新渡戸稲造のレビュー一覧
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Chivalry 武士道
Valor 勇気
rectitude 義
veracity 信
sincerity 誠
fortitude 忍耐
あまり触れない英単語で、これらが英語話者にしっくり来るんだと発見。
新渡戸稲造って、奥さんは米国人で、この本を英語で書いたのね。それは、シンプルに、すごい、そりゃお札の顔になるわ、とレベル低い感想から始めて恐縮。
サムライの刀が西洋人にはそんなに恐れ野蛮に思われていたのを知らなかった。その誤解を正そうと武士道を書いたと言うきっかけも初めて知った。
そしてその刀を用いた腹切りは、悪いことをしたから死をもって償うという意味はともかく、悲壮になることなく淡々と腹切りをしたということ、それは武士の精神もさることながら、人の命が今より軽く見られていたというのがショック。
武士道が最も重要視しなかった算術。金融経済は卑しいものとされ、商人に任せた。金儲けを考えるのは卑しいと考える日本人の気質はここから来てるかも。
反対に、金銭で測れない職業かある、と言うのはすごい深い考え方だ。教師、武士がそうだったと言う。その職、地位に就くのは高潔な人のみであり、そう言う人は金のために働かず清貧な暮らしを送り徳を積み尊敬される。
西洋からの近代経済が流れ込み、何でも金銭価値で測られるようになり、全く逆の価値観と相容れなくなった。
武士道は哲学だ。 -
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ネタバレ宗教教育が公にほとんど行われない現代の日本において、なぜこれほどまでに規律や倫理観が保たれているのか——。この問いに対して、新渡戸稲造が1900年に『武士道(Bushido: The Soul of Japan)』を通じて世界に放った答えは、今なお色褪せない強烈な説得力を持っていますね。
武士道は単なる「戦いの技術」ではなく、日本の伝統的な精神の拠り所であり、西洋の「騎士道」や「キリスト教の倫理」に匹敵する、高度な道徳体系です。
武士道を作り上げた3つの源流
新渡戸は、武士道がゼロから降って湧いたものではなく、日本人の心に古くからあった3つの要素がミックスされて生まれたと説明しています。
仏教(運命を受け入れる心): 運命に身を委ねる平穏な心、生への執着を捨てる精神、不可避なものへの従順さを与えました。
神道(祖国愛と敬意): 祖先への崇拝、国や主君への忠誠心、そして「人間は本来、神聖で清らかなものである」という本源的な自己信頼を植え付けました。
儒教(人間関係の倫理): 5つの道徳関係(五倫:父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)を通じて、社会的な責任や上下関係、倫理的な行動規範を体系化しました。
これらが数百年におよぶ封建制という土壌の中で醸成され、特権階級である「武士」のプライド(高潔さへの義務)と結びついたものが武士道です。
7つの徳と「克己」「女性の武士道」の真髄
整理していただいた7つの徳とそれを取り巻く精神は、現代の私たちが日常で直面する葛藤にも明確な指針を与えてくれます。
1. 義(ぎ)
武士道の骨格であり、最も厳格な徳です。新渡戸はこれを「人の体に骨があるように、義がなければ首も正しく保てず、手も動かせない」と言い表しました。ずるさや打算を嫌い、人として「何が正しいか」という絶対的な物差し(軸)を持つことです。
2. 勇(ゆう)
ただ命を捨てることや、無謀に突っ込むことは「犬死に」であり、勇気とは呼びません。義(正義)のために行動すること、そして正しいことのために耐え忍ぶこと(忍耐)が本物の勇気です。お書きの通り「義を見てせざるは勇なきなり(正しいと知りながら行わないのは、勇気がないからだ)」という言葉がその核心です。
3. 仁(じん)
他者への慈しみ、憐れみの心です。力を持つ者が溺れることなく、弱者をいたわる心の広さであり、新渡戸はこれを「王者の最高徳目」と位置づけました。
4. 礼(れい)
礼儀とは、単なる形だけのマナー(作法)ではありません。「他者の気持ちに対する思いやりが、外側ににじみ出たもの」こそが本当の礼です。究極の礼は、相手を不快にさせないという深い優しさ(品格)から生まれます。
5. 誠(まこと)
文字通り「言ったことを成す」ことです。武士の言葉には重みがあり、契約書や証文がなくとも、言葉そのものが真実(至誠)でなければなりませんでした。嘘をつくことは名誉を失うことと同義だったのです。
6. 名誉(めいよ)
自己の尊厳であり、恥を知る心です。武士にとって「名誉ある死」とは、人生の最期にそれまでのすべての徳(義・勇・仁・礼・誠)が結実した瞬間を指します。自分の命よりも、人としての誇りを守ることを重んじました。
7. 忠義(ちゅうぎ)
自分勝手な利益のためではなく、公(主君、社会、国家)のために尽くすことです。ただし、盲従ではありません。主君が間違った道に進もうとしたとき、命を賭してそれを諫める(正す)ことも忠義に含まれていました。
克己(こっき)の重要性
これら7つの徳を支えるのが「克己(自分の感情や欲望に打ち勝つこと)」です。武士は、どんなに悲しくても、どんなに苦しくても、それを表に出して周囲を動揺させることを恥としました。常に平静でいること(心の平安)を保つための厳しいトレーニングが克己でした。
女性の武士道
新渡戸は女性の武士道についても一章を割いています。当時の女性は、表舞台に立つ武士を陰で支え、家を守り、子供に武士の精神を教育する役割を担っていました。自分のわがままや平穏を捨て、家族(ひいては社会)のために自己犠牲を厭わない姿勢は、男性の武士道に勝るとも劣らない気高き精神として賞賛されています。
宗教批判ではない:キリスト教との共通性
「決して宗教批判ではない」という点は、新渡戸がこの本を執筆した最大の動機でもあります。
熱心なクリスチャンであった新渡戸は、西洋の友人から「日本には宗教教育がないのに、どうやって道徳を教えているのか?」と聞かれ、答えに窮したことから本書を執筆しました。
新渡戸は、キリスト教の「愛」や「正義」といった普遍的な真理は、形を変えて日本の「武士道」の中にも息づいていると証明したかったのです。聖書の教えが西洋人の血肉となっているように、神道や仏教、儒教が溶け込んだ武士道は、日本人の血肉(侍魂)となっています。
形を変えたグローバル化や西洋文化の流入によって、外見や生活様式はどれだけ変わろうとも、私たちが災害時に暴動を起こさず秩序を守り、他者を思いやり、嘘を恥とする精神のバックボーンには、間違いなくこの「武士道」の遺伝子が流れています。
「武士道は、その象徴である桜の花のように、風が吹けば散ってしまうかもしれない。しかし、その香りは日本の空気に永久に漂い続け、人々を魅了するだろう」
—— 新渡戸稲造『武士道』より -
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日本人とは何か?を知る事の出来る本
新渡戸稲造がこの本を発表した過去と現在では価値が異なる。
過去➡️外国人に対して日本人を紹介する本
現在➡️道=軸を見失った我々の道標の本
外国は宗教が道徳を担っているが、大多数の日本人は無宗教…。道徳を軽んじてはいけない。
元々明文化されたものではなく、口伝や『しきたり』として伝わってきたものを文書化した新渡戸稲造の功績はデカい!
内容としては原文より解説の方が理解し易い。
義・勇・仁・礼・誠これを貫く為に命を賭けるのが武士道。
人に優しく、正直で嘘はつくな、卑怯な真似をするな、約束を守れ、弱い者イジメをするな、親孝行せよ、人と仲良くせよ。
これを実践出来ないことを『恥』とする文化が我々には必要なんだなと思う
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日本三大名著と知り、読んでみる。5000円札の人でしかなかった新渡戸稲造、そりゃお札にも載るわと納得。
世界的に、日本人に対する誤解があるんじゃないかってところから、日本人らしさとは何なのかを考え直し、世界に向けて発信したのがこの本なんやな。原本は英語で書かれたらしい。
めっちゃ賢いのが伝わってくる。
武士が重んじた規律、海外の人はこういう見方をしているかもしれないけど、それってあなたたちの文化(名著やシェイクスピアなど)で言うところのこういう精神と同じじゃありません?ってスタンス。
誤解の糸を一つ一つ丁寧に解きほぐしてる感じ。
海外の文化や芸術に深い知識があり、その精神を理解した上で日本人との共通点を見つけ、日本人を理解してもらうきっかけを見つけ出そうとしている本。
美点ばかりを述べるでもなく、出来るだけ公平な視点を保とうとしてるのが良いね。
やるやん稲ちゃん。 -
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2025/07/10
p.29
神道の自然崇拝は、国土を私たちにとって心の奥底からいとおしく思える存在にした。また神道の祖先崇拝は、次々と系譜をたどっていくことで、ついに天皇家を民族全体の起源とした。
おそらく神道は、中世のキリスト教の教会とは違って、信者に対してほとんどなんの信仰上の約束事も規定せず、そのかわりに、まっすぐで単純な行動基準の形式を与えたのである。
2026/01/27
p.77
第7章 信と誠
信すなわち誠がなければ、礼は茶番や見世物になってしまう。伊達政宗は、「礼が過ぎると嘘になる」と言う。「心だに誠の道にかないなば、祈らずとても神や守らん」と言った歌人は、ボローニアスを凌駕している。 -
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現代人が武士と聞くと、まず思い浮かべるのは戦国時代の徳川家康家臣、蜻蛉切で有名な本多忠勝や真田幸村などを思い浮かべるかもしれない。古くは平安時代の源頼朝に仕えた弓の達人の那須与一、そして日本人の心を掴んで離さない楠木正成など、古今東西問わず未だ、誰が最強かといった議論が巻き起こる程に人気がある。武士といえば、自分の得意とする武器を巧みに扱い、戦場に出ては数千の敵を前にしても、恐れを知らずに敵を斃していく、そんな姿を思い浮かべるのではないか。徳川家康が天下を平定したのち、江戸時代は260年以上も続き、次第に世が平和になっていくと、武士が戦場を駆け回り活躍するような機会は減っていく。寧ろ平和な世に物騒な日本刀を振り回されてはかなわない。徐々にその立ち位置を微妙なものにしつつも、失われずに残ったのが、武士としての立ち振る舞い、心構え、生き方にも通ずるであろう、武士の道としての「武士道」である。古くは佐賀藩士の山本常朝の話した内容を纏めた『葉隠』に既に「武士道」という言葉が登場し、その後も幕末の万延元年に山岡鉄舟が「武士道」を記し、そこでは「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎これを名付けて武士道と云ふ」と記されている。勿論、その武士のあるべき姿はずっと古くから、武士と呼ばれる者たちの心の中で連綿と受け継がれてきたものであり、体系的に纏められたりする事なく、武士の生き様として続いてきたものだ。
本書「武士道」は新渡戸稲造が自身の妻や海外の友人たちに、日本人が何から道徳を学ぶのかと尋ねられ、答えに窮した事から執筆されたものである。よって最初は海外向けに全て英語で記されていたが、その後日本人の手により日本語訳されるという逆輸入の形で入ってきた。そこには武士の魂の根底にある「義」をはじめとし、「仁」「礼」「信」などの説明、武士が何故に切腹という責任の取り方を用いるのかなど、武士道とは何か、そこから日本人が何を学び取り、どう生きているかを17章にわたり説明していく。海外の人からは理解し難い武士の切腹や、キリスト教国の「騎士道」との対比が武士の姿を克明に明らかにしていく。その記述は外国人向けということもあり、外国人がよく知る文献や宗教観との比較が多く用いられ、日本に古来から存在する武士が、西洋の文化と同レベル、若しくはそれ以上に優れた形で道徳として成立してきた事を説明している。当たり前ではあるが、決して外国の考え方を真っ向から否定したり、日本の考え方が優れていると大っぴらに言うものではない。その奥ゆかしさも武士道と言えばわかりやすい。
残念ながらその後の日本は軍国主義に振れ、太平洋戦争の特攻隊のように、喜んで死に向かう若者の姿に重ねられていく。なお特攻隊の名前である「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」は万葉集の「敷島の大和心を人問わば朝日ににおう山桜花」の歌からとられている。
本書の中でも取り分け興味深いのは、武士の死に対する考え方である。武士が刀を抜くときは、相手を殺すか、殺せば自身も罪を償うために死するか、さらには殺し損ねても武士としてあるまじきとして死ぬか。兎に角、刀を抜く事はすなわち武士にとって死を意味する。武士は名誉を重んじるから、それを傷つけられる事は死よりも屈辱的となる。だから名誉のためなら死を恐れる事はない。こうした考え方が、正に前述の特攻隊にとっては都合の良い受け止め方をされたのだろう。現実、死に直面した若者たちが、国の為、愛するものの為と次々と命を散らしていく姿は、武士道の中にある散る桜の美しさを思わせる。
日本人なら一度は読んで触れてみたい考え方である。エコノミックアニマルと呼ばれて久しい日本人の姿を、当時の武士たちがどのような目で見ているだろうか。その視点を知り、自分の生き方を正すきっかけになる一冊に違いない。 -
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ネタバレ武士道とは何なのか?といわれたらどう答えるか。新渡戸稲造の武士道は日本人の精神のあり方を外国人に向けて体系的に説明した書物であるということ。
武士道は武士の精神であるどころか、日本人の振る舞いや考え方に深く影響している。ハラキリだけが武士道ではない。日本人の優しさや協調主義は武士道に根ざしている。日本は災害が起きても暴動が起きづらい。これは一意に他者を慮る精神があるからだ。
例えばアメリカでは贈り物をあげるとき、贈り物のすばらしさを説明する。日本では贈り物が受け取り手の価値よりも低いというやうに下げて説明する。
背景には仁、謙譲や礼といった価値観があるからだ。
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ネタバレ第6章 礼ー仁・義をもって型となす
「茶の湯は精神修行の実践様式」
目次をパラパラめくっていたら、この言葉に強く惹かれたため、最初に読んでみた。
友人の母が茶道を嗜んでいたため、私も幼い頃から茶道に触れる機会があった。
特に感銘を受けた言葉は、以下の通りである。(以下引用)
「茶の湯の基本である心の平静さ、感情の静謐さ、立ち居振る舞いの落ち着きと優雅さは、正しき思索とまっとうな感情の第一要件である。
騒がしい世俗の喧噪から離れた、塵ひとつない茶室の清潔さは、それだけで私たちの心から現実を忘れさせてくれる。」
「茶の湯は趣を極限まで洗練させることが目的であり、そのためにはいかなる虚飾も宗教的な崇敬をもって排除されるのである。」
「茶の湯に集まり来る人々は、静かな茶室に入る前に、血腥い刀とともに戦場での残忍さや政治的なわずらわしさなどを捨て去り、この茶室の中に平和と友情を見出したのである。
それゆえに茶の湯は礼法以上のものである。それは芸術であり、折り目正しい動作をリズムとする詩であり、精神修養の実践方式なのである。」
私も茶道を学んで、これらの言葉の意味を実際に体感してみたいと思った。
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今年2024年で、書かれたのは1899年(明治32年)。
125年前のこと、しかも38歳の時。
この時代に世界中の文学を勉強をし、そして日本の精神の根本にあるものは何であるのかを、実際にあったことに触れて、またヨーロッパの歴史や文学を引用して描き出されている。この本で日本人の精神道徳の成り立ちが世界的に一段と広まったのだろう。
あなたの宗教は何ですか? と問われたら
私は一応 仏教です、と答えるが、日本人の根本にあるのは、封建制度の武士道から裾にひろがった精神なんだと、改めて気が付いた。
