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ライハと駆け落ちをしたメヴルトは、日中は様々な仕事をしながらも、あいかわらず冬の夜はボザを売りに出かけていた。イスタンブルとその住民、そしてトルコに訪れる変化を路上から目撃しながら、彼は長年抱き続ける、自分と世界についてのひそかな違和感について思いをめぐらす――この違和感はいったい何から生まれたのだろう?
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Posted by ブクログ
(承前)対立するのは、イデオロギーだけではない。親友と従兄弟、妻ライハと義妹サミハ、首都イスタンブルと故郷アナトリア、無神論と神秘主義、進学と就業、と数え上げていけばきりがないほど、メヴルトは相反するものの間に立たされる。あちらを立てればこちらが立たないという二律背反状況をどうさばいて見せるか、とい...続きを読むうのがこの小説の見所だ。どちらかといえば、さばくどころか、あっちへよろよろ、こっちへよろよろと腰の定まらないメヴルトの迷走ぶりを面白がるという方があたっているが。 よくよく考えてみれば、メヴルトが肩に担いでいる担ぎ棒はその両側に盥を吊るしている。荷の重さで片側に傾けばまともに担ぐことはかなわない。どちらの方にも均等に力が伝わるようにバランスをとるのが、この商売の秘訣だ。そうしてはじめてