宮下遼のレビュー一覧
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ネタバレ『藪の中』in イスタンブール。
そこに芸術論と文明論が差し込まれている。モザイク画を見ているような印象を受けるのは、語り手が章ごとに異なるから。
もしかしたら登場人物全員、実は挿絵の中に描かれた絵で、写本の読み手に話しかけている、という趣向の小説なのかも。
この作品が成功しているのは、作中で語られる「一人称視点」の問題が構成とストーリーの両方に深く関係しているからだと思う。
小説において「三人称」は「神の視点」、「一人称」は「個人の視点」というのは論を待たないだろう。この小説では一つの出来事が「一人称」で語られるために、いつまで経っても真実が明らかにならない。それぞれの人物に、それぞれの真実が存在するように書かれているからだ。まさに絵画で言う「遠近法」の技法が、この作品のミステリーを多層構造に仕立てている。しかも、その「遠近法」は、魅惑的であると同時にイスラム世界の絵画観を破滅に追いやる禁術だとして語られ、その禁術をめぐって殺人が繰り返されていく。
とストーリーや仕掛け、文明観や芸術論と読みどころは満載なのだけれど、いかんせん、登場人物たちの興味関心がシモすぎて食傷気味。なので、⭐︎4つ。『千一夜物語』が最初に西洋に紹介された時はほぼポルノ扱いだったって何かで読んだ気がするけど、わざとそういう印象になるようにしてるのかなぁ?西側(西欧近代小説を聖典と崇める近代作家の作品をお手本として読まされている、大多数の現代日本人含む)の価値観で読むとそうなるでしょ?的な問いかけ??
下巻を読んでもうちょっと考えてみよう。 -
Posted by ブクログ
いや、これきたね。上巻読み終わった時は、音読したら文字が途切れず酸欠になるほどの圧倒的文字量と、のべつまくなし面倒くさすぎる登場人物に心折れそうになるも、ジワジワくるものあり、下巻を時間を空けて読み始めたら、まぁ、これがのっけから、上巻の凪がいっきにぐらんぐらんと大きな渦になって、あれれって間に巻き込まれちゃって、どんどこ先が読みたくなって、あれよあれよと完読してしまった。
誰が殺人を犯したかとか、東西の相克とか、そんなんはどうでもよくなって、坩堝な地相のイスタンブールそのものの物語として、その甘美で残酷な美を堪能しようではないか、なんてな。 -
Posted by ブクログ
芥川賞や直木賞なんて世界の文学賞のうちに入るのだろうか?日本の作家が書いた日本語の小説しか対象になっていないのに。なんてことを思ったけれども、読んでみました。今年も話題になっているのは、もちろんノーベル文学賞。村上春樹さんがとるかどうか、メディアで騒がれました。この本を読むとわかるのですが、その根拠になっているのがカフカ賞。この賞をとった人が二人、ノーベル文学賞をダブル受賞しているんだそうで、まだ受賞してないのが村上春樹なんだそうです。カフカ賞はチェコ語の翻訳が一冊は出ていないと受賞できないそうで、村上春樹がとった2006年は『海辺のカフカ』が翻訳された年。タイトルがよかった?
そのノーベル文学賞。世界的に開かれているような気しますが、実はヨーロッパの主要言語しか読めない人が選考委員なので、そうした言語で書くか翻訳版が優秀であること、北欧諸国出身だとさらに有利、とのこと。タイトル関連でいうなら『ノルウェイの森』に分がありそうなものだが、どうなっているんでしょう。それはさておき、8大文学賞として取り上げているのは次の賞です(開始年)。ちなみに、受賞対象が作品になっているのが、*のついている賞で、何もついていないのが、作家に与えられる賞です。<>内が本書で取り上げている作家名。
ノーベル文学賞(1901年)<アリス・マンロー、オルハン・パムク、V.S.ナイポール>
ゴンクール賞(1903年)*<マルグリット・デュラス、ミシェル・ウェルベック、パトリック・モディアノ>
ピュリツアー賞(1918年)<ジュンパ・ラヒリ、スティーヴン・ミルハウザー、E・P・ジョーンズ>
芥川賞(1935年)*<黒田夏子、小野正嗣、目取真俊>
直木賞(1935年)*<東山彰良、船戸与一、車谷長吉>
エルサレム賞(1963年)<J・M・クッツェー、イアン・マキューアン、イスマイル・カダレ>
ブッカー賞(1968年)*<ジョン・バンヴィル、マーガレット・アトウッド、ヒラリー・マンテル>
カフカ賞(2001年)<フィリップ・ロス、閻連科、エドュアルド・メンドサ>
この本は、都甲幸治さんを中心に、「小説家や書評家、翻訳家など本にまつわる様々な職業の人々に、一つの賞につき一冊ずつ、合計二四冊読んでもらい、全てを読んだ上、鼎談の形で論じてみたもの」。談話形式なので、口調がくだけていてとても読みやすい。鼎談の間には、都甲さんと、僕が翻訳本を選ぶ時の目安にしている翻訳家のひとりの藤井光さんのコラムもある。外国文学って、よく分からないけど、どんな本があるのだろうと考えている人には役に立ちそう。
で、はなから外国文学好きの人たちには、もっと面白いんじゃないかな。というのも、それぞれの賞の特徴についてふれたあと、その賞の受賞者たちの小説について三人が語るんだけれど、選ばれている作家の顔ぶれが、いいんです。今までにたくさんの人が受賞しているはずだけれど、この人たちを選んでくるあたりがすごいな。本当に本のことがよく分かっていて好きなんだなあ、と思います。
それぞれの賞につけたタイトルが、その賞の特徴を表していると思うので、下手に解説するより、それを紹介します(日本の賞は省略)。「これを獲ったら世界一?」(ノーベル賞)、「当たり作品の宝庫」(ブッカー賞)、「写真のように本を読む」(ゴンクール賞)、「アメリカとは何かを考える」(ピュリツアー賞)、「チェコの地元賞から世界の賞へ」(カフカ賞)、「理解するということについて」(エルサレム賞)。
今年ノーベル文学賞の受賞者に選ばれたボブ・ディランから音沙汰がないので、財団はさぞ気を揉んでいることだろうと思います。それもこれも、この賞の選考基準としていちばん全面に押し出しているのが「人類にとっての理想を目指す、世界でも傑出した文学者」というものだからです。「最近の受賞者の傾向を考えると、どうやらこの「人類にとっての理想」というのは、「人権擁護」や「国内で迫害されている人を描く」という意味」らしい。で、ボブ・ディランなわけです。そんなノーベル文学賞ですが、都甲さんがこう言っています。
今回紹介する三人はある意味「間違って獲っちゃった」人たちです(笑)。マンローはカナダのド田舎に住んでる普通のおばさんだし、パムクは『無垢の博物館』(早川書房、全二巻)のように変態的な話を面白く書く人だし、ナイポールはそもそもどの国の作家だと言いきれない。ノーベル文学賞を獲った立派な国民文学作家について国別対抗で語り合うんじゃなくて、「ノーベル文学賞獲ったにも関わらず、別の理由でいい作家です」という人たちを紹介したいです。
すべてにおいてこの調子。マンローもパムクもナイポールも、けっこう読んでいるので、都甲さんの言いたいことはよく分かる。特にマンローはすごい。「短篇一本を読んだだけで、長篇を一冊読み切ったくらいの気持ちにさせてくれる」(都甲)という評がすべてを語ってくれています。本当にその通り。パムクについて訳者の宮下遼さんがいう「それだけで短篇、中篇になりそうな話を、一つの長篇のなかに惜しげもなくいくつも投入していく気前のよさが、僕は好きです。こんなに西欧風な人間のくせに、そこだけトルコ的な御大気質を感じてしまって。ディテールの作り込まれた奇想こそが、物語の要諦だと思います」というのもまさにその通り。
この調子で紹介していると引用だらけになりそうなので、このへんでやめますが、ブッカー賞のところで、ジョン・バンヴィルの文章についていい話があります。毎日九時から一八時までオフィスで執筆に専念し、一日英語で二百語書けたらその日は成功だというのです。「バンヴィルはベンジャミン・ブラックという別名でミステリーも書いていますが、その時はパソコンを使って書くそうです。そのときは筆が速いらしい。バンヴィル名義は手書きで、極端に遅くなる」(都甲)。このこだわりがあの美しい文章を生むのですね。ブラック名義でチャンドラーの名作の続編を書いた『黒い瞳のブロンド』。チャンドラーには及びもつかないけど、ミステリとしてはけっこういけますよ。 -
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(承前)対立するのは、イデオロギーだけではない。親友と従兄弟、妻ライハと義妹サミハ、首都イスタンブルと故郷アナトリア、無神論と神秘主義、進学と就業、と数え上げていけばきりがないほど、メヴルトは相反するものの間に立たされる。あちらを立てればこちらが立たないという二律背反状況をどうさばいて見せるか、というのがこの小説の見所だ。どちらかといえば、さばくどころか、あっちへよろよろ、こっちへよろよろと腰の定まらないメヴルトの迷走ぶりを面白がるという方があたっているが。
よくよく考えてみれば、メヴルトが肩に担いでいる担ぎ棒はその両側に盥を吊るしている。荷の重さで片側に傾けばまともに担ぐことはかなわない。どちらの方にも均等に力が伝わるようにバランスをとるのが、この商売の秘訣だ。そうしてはじめてイスタンブルの迷路のような道を好きなように歩くことができるというもの。肩に担ぎ棒を担いだボザ売りの立ち姿は、メヴルトの人生の比喩なのだ。そして、それは東西文明の中間に位置するイスタンブル或はトルコという国の姿でもある。
そう考えてみると、このアナトリアからイスタンブルへ出てきたボザ売りの人生を描いた通俗的な小説が、トルコという国の宗教や政治、因習的な家族関係、賄賂が横行し、やくざやマフィアが暗然とした勢力をふるう首都、などの深刻な話題を語る寓意的な小説にも見えてくる。どこの国にもそんな時代があるのだろうが、王政から共和政へと舵を切り、脱イスラムの旗を掲げ、西欧化へと突き進んできた現代トルコの状況は、敗戦後、新憲法の下、ひたすら先進国に追いつけ追い越せ、と走り続けてきた日本の姿にも重なって、他人事のようには思えない。
登場人物に纏わる挿話に活動家の暗殺や軍事クーデターといった史実を交えながら、メヴルトをとりまく状況は刻一刻と変化してゆく。駆け落ち後、義父に許され、めでたくライハと結婚したメヴルトには、娘も生まれる。サミハとの結婚を望んだスレイマンだったが、そのサミハはタクシーで乗りつけた男たちによって誘拐されてしまう。サミハをさらったのは民族主義者の襲撃事件以来姿を消していたフェルハトだった。二人の結婚によって、メヴルトとライハの間にサミハが入り込んでくる。
妻を熱愛しているメヴルトだが、フェルハトとはじめたスタンドでのボザ売りを姉妹が手伝うようになると、サミハが気になって仕方がない。ライハはライハでスレイマンから夫が恋文を書いていた相手は妹だったことを聞かされ、嫉妬に苦しむ。「妹に恋して姉と結婚した男」と皆から陰口されているメヴルトは自分につきまとう違和感について尊敬する導師に相談したいと思うのだが、導師の言葉によってもそれは解消しない。
小説や物語はあることをきっかけとして何かが変容することの仔細を描く。教養小説なら主人公はストーリーの進展と共に人間的に成長を遂げるところだが、メヴルトは変化しない。メヴルトを愛して止まない人々は彼を愛することで悩んだり苦しんだりするが、メヴルト自身は心の裡に違和感を抱きながらボザを売り続けるだけだ。むしろ変化してゆくのはイスタンブルの街だ。観光客がよく歩く旧市街は別として、アナトリア各地やその他の隣国から流入してくる人々で首都の人口は増大し、住宅地が急増。一夜建ての粗末な家は建て増しに次ぐ建て増しの果てに取り壊され、高層ビルが建ち、かつてメヴルトが住んでいたあたりはスラム化する。
今やハサンとムスタファの一族は、ボスフォラスの海を見渡す高層住宅の住人となっている。そこを一人抜け出し、メヴルトは今宵もまたボザ売りに出かけてゆく。人の心をかきむしるような彼の売り声を待つ人々のために。ゲニウス・ロキ(地霊)というものがある。変わり続けてゆくイスタンブルの裏町を昔ながらのボザ売りの売り声を響かせながら歩いてゆくメヴルトこそは政治や宗教によってその都度変化する国家ではない、開闢以来変わらない土地としてのトルコの地霊なのではないかと思えてくるのである。 -
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“わたしたちは他人の苦悩であるとか、愛であるとかを理解することが、果たしてできるのだろうか?自分よりもなお深い苦悩を抱え、貧困にあえぎ、虐げられる人々を理解することができるのだろうか?”
作中で問いかけられるこの言葉について考える。
そして舞台である中東の情勢や、宗教などについて自分はまだまだ知らないことが多く、理解するにはほど遠いことを思い知る。それでも、知らないことに気付き、考え、知ろうとするきっかけをこの本に与えてもらえたと思う。
灰色に沈む雪に閉ざされた街の陰鬱さが、何故か美しく思えてしまった。
雪と共にKaに詩想が舞い降りたのだろうなぁ。 -
Posted by ブクログ
上巻の「赤」が恍惚として扇情的で、色鮮やかな原色の「赤」だったとしたら、下巻の「赤」は暗く、深く、いくつもの色が混ざり合った「赤」なのだろう。
幾つもの血が流され、混じり合い、赤は濃さを増していく。トルコという地で東と西が混ざり合い、16世紀という時代に旧い様式と新しい手法が交わり合ったみたいに。
『お前はどうして純粋であろうとする? わたしたちのようにここに留まれ。そして交わり合うんだ』
一つの文化が失われていく瞬間が、一人の絵師の死という形で語られているように思った。その絵師に掛けられるこの言葉は、混じり合う文化の中で失われてしまった「細密画」そのものへの哀惜と追悼の辞に思える。
今度の休みには美術館に行ってみようかな。
近くに細密画が見られるような所があればいいんだけど。