桜を愛でる日本人で良かったな、と思う反面、果たして今の日本人は何処にいる? 何人いる?と探している。そして日常生活の中で傲慢になっている謙虚のなさをも反省もしている自分がいる。
新渡戸稲造さんの本 もっと探してみよう! -
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修養とは、教養であり、人を導くための指導者となるべき人間に書かれた書
身と心との健全なる発達を図るのが目的とあります。
気になったことは以下です。
・平素の修養があればこそ、非常の時の覚悟が定まる 「かかる時さこそ命の惜からめ、かねてなき身と思ひ捨てずば」
・いかに逆境に陥っても、その中に幸福を感じ、感謝の念をもって世を渡ろうとする。それが、僕のここに説かんとする修養法の目的である。
・青年ということは、先のまだ分からない、茫漠たる、青々と発芽した草葉の意味から生まれた言葉である。希望さえあれば、30になっても、60になっても、すなわち、青年というべきである。
・1の使命を果たせば、果たすにしたがって為すべきことが、限りなく現れ来る。いわゆる人間の理想なるものは、限りがなく、それが満足に達せられたという限度はないものである。
・百里に行くものは九十里に半ばす
・孟子 「大人はその赤子の心を失はざる者なり」
・青年は、不要な知識を知る必要はない。ゲーテの「ファウスト」にも、無用の知識を誹りて、「人は知らなくとも善いことを知り、知らねばならぬものを却って知らぬ」
・好きこそ物の上手なれ
・職業の選択が、その嗜好性質に適したものでなければならぬことは明白である。(自分の資質に合う職業を選択すべし)
・発心はやすく、継続はかたし
・ひとつの具体的の仕事をする時、中途で必ず厭になる。最後まで厭気を起こさずに、やり遂げることは極めて少ない。
・西明寺(北条)時頼 「幾たびか思ひ定めて変わるらん、頼むまじきは我心なり」
・徳川家康 「人の一生は重荷を負ふて遠きに行くが如し」
・怠らず行かば千里(ちさと)の外(ほか)も見ん、牛の歩(あゆみ)のよし遅くとも
・発心継続の修養法 発心の継続には発心を記憶せよ
・「ここだな」という観念 いかに些細な事柄を行うにも、おおきな原則を応用するえば、いつしか原則の極意に達する
・小事も原則応用のつもりでやれば興味多し いかにつまらぬように見ゆることでも、継続心の修養という原則に従って行うことであれば、何となく奥行が深いように思われる 原則に従うて行うものは、つまらぬことでも興味ありそうに見える
・末遂に海となるべき山水も、しばし木の葉の下くぐるなり 誠意はいつかはわかってもらえる時がくる
・勇だけあっても成功はできない 「義を見てせざるは勇なき也」 真の勇は徳義を去って存在しない 「仁者は必ず勇あり、勇者かならずしも仁ならず」
・源致雄 命をば、かろきになして、もののふの、道より重き、道あらめやは
・沈勇:たえる勇気 君がため、いとど命のをしきかな、かかる憂目を見せじと思へば
・勇気を修養するものは、進む方の勇ばかりでなく、退いて守る方の沈勇もまたこれを養うように心がけなければならない。両者がそろって、真の勇気がなる
・克己:己にかつ 一遍上人 心をば、心の仇(あだ)と心得て、心のなきを心とは知れ
・大事に処する道は、小事の修養にあり
・西郷南洲(隆盛) 事に臨んで動かず
・一般の人が心を動かすもの 色情、利益、権力、名誉、の4つである
・日本には忠孝よりももっとよい言葉でキリスト教の愛に匹敵するに足る言葉がある、それは、「誠」である。誠は日本古来の言葉である
・人に自分が知られていないことを嘆くより、自分が人のことを知らないことを患う 論語
・頂点に立つよりも、謙遜の念をもってにふもとに住む 水戸黄門 位山登るも苦し老いの身は、ふもとの里ぞ住みよかりける
・憎むとも憎み返すな憎まれて、憎み憎まれはてしなければ 古歌
・不足していると思っていれば足りて、足りていると思うと不足する 事足れば足るに任せて事足らず、足らで事足る身こそ安けれ
・だんだんと善を積むことは、腐るものでないから、いくらでも積める。しかし、またちょっとでも油断すると、とかく消えやすく後戻りしやすい
・咲ざれば桜を人の折らましや、さくらの仇(あだ)はさくらなりけり 世の人の注目を集めてもそれが原因で苦境におちってしまう
・見ればただ何の苦もなき水鳥の、足にひまなき我が思ひかな 人からは楽をしているように見えても本人は非常な努力をしている
・人は逆境に陥ると、とかく冷静に考えないで、前後を忘却し、ただ困る困るといってやけになる。
・逆境に陥った理由を己に求め、今日かく逆境に至ったのは、己にありと観念をきめたなら、人を恨まなくなる
・逆境に陥ったならば、逆境そのものを善用して我が精神の修養に供するがよい
・世人の心というものは、平生得意の場合に互いに飾ってあった心の汚れも、逆境にあうときは、見苦しいまでその本性を表すものである
・油断大敵:人が油断するのは、とかく順境にある時である
・順境の人の警戒すべき危険
①傲慢になりやすい
②仕事を怠りやすい、本も読まなくなる
③恩を忘れやすい
④不平家となりやすい
⑤調子にのりやすい
・人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基。いかりは敵と思え。勝つことばかり知って、負くることをしらざれば、害その身にいたる。おのれを責めて、人を責めるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。徳川家康
・人生禍福の境地は、すべて、おのが心からつくり成すものなる
・明治天皇御製 波風の静かなる日も船人(ふなびと)は、梶に心を許さざらなむ
・処世の根本原因 根本的動機を確定しなければ、目前の問題が起こるごとに常にぐらぐらと動揺してしまう
・弘法大師 あししとも、よしとも、いかに、いいはてん、をりをりかはる人の心を
・この道はこうだということを知っていれば、眼がみえなくても、入る道を間違えない
・道といふ、ことばに迷ふことなかれ、あさゆう、おのが、なすわざと知れ 至道無難禅師
目次
序
総説
第1章 青年の特性
第2章 青年の立志
第3章 職業の選択
第4章 決心の継続
第5章 勇気の修養
第6章 克己の工夫
第7章 名誉に対する心がけ
第8章 貯蓄
第9章 余が実験せる読書法
第10章 逆境にある時の心得
第11章 順境にある時の心得
第12章 世渡りの標準
第13章 道
第14章 黙思
第15章 暑中の修養
第16章 暑中休暇後の修養
第17章 迎年の準備
解説
ISBN:9784044002237
出版社:KADOKAWA
判型:文庫
ページ数:480ページ
定価:1080円(本体)
発売日:2017年06月25日初版発行 -
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約100年前に刊行された『修養』『自警』から、東日本大震災後に逆境に立ち向かう全ての人に向けて2011年に編集されていますが、現代でもその内容は少しも色褪せる事なく、多くの気づきを与えてくれます。
逆境は全ての人にある。得意の絶頂にある人にも大統領の地位にある人にも、必ず自分の思い通りにならないことがある。この自分の思い通りにならない事には二種類ある。つまり、天の授けるものと自分が作り出すものである。
前者は運命と称され、後者は自業自得と言われる。二種類の禍いのうち人生でどちらが多いかといえば、自ら作り出すものの方がはるかに多い。ただ人は普通、なぜ逆境に陥ったかを良く考えないから、天を怨んだり他人を怨んだりするのだ。知恵が少ない人ほど罪を他人に転嫁する事が多い。
逆境も善用すれば、修養のための大きな糧となり、順境に到達する手段となる。
逆境の時、一歩退いて、さて、この先は・・・と考えれば、前途が少しは見え、光も希望も認められるはずである。もう少しつま先立ちをして前を見る事が大事だ。
逆境を善用する方法
1.悲しみを共にするという同情心
2.他人の欠点を許す寛容さ
3.不幸の中に一条の光を見出す感謝の念
4.逆境は自他に対する試金石
5.逆境から得られる超俗的修養
順境にあるとついつい油断が生まれる。
人生の禍福は全て自分の心が作り出す。
人生の4つの力を貯蓄する
1.金銭、2.体力、3.知識、4.精神力
最も大切なのは『徳』の貯蓄をする事だ。
人生の決勝点を高いところに置き、自分に克つことが大事。 -
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武士道という日本国民に根づく思想を体系化した唯一の思想書。
武士道は日本人の中に深く根付いている考えであるが、教義もないため成文化されていない。権力を持っている者ほど質素に自分を律して生きなければならないという武士の考えが根底にある。
武士道の根幹を成すのは「義」である。これは過去の偉人である西郷隆盛や吉田松陰にも表れており、不合理だとしても正義を通すことである。自分への不都合や時には生命よりも自分に対する信念、正義を優先させる。これは切腹という文化にも表れている。
自分の利益よりも正義を優先する「義」が最も難しく、それを武士は常に守ることを要求されてきた。それにより育まれ、それを見ていた大衆にも伝わったのが武士道である。
富や名声よりも「名誉」を最も重んじる武士道、この信念を資本主義の中でも忘れてはならない。世相も変わってきており、軽視されつつあるがそれこそが日本人の持つ誇らしき思想であると感じる。
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この本は日清・日露戦争中、日本の武士道精神を西洋に紹介することで、日本の国際的地位向上を図ることが狙いで、いわば「広報」的な目的を持って書かれた本。
世界で日本といえば「サムライ」という言葉が出てきますが、この本によるものだったのですね。
なんならこの本によってルーズベルトが日本びいきになり、日露戦争の調停役になったというのだから胸熱。『武士道』の「その功績、三軍の将に匹敵する」と後書き解説にも書いてあります。そんな本をすっかり平和な時代の日本で読んでいる、というのも感慨深い。。。
ちなみに岡倉天心の『茶の本』も同じ時期に日本の文化や精神性を広めるために書かれている本です。日本が近代化を進め世界と対等になるために、自国の文化を発信する。海外の技術や文化をなんでもかんでも取り入れていただけではなかったんですね。
ちなみに『武士道』は「切腹」など海外から見たら独特に見える作法の元となる考え方を、海外で有名な書籍などから同じもの(あるいは対比できるもの)を引用して説明しているので、海外の人からも分かりやすかったと思います。
切腹の様子を描写しているところはぜひ読んでみてください。「はわぁゎぁ〜(T ^ T)」となります。 -
Posted by ブクログ
新渡戸稲造氏が1900年に英語で出版したBushidoを、1938年に矢内原忠雄氏が日本語に訳したものですが、本書ほど欧米における日本理解を促進させた本はないのではないかと思われるほど重要な本だと思います。新渡戸氏は主要読者が英米国人ということ、かつ本人がキリスト教徒ということもあって、武士道の考え方をキリスト教との比較、あるいは古代ギリシャ、ローマ、あるいはシェイクスピアなど英米文学の巨匠の言葉を参照しながら解説しています。そのためか日本人であれば相当の高い教養がないと全文を理解するのは困難なのですが、本書を読んで腹におちるところが多々あり、武士道の思想は現代日本においても生きている、と断言できることも確かです。1回だけ読むのではなく、何度も読めば読むほど味が出て理解が深まる本です。
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Posted by ブクログ
義理の解説に納得するものです。
キリスト教文化圏の人が「愛」を動機として為すべき、と教えられ身に付けている家族や隣人への行為を、
日本人は、たとえ愛が不足している場合でも「義理」を感じて実践する事が出来る。
と、僕は理解しました。
逆に言うと、日本人に「愛」を求めるのには無理があると思いました。
例えば、「義理」として家族の看病をする日本人に、「愛」を以て看病をしろ。と求めると、少々酷なように思います。
義理として看病するにしろ、
愛情をもって看病をするにしろ、
実際のところは同じ事をしているのですから、あえて
「愛情を以て接しなさい。」
と言う必要は無いと思います。
アメリカのテレビドラマなどを観ていると、恋人同士は頻繁に言葉で愛情がある旨を発言し、確認しています。
本書を読むと、
「なるほど、キリスト教文化圏で育った人は、家族や近しい人へ接する際には、根拠として愛が必要で、それを表現する訓練をしながら育ち、平然と表現できるのだな。」
と理解出来ました。
ただし、これを日本人に求めるのは、やはり無理だと思います。
例えば、しばしば
「子供に愛情がわかず悩む」
と親の嘆きを耳にしますが、
僕はそんなときに
「日本人なら当然です。愛情が沸かずとも、義務として接してあげましょう。」
とアドバイスをするとずいぶんと楽にしてあげられるのではないかと思うのですが、いかがでしょう。
家事や、家計のための収入を得るための仕事を、
義務として為しているときに、
もし愛情の裏付けに不安を持った時には、是非とも思い出したいものです。
「愛」の裏付けを必要とするのは、キリスト教の文化で育った人の考えで、
あらかじめそのように育てられた人にしか出来ないもので、
日本人は「義務」として世話をすれば良いのだ、と。
もし、「愛」があるのか?と疑問に思ったら、それはアメリカのテレビドラマの見過ぎだ、と気づきたいものです。