池内了のレビュー一覧
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ネタバレ科学の限界
著者 池内了
2012年11月10日発行
ちくま新書
炭鉱に入る鉱夫はカナリアを先頭にする。敏感なカナリアが有毒ガス発生を感知してくれるからだ。1995年のオウムの強制捜査でも機動隊が持っていた。ヨアヒムスターレルというチェコの銀鉱山では、ゴキブリがカナリアの役を果たしていたらしい。ゴキブリも感知するとパタバタと騒ぐため。著者の池内了氏は、科学者は「社会のカナリア」であれと主張している(「社会のゴキブリ」では誤解を招くとも)。
科学者は、個人的な欲望や社会的な制約、圧力などで、必ずしも“正しく”科学と向き合っていない。成果を上げたい、成果を上げて研究費を獲得したい、理論より実用化せよとの社会からの求めに応じたい、などなど、いろいろな要素により、科学のいい面ばかりを公表している。激しい競争の中、危なそうなもの、完全に安全性が実証されていないものを、可能性が低いとして使ってしまう。そんな状況に警鐘を鳴らし、科学者は危険をいち早く察知して知らせるのが役割なのだ、そのためにも等身大の科学を取り扱うことが大切だと結論づけている。
この本に書かれている科学とは、自然科学のことである。著者は国立天文台や名古屋大学などの教授を経ている宇宙物理学者、天文学者であるが、最近は科学・技術・社会論へと方向転換した、と別の本に書いている。科学について本気で書かれた本は、我々門外漢にはちんぷんかんぷんだが、科学を通して考える文明批評はわかりやすく、優しさのなかにとても厳しい目を感じる。
この本では、科学の限界について、1.人間が生み出す科学の限界について、2.社会が生み出す科学の限界について、3.科学に内在する科学の限界について、分けて考察している。例えば、2の社会が生み出す科学の限界については、まさに日本で起こっているような、文系軽視、理系重視の政策を予言。18世紀の産業革命以来とくに、国家が科学のスポンサーになってしまった宿命について思い知らされる。
では、どうするべきか?著者はこういっている。
1. 「通時性の論理の回復」
今がよければいいという科学はやめろ。未来世代の立場から見てプラスかマイナスかを判断せよ。
2. 「予防措置原則」
禁止する、小さな基礎実験に留める、いつでも止められ現状に引き返せる、安全への手だてを常に準備しておく、など。
3.少数者、弱者、被害者の立場を尊重する論理
著者の主張は、これまでの原子力利用のあり方に関する以下のような指摘によく現れている。
1954年、日本学術会議は、自主・民主・公開の三原則の下に原子力の平和利用に踏み切った。研究の自由が保証されている大学では三原則は守られたが、電力会社ではほとんど無視された。外国産の原発の直輸入(非自主)、数多くの事故隠し(非公開)、原子カムラの暗躍(非民主)などを見れば明らか。
また、原理や法則性に主要な関心がある物理学者は基礎研究から始めるべきだと主張したが容れられず、応用・開発を優先する政府。経済界が主導権を握った。その結果、物理学者は一斉に手を引き、実用研究を行う工学者の手に委ねられた。原子力工学があっても原子力理学は存在しないのである。工学者は早く実物を操作したい、より大型化したいとの欲求が強い。たとえ輸入技術であっても、それを洗線させれば外国を凌鴛できると考える傾向がある。技術輸入からのし上がってきた明治以来の習性だろうか。これが原子カムラを形成する原因となった。技術の推進一色となり、外部からの批判を許さない状況が作られたのである。
理論が軽視され、技術が最重要として求められる社会。危ない。 -
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池内了(1944年~)氏は、天文学者、宇宙物理学者。名古屋大学名誉教授。一般向けの書籍も多数執筆している。
本書は、2011年3月の東日本大震災と原発事故が、現代の科学・技術における限界を露呈することになった翌年に出版され、「何が科学・技術の限界を決めているか、それは克服できるのか、克服できるとすれば現在の私たちに何が欠けているのか、克服できないとすれば今後科学・技術とどう付き合っていくべきなのか」について、“人間”、“社会”、“科学そのもの”という多角的な側面から分析したものである。
内容は概ね以下である。
◆人間が生み出す科学の限界・・・人間の叡智である科学の進化に対して、技術の進化のスピードが圧倒的に速く、今や人間が技術を追いかけねばならない事態になっている。人間の持つ、功利主義的な発想や限りない欲望の追求が、無節操な技術の発展を後押ししており、また、ヒューマンエラーや不注意などの錯誤、自尊心やメンツなどの心理的な逸脱、更に、心理的なバイアスなど、人間としての生物学的な限界がある。
◆社会が生み出す科学の限界・・・19世紀半ばに、科学が国家の制度の中に組み入れられ、国家が科学の最大のスポンサーになることによって、それまでの「科学のための科学」が「社会のための科学」に変質し、「社会に役立つ科学」が求められ、「役立たない科学」は時代遅れとして見捨てられていった。具体的には、科学の軍事化、科学の商業化、ビッグサイエンスの推進、地震予知、原子力の利用など。
◆科学に内在する科学の限界・・・不確定性原理や不完全性定理は、自然認識や論理の無矛盾性に対する限界があることを示している。更に、現代においては、複雑系や確率でしか論じられない事象が認識され、不確実な科学知しか得られないという限界が明らかになっている。
◆社会とせめぎ合う科学の限界・・・現在、さらに今後においては、地球環境問題、エネルギー資源問題、核(原子力)エネルギー問題、バイオテクノロジー問題、デジタル社会の問題、マンモス化(ビッグサイエンス化)問題などにも取り組まなければならない。
そして、以上のような科学の限界を踏まえつつ、著者は最後に「あるべき科学の姿」として、「精神的所産としての文化の一翼を担う科学」、「科学者倫理を正面に据えた、人間を大切にする科学」、「サイズも費用も身の丈に合った、誰もが参加できる、等身大の科学」、「これまでの右肩上がりの人間を置き去りにした科学でははく、人間の精神を揺り動かす科学、社会との調和を視野に入れた科学」を提唱している。
近年、AIの急速な進化により、技術が人間を追い越し、いずれ人間は技術を制御できなくなるという危機感が高まり、多くの人びとに共有されつつあるが、こうした今こそ、科学・技術における限界を改めて認識し、我々はそれにどのように向き合い、科学・技術を如何に位置付けるべきなのかを考える必要がある。本書はその一助となる一冊と思う。
(2020年4月了) -
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古代ギリシャや中国、インドの宗教的宇宙像から現代のダークマターやダークエネルギーが大部分を占めるという宇宙像に至る宇宙観の発展を、(キリスト教的な唯一)神と絡めて解説した本。
少なくとも中世ぐらいまでは、宇宙の真の姿、システムを追求することが、今では科学と対置されがちな神の居場所を追い求める営みであり、その時々の社会情勢と互いに深く影響しあってきたのだということが読み取れて興味深かった。が、14章の人間原理についての記述には違和感を覚えた。人間原理とは簡単に言えば、宇宙が人間を生み出し得たという条件を用いることで物理定数の「都合の良さ」を説明する説である。筆者は、宇宙が、人間のような誕生して間もない浅薄な存在によって左右される筈がない、として人間原理に反論している。しかし、(僕の理解が正しければ、)人間原理は人間を宇宙の運命を定める至高の存在としてではなく、寧ろ「珊瑚の化石」のように扱っている。つまり、珊瑚の化石が地層から発掘される事が、ある地域、ある年代の気候について何らかの示唆をもたらすのと同じ意味で、人間(知的生命)が地球に存在しているという事実がこの宇宙の性質に関する情報を与えるという訳だ。「地球の気候」が「珊瑚の化石」のような「浅薄な存在」によって左右されるとは誰も考えないだろう。人間の視点を、人間自身の存在をいわば外から眺めるという概念を導入する事で何処でもあり何処でもないような虚空に解消したという意味で、人間原理は人間を至高としているのだと言われれば、そうかなと個人的には思うが。以上、僕が人間原理を確認する意味で長々と書きました。 -
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冬の岩波少年文庫シリーズ。
雪の結晶の研究で有名な物理学者・中谷宇吉郎のエッセイ集。
科学の話といってもひとつも難しいところはなく、誰にでもわかるような言葉で研究のおもしろさを語っている。
線香花火を「松葉」や「散り菊」と描写するなど、観察ですら文学的な文章。
地球の形が、凹凸があったり、楕円形であっても、鉛筆の線の幅に収まってしまう円になることを数式をまったく使わず説明してみせるあたりも見事。
