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「矢内原忠雄」の「イエス伝 マルコ伝による」「武士道」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「矢内原忠雄」の「イエス伝 マルコ伝による」「武士道」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
ビジネス・実用
Posted by ブクログ
宗教教育が公にほとんど行われない現代の日本において、なぜこれほどまでに規律や倫理観が保たれているのか——。この問いに対して、新渡戸稲造が1900年に『武士道(Bushido: The Soul of Japan)』を通じて世界に放った答えは、今なお色褪せない強烈な説得力を持っていますね。
武士道は単なる「戦いの技術」ではなく、日本の伝統的な精神の拠り所であり、西洋の「騎士道」や「キリスト教の倫理」に匹敵する、高度な道徳体系です。
武士道を作り上げた3つの源流
新渡戸は、武士道がゼロから降って湧いたものではなく、日本人の心に古くからあった3つの要素がミックスされて生まれたと説明しています。
仏教(運命を受け入れる心): 運命に身を委ねる平穏な心、生への執着を捨てる精神、不可避なものへの従順さを与えました。
神道(祖国愛と敬意): 祖先への崇拝、国や主君への忠誠心、そして「人間は本来、神聖で清らかなものである」という本源的な自己信頼を植え付けました。
儒教(人間関係の倫理): 5つの道徳関係(五倫:父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)を通じて、社会的な責任や上下関係、倫理的な行動規範を体系化しました。
これらが数百年におよぶ封建制という土壌の中で醸成され、特権階級である「武士」のプライド(高潔さへの義務)と結びついたものが武士道です。
7つの徳と「克己」「女性の武士道」の真髄
整理していただいた7つの徳とそれを取り巻く精神は、現代の私たちが日常で直面する葛藤にも明確な指針を与えてくれます。
1. 義(ぎ)
武士道の骨格であり、最も厳格な徳です。新渡戸はこれを「人の体に骨があるように、義がなければ首も正しく保てず、手も動かせない」と言い表しました。ずるさや打算を嫌い、人として「何が正しいか」という絶対的な物差し(軸)を持つことです。
2. 勇(ゆう)
ただ命を捨てることや、無謀に突っ込むことは「犬死に」であり、勇気とは呼びません。義(正義)のために行動すること、そして正しいことのために耐え忍ぶこと(忍耐)が本物の勇気です。お書きの通り「義を見てせざるは勇なきなり(正しいと知りながら行わないのは、勇気がないからだ)」という言葉がその核心です。
3. 仁(じん)
他者への慈しみ、憐れみの心です。力を持つ者が溺れることなく、弱者をいたわる心の広さであり、新渡戸はこれを「王者の最高徳目」と位置づけました。
4. 礼(れい)
礼儀とは、単なる形だけのマナー(作法)ではありません。「他者の気持ちに対する思いやりが、外側ににじみ出たもの」こそが本当の礼です。究極の礼は、相手を不快にさせないという深い優しさ(品格)から生まれます。
5. 誠(まこと)
文字通り「言ったことを成す」ことです。武士の言葉には重みがあり、契約書や証文がなくとも、言葉そのものが真実(至誠)でなければなりませんでした。嘘をつくことは名誉を失うことと同義だったのです。
6. 名誉(めいよ)
自己の尊厳であり、恥を知る心です。武士にとって「名誉ある死」とは、人生の最期にそれまでのすべての徳(義・勇・仁・礼・誠)が結実した瞬間を指します。自分の命よりも、人としての誇りを守ることを重んじました。
7. 忠義(ちゅうぎ)
自分勝手な利益のためではなく、公(主君、社会、国家)のために尽くすことです。ただし、盲従ではありません。主君が間違った道に進もうとしたとき、命を賭してそれを諫める(正す)ことも忠義に含まれていました。
克己(こっき)の重要性
これら7つの徳を支えるのが「克己(自分の感情や欲望に打ち勝つこと)」です。武士は、どんなに悲しくても、どんなに苦しくても、それを表に出して周囲を動揺させることを恥としました。常に平静でいること(心の平安)を保つための厳しいトレーニングが克己でした。
女性の武士道
新渡戸は女性の武士道についても一章を割いています。当時の女性は、表舞台に立つ武士を陰で支え、家を守り、子供に武士の精神を教育する役割を担っていました。自分のわがままや平穏を捨て、家族(ひいては社会)のために自己犠牲を厭わない姿勢は、男性の武士道に勝るとも劣らない気高き精神として賞賛されています。
宗教批判ではない:キリスト教との共通性
「決して宗教批判ではない」という点は、新渡戸がこの本を執筆した最大の動機でもあります。
熱心なクリスチャンであった新渡戸は、西洋の友人から「日本には宗教教育がないのに、どうやって道徳を教えているのか?」と聞かれ、答えに窮したことから本書を執筆しました。
新渡戸は、キリスト教の「愛」や「正義」といった普遍的な真理は、形を変えて日本の「武士道」の中にも息づいていると証明したかったのです。聖書の教えが西洋人の血肉となっているように、神道や仏教、儒教が溶け込んだ武士道は、日本人の血肉(侍魂)となっています。
形を変えたグローバル化や西洋文化の流入によって、外見や生活様式はどれだけ変わろうとも、私たちが災害時に暴動を起こさず秩序を守り、他者を思いやり、嘘を恥とする精神のバックボーンには、間違いなくこの「武士道」の遺伝子が流れています。
「武士道は、その象徴である桜の花のように、風が吹けば散ってしまうかもしれない。しかし、その香りは日本の空気に永久に漂い続け、人々を魅了するだろう」
—— 新渡戸稲造『武士道』より
Posted by ブクログ
武士道とは何なのか?といわれたらどう答えるか。新渡戸稲造の武士道は日本人の精神のあり方を外国人に向けて体系的に説明した書物であるということ。
武士道は武士の精神であるどころか、日本人の振る舞いや考え方に深く影響している。ハラキリだけが武士道ではない。日本人の優しさや協調主義は武士道に根ざしている。日本は災害が起きても暴動が起きづらい。これは一意に他者を慮る精神があるからだ。
例えばアメリカでは贈り物をあげるとき、贈り物のすばらしさを説明する。日本では贈り物が受け取り手の価値よりも低いというやうに下げて説明する。
背景には仁、謙譲や礼といった価値観があるからだ。
Posted by ブクログ
今年2024年で、書かれたのは1899年(明治32年)。
125年前のこと、しかも38歳の時。
この時代に世界中の文学を勉強をし、そして日本の精神の根本にあるものは何であるのかを、実際にあったことに触れて、またヨーロッパの歴史や文学を引用して描き出されている。この本で日本人の精神道徳の成り立ちが世界的に一段と広まったのだろう。
あなたの宗教は何ですか? と問われたら
私は一応 仏教です、と答えるが、日本人の根本にあるのは、封建制度の武士道から裾にひろがった精神なんだと、改めて気が付いた。
桜を愛でる日本人で良かったな、と思う反面、果たして今の日本人は何処にいる? 何人いる?と探している。そして日常生活の中で傲慢になっている謙虚のなさをも反省もしている自分がいる。
新渡戸稲造さんの本 もっと探してみよう!
Posted by ブクログ
新渡戸稲造氏が1900年に英語で出版したBushidoを、1938年に矢内原忠雄氏が日本語に訳したものですが、本書ほど欧米における日本理解を促進させた本はないのではないかと思われるほど重要な本だと思います。新渡戸氏は主要読者が英米国人ということ、かつ本人がキリスト教徒ということもあって、武士道の考え方をキリスト教との比較、あるいは古代ギリシャ、ローマ、あるいはシェイクスピアなど英米文学の巨匠の言葉を参照しながら解説しています。そのためか日本人であれば相当の高い教養がないと全文を理解するのは困難なのですが、本書を読んで腹におちるところが多々あり、武士道の思想は現代日本においても生きている、と断言できることも確かです。1回だけ読むのではなく、何度も読めば読むほど味が出て理解が深まる本です。
Posted by ブクログ
義理の解説に納得するものです。
キリスト教文化圏の人が「愛」を動機として為すべき、と教えられ身に付けている家族や隣人への行為を、
日本人は、たとえ愛が不足している場合でも「義理」を感じて実践する事が出来る。
と、僕は理解しました。
逆に言うと、日本人に「愛」を求めるのには無理があると思いました。
例えば、「義理」として家族の看病をする日本人に、「愛」を以て看病をしろ。と求めると、少々酷なように思います。
義理として看病するにしろ、
愛情をもって看病をするにしろ、
実際のところは同じ事をしているのですから、あえて
「愛情を以て接しなさい。」
と言う必要は無いと思います。
アメリカのテレビドラマなどを観ていると、恋人同士は頻繁に言葉で愛情がある旨を発言し、確認しています。
本書を読むと、
「なるほど、キリスト教文化圏で育った人は、家族や近しい人へ接する際には、根拠として愛が必要で、それを表現する訓練をしながら育ち、平然と表現できるのだな。」
と理解出来ました。
ただし、これを日本人に求めるのは、やはり無理だと思います。
例えば、しばしば
「子供に愛情がわかず悩む」
と親の嘆きを耳にしますが、
僕はそんなときに
「日本人なら当然です。愛情が沸かずとも、義務として接してあげましょう。」
とアドバイスをするとずいぶんと楽にしてあげられるのではないかと思うのですが、いかがでしょう。
家事や、家計のための収入を得るための仕事を、
義務として為しているときに、
もし愛情の裏付けに不安を持った時には、是非とも思い出したいものです。
「愛」の裏付けを必要とするのは、キリスト教の文化で育った人の考えで、
あらかじめそのように育てられた人にしか出来ないもので、
日本人は「義務」として世話をすれば良いのだ、と。
もし、「愛」があるのか?と疑問に思ったら、それはアメリカのテレビドラマの見過ぎだ、と気づきたいものです。