど傷ついても終わることができず、壊れたまま生き続けるしかない地獄だ。
では、戦争の悪魔を喰らえばいいのかといえば、こちらは「戦争」が消えるかもしれない代わりに、その先には死の悪魔による破滅が待っている。
どちらを選んでも、まともな未来は見えない。
そんな絶望の中で始まるのが、チェンソーマンと戦争の悪魔の最終決戦である。
正直に言えば、読んでいて何がどうなっているのか、よくわからなくなる。
だが、それは今に始まったことではない。
『チェンソーマン』はもともと、概念も正義も欲望も善悪も美醜も、すべてがぐちゃぐちゃになった世界を走り続けてきた作品だ。
その混沌の中でも、ただひとつブレないものがある。
デンジが「生きる」ために、無茶苦茶に前へ進み続けることだ。
そのとてつもない生命力こそが、この作品の軸なのだ。 -
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チェンソーマン17巻は、第2部の物語が外側からの圧力と内部の葛藤が同時に噴き出す巻として構造化されている。公安がチェンソーマン教会の拠点を次々と制圧する状況の中で、教会の計画の核心が明かされ、それが物語全体の軸を大きく揺さぶる展開になっている。戦闘や混乱は単なるアクションではなく、登場人物たちの選択と価値観がぶつかる装置として機能する。 
この巻の中心にあるのは、「普通の暮らし」と「運命としての戦い」の対立だ。デンジは一時的に平穏な時間を過ごしているようにも見えるが、外部からの脅威と教会内部の力学が次第に彼を再び引き戻す。自分がチェンソーマンとして存在することの意味と、それを望む自分自身の中にある曖昧さが、日常と非日常の境界として繰り返し問い直される。 
また、三鷹アサの立場もこの巻で明確な危機に晒される。教会の“広告塔”として象徴的存在になっていた彼女は公安の圧力と戦いの最前線に置かれ、単なる観念的な存在ではなく、物語内部のリアルな危険と直面する。この点は、アサの内面の葛藤や価値観の変容を描く上で重要な局面となっている。 
この巻を読み終えたときに強く意識されるのは、「混沌と秩序が同時に押し寄せる状況の中で、個人が何を選択するか」という問いだ。戦闘や巨大な悪魔という物理的な危機だけでなく、社会的な混乱や群衆の反応が物語の背景に重層的に描かれており、単純な善悪の二項対立では表現できない世界観が提示されている。 
第17巻の価値は、ただアクションや展開を進めることではない。それは、主人公たちが属する世界の「価値観」と「圧力」の構造を露わにし、登場人物の内的動機と外部環境が同時にぶつかる地点として物語を再定義している点にある。  -
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チェンソーマン16巻は、単純なバトル漫画の続きでも、本格的なクライマックスでもない。デンジが「チェンソーマンになる人生」と「普通の生活を送る人生」の間で揺れ動く姿を中心に据え、人生の選択と物語世界の「祭り」のような混沌」が同時並行で進む巻だった。公式あらすじでも、デンジが「普通の生活を続けるか、チェンソーマンとして生きるか」という究極の二択に向き合うことが示されている。 
巻の主眼の一つは、デンジの日常生活の描写だ。ナユタや仲間たちと過ごすシーンの中で、彼は“普通の幸せ”を享受しながらも、「これでいいのか」という自問を繰り返す。いわゆる戦闘展開は抑えられ、日常の中に侵入してくる外部勢力との接触が物語の緊張を生む構造になっている。 
同時に、この巻ではチェンソーマン教会という組織が背景で動き、デンジを再び戦いの渦へ引き戻そうとする力として機能している点が重要だ。これはデンジの個人的な葛藤と世界の動きが重なり合い、単なる個人の選択では終わらない物語の広がりを示している。 
読後に強く意識されるのは、「普通の生活」と「非日常としてのチェンソーマン」の二重性だ。前巻までの戦いの蓄積があるにもかかわらず、日常に帰ることの難しさは本巻の根幹として描かれている。デンジの動機はシンプルだが、それが拡大していく世界的な評価や期待と交錯することで、単純な欲望の追求ではなく、より複雑な自己の在り方が問い直される。 
この巻の価値は、単に“アクションの連続”ではない。個人の葛藤と世界の評価、日常と非日常の境界が同時に描かれることで、物語がこれまでとは異なる視座へと踏み込んだ点にある。  -
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『チェンソーマン』第15巻は、物語の流れを一気に「日常巡りの延長」から「根源的恐怖との衝突」へと移す巻だった。冒頭から“落下の悪魔”と呼ばれる恐怖の悪魔が姿を現し、アサとヨルの関係に深刻な亀裂を生じさせる。この悪魔は対象の過去の嫌な記憶をフラッシュバックさせる力を持ち、戦闘における物理的な危機だけでなく精神的な揺さぶりをもたらす。これは単純な怪物との戦いではなく、人物の内面の脆さや関係性のズレを露わにする装置として機能している。アサはこの圧力の中で、これまで以上に自分自身と向き合う必要に迫られる構造になっている。 