雪の結晶、落雷、線香花火、霜柱、日常生活にある不思議を研究を通して解明できることをわかりやすく説明していてすばらしい。
以下、引用。
これは少したくさん刷りすぎたので、なかなか売り切れなようである。驚いたことは、五千部刷ったそうである。聞いてみたら、昔でたベントレイの雪の本は、現在一冊も残っていない、この本も、二十年間には売り切るつもりだというのである。
一つの落雷電光が、数本の電光から成っていることは、今世紀の初め頃からすでにわかっていた。しかし初めに火の玉が雲から落ちて来ることは、この研究で初めてわかったので、世界中のこの方面の学者たちをいたく驚かしたのであった。
初めてこの論文を読みながら、すぐ連想されたものは、子供の頃から聞かされていた雷獣の話であった。雷獣の話も民俗学的に調べてみたら、ずいぶん種類と変化とが多いことであろう。しかしそのうちで、火の玉のようなものが雲から落ちて来て、それが地面に達すると、落雷が天に駆け上るという形式の話がかなりの部分を占めているように思われる。
ションランドの得た結果を、少し稚拙な文学的表現で言いあらわすとしたら、この雷獣の伝説と非常に似たものになることはいちおう考えてみてもよいだろう。
アルタミラの洞窟に描かれた野牛たちの姿が、その疾走(ギャロップ)の脚の形をよくとらえていることはあまりにも有名である。獣たちの疾走の時の脚の運び方は、現代人には高速度活動写真の援けを借らずには知られないが、原始人類の眼には見えたのである。
しかし皆が心得ておくべきことは、湯川さんはノーベル賞をもらったから偉い学者なのではなく、偉い学者だったからノーベル賞をもらったのだということである。
水産講習所の兼任講師に寺田先生を推薦されたことがあった。その時長岡先生が「絹ハンカチで鼻をかむようなものだが」といわれたという伝説が残っている。
まず線香花火を一本取り出して火をつけてその燃え方を観察してみる。初め硝石と硫黄との燃焼する特有の香がして、さかんに小さい焔を出しながら燃えあがり、しばらくして火薬の部分が赤熱された溶融状態の小さい火球となる。その火球はジリジリ小さい音を立ててさかんに沸騰しながら、間歇的に松葉を放射し始める。そして華麗で幻惑的な火花の顕示(ディスプレイ)の短い期間を経ると、松葉はだんだん短くなり、その代りに数が増してきて、やがて散り菊の章に移って静かに消失するのである。
この日本紙のこよりというのも重要な意味があるのであって、沸騰している火球を宙づりにして保つには紙がなかなか大切なのである。薄い西洋紙で線香花火を作ってみたが、火球が出来ると同時に紙が焼け切れてどうしてもだめであった。このことなどもこの花火が西洋にない理由の一つかも知れない。
そうしたら先生が「そうか、それはよい経験をしたものだ。落第をしたことのない人間には、落第の価値は分らない」とほめられてちょっと驚いた。それから先生は「僕も落第したことがある。中学校の入学試験に落第をしたんだが、あれはいい経験だった。夏目(漱石)先生も、たしか小学校で一度落第されたはずだ。人生というものは非常に深いもので、何が本当の勉強になるかなかなか簡単には分らないものだ」という話をされた。
「不思議を解決するばかりが科学ではなく、平凡な世界の中に不思議を感ずることも重要な要素であろう。」(「簪を挿した蛇」より)
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著名な天文学者による科学者・技術者向け反戦論。突き詰めるとそれはそうなんだけど,やはり一面的な見方だよなあ,という感想。
それと感じたのは,この本は全く当事者への取材というのをしていないためにこういうことになったのかなってこと。
机上で長年の持論を更に煮詰めて世に出しただけ,という感じが否めないのは,やはり弱点なんだろう。
このくだりなど,たとえ実績ある立派な科学者でも,持論に有利なように事実をねじ曲げてしまう良い例かも。
「劣位になった兵器は一度も使われないまま廃棄される…自衛隊が爆撃機を何年かおきに更新しているのが典型」p.79
何の話だろう?自衛隊が爆撃機を運用したことなんて皆無なのに「更新」とは謎すぎる。
日本の支援戦闘機が(F-86F→)F-1→F-2と更新されたことだとしても「何年かおき」には到底ならない(就役F-86F:56年,F-1:78年,F-2:01年)。こういう杜撰な記述が散見されるようでは説得力も薄い。
聡明な人間でも確証バイアスから逃れるのは難しいのだな。
ドローンの「人道性」について,“自国の陣営の被害の可能性をなくし、もっぱら敵のみに被害を与える”p.66と批判しつつ,“敵をせん滅する能力が上回るのなら、そこに多少危険性が残っていてもかまわない。武器の扱いで死傷者が出るのは当然としている”p.231というのは矛盾のような気もしたけど,そうでもないか。
在沖米軍の事故や4月のF-35A墜落なんかが後者なんだろう。もちろん当局は死傷者出るのを当然と考えてはいないけど,そのように見えるというわけか。池内先生はそもそも防衛目的の武装をも認めない立場なんだから,見解の相違は避けられるわけがない。
「自衛隊は国土防衛隊に改組して丸腰になり、あらゆる国際紛争や国家間の対立は交渉と話し合いによって解決すべきだと考えている」p.213
丸腰の「防衛隊」って何だろう? -
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科学という言葉は一種の仮定である。だから「科学的」と誰かが言ったところでそれが何を意味するのかということは本当のところわからない。
この本で疑似科学と分類されている物は、宗教や占いといったもの、あるいは化学物質の名前が出てきてその効用がうたわれてる、しかしその科学的根拠があいまいなもの。あるいは極端な曲解を起こす様に科学的説明を用いている物である。
そういうのは世の中に溢れかえっている。特に商品やサービスを売る「広告」というものにはその広告の規模を問わず疑似科学的なものがまじっている割合は結構高い。
もちろん科学そのものが万能ではない。しかし騙されて後悔しないためには一定の科学的見方というのは必要である。
そう言った意味でこの本からどのような「疑似科学」があるのか。科学というものの限界性というものを知るのがよいではないだろうか。 -
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ネタバレ<目次>
タイトルの30は、縄文土器・漆器・納豆・日本酒・城・かな文字・畳・和紙・着物・扇・日本刀・醤油・忍者・茶道・歌舞伎・浮世絵・握り寿司・ソメイヨシノ・俳句・乾電池・養殖真珠・八木アンテナ・胃カメラ・インスタントラーメン・新幹線・クオーツ時計・光ファイバー・自動改札機・カラオケ・青色発光ダイオード
<内容>
雑多な日本初の発明を、歴史的に追っていく。縄文土器や歌舞伎、浮世絵などのように完全に歴史的なものから、胃カメラ・光ファイバーのように、技術史的なものまで、一つ8~12ページほどでコンパクトにまとめてくれてある。日本史の授業の、文化や経済の所で、簡単に説明するのに役立つ。 -
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疑似科学を3種類に分けて、それにまつわる問題について考察している本です。
「第一種疑似科学」とは、人間の心理や欲望につけ込むもので、占い系、超能力やスピリチュアル、疑似宗教などが含まれます。「第二種疑似科学」は、科学を乱用・誤用・悪用したもので、「ゲーム脳」やマイナス・イオン、さらに統計の処理に誤りのあるものなどを指します。著者は、これらの疑似科学を信じてしまう心理などを明らかにしています。
これに加えて本書では、地球環境問題や地震予知など、まだ理論や手法が確立しておらずデータの集積も十分でない分野で一面的な断定を下すような言説を、「第三種疑似科学」としています。その上で、こうした問題への対処として「予防措置原則」を導入するべきだと著者は主張します。
予防措置原則そのものの倫理的な意義については、それなりに納得のいくものではあるのですが、地球環境問題は、生命倫理にまつわる問題と同様に、「科学が問うことができるけれども、科学が答えることのできない問題」なのではないでしょうか。こうした問題は、倫理学はもちろん、社会的、政治的な問題が複雑に絡み合っており、それらの観点を総合することで取り組んでいくことが求められているように思います。
したがって、こうした問題に対して、科学的に十分な根拠がないにもかかわらずさまざまな立場からの主張が展開されて百家争鳴の様相を呈するのは、それぞれの論者の社会的、政治的立場に基づいてなされていると考えるべきです。ところが、それらの言説をひとしなみに「疑似科学」と呼ぶことは、問題の倫理的、社会的、政治的な次元を覆い隠し、科学的技術的な次元で問題の解決が可能だとする、技術的決定論に陥る危険性があると判断せざるを得ません。
著者自身「あとがき」で、「第三種疑似科学」という名称を用いたことに対する疑義を提出していますが、やはりここには無視することのできない問題が残されているように思います。