デンジは依然として単純な欲望を軸に行動するが、この巻では“誰かを救う”という行動が物語の前提となる。落下の悪魔との戦いの中で、デンジはアサを守るためにチェンソーマンとして現れ、戦闘は物理的激突と精神的支え合いが同時進行する構造になっている。戦いそのものは過激な描写を伴うが、それは単なるアクションではなく、人物たちの価値観の衝突と再構成を示す役割を持つ。 
戦闘の決着後、物語は戦闘だけでは終わらない領域へ移行する。この巻では、ナユタや他のキャラクターも顔を出し、世界や勢力が単一の脅威だけでなく複数の軸で動いていることが暗示される。また、チェンソーマンの存在が世界的にどう受け止められ、どのような影響をもたらすのかといった視点もちらつく。これにより物語は単なる個人の物語から、より多層的な構造へと広がっていく。 
この巻を読み終えたあとに強く残るのは、単純な恐怖描写ではなく、「人物たちの内面と外部の圧力がどのように交錯するか」という問いだ。アサは自分の過去と恐怖に向き合い、ヨルとの関係を再定義せざるを得ない。デンジは依然としてシンプルな動機を持つが、その行動は他者との関係性の中で徐々に変容していく。 
結論として、第15巻の価値は単なるバトルの描写や派手さではない。恐怖という“根源的な力”と人物の内面が交差する局面を描いた点にあり、ここから物語はより複雑な人間関係と世界観の再構築へと進んでいく。  -
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第14巻は、第2部の本筋を進めながらも、従来の戦闘中心の構造とは違う局面を描いた巻だった。まずこの巻の中心になるのは、アサとデンジの“水族館デート”という日常的なシーンを主体にしつつ、そこに外部の脅威が割り込む構造である。アサはデンジを武器化するために自ら惹きつけようとし、デンジはペンギンを見たいという単純な欲望を持ってそれに応じるという、噛み合わない二人の動機が並列して描かれる。結果として、二人の関係性が物語の主軸に据えられている。 
この巻で印象的なのは、“ラブコメ的なズレ”と“緊張の混在”という構成だ。水族館という一般的な舞台設定にもかかわらず、アサの計画性とデンジの無邪気な欲望は互いにすれ違い、ギクシャクした空気が続く。また巻中では水族館に閉じ込められるなどのトラブルが発生し、単なるデート描写に終わらない展開が生じる。背景には悪魔の介入もあり、戦闘やサスペンス的な要素がバランスを取りながら入り込む。 
第14巻を読み終えたときに強く意識されたのは、この巻が“関係性のディテール”に重心を置いているという点だ。デンジとアサのやり取りは、単純な恋愛模様を描くのではなく、互いの動機と価値観をすり合わせる過程として機能している。デンジの単純な欲望と、アサの他者を武器化しようとする思惑は、水族館という空間の中で並走しつつ、時に衝突する。 
本巻の価値は、これまでのような連続したバトルや恐怖の描写ではなく、登場人物の内的動機と関係性の変容を並列させた構造にある。日常的な状況の中に緊張が入り込み、その中でキャラクターがどう反応し変化するかを丁寧に描いたことで、第2部という新たな展開の基盤が明確になった。  -
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落下の悪魔、こわっ!
ネガティブになればなるほど、
重く落ちていくって。
最初に団地から身を投げる人たちは、
天地が逆転してなかったけど。
そういえば、あんなふうにビルから次々に
人が身を投げる映画があったな。
植物由来のなんかの成分が、
風に乗ってきてそれを吸ったら、
希死念慮が強まるやつ。
それはさておき、
超高所恐怖症で、高いところから落ちる夢を
度々みてはビビりまくってる私にとって、
かなり上位ランクの悪魔です。
だから、映画の『フォール』なんか、
気になりつつも未だに観れてない。
悪魔の種類も、
何に人が恐怖心を抱くかという切り口が、
面白いですね。
支配の悪魔の自我が強くなってきてるのも、
今後が楽しみ。
飢餓の悪魔と支配の悪魔は姉妹?
マキマさんとなんか関係あるのかな。 -
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この作品も会社の先輩が貸してくれた。
そうだ。先輩と話してて、チェーンソーマンはルックバックと同じ作者の藤本タツキさんが書いたと聞いて驚いた。
この作品、以前ネットで読んだことを思い出した。
セリフの中の
「ベタだね。」は、最近見たあちこちオードリーで西加奈子さんが、
人間ってみんなベタが好きやねんなぁと話していた事を思い出した。
後は、家族が亡くなる話を見て、
よしもとばななさんの作品で、ある登場人物の男性が、
人に死にやたら巡り合いという言葉は変なのか、
そうゆうフレーズがあったのを思い出した。
なんなんだろう、ああゆう捻くれたファンタジーが無いと、人生持たないのかなぁと思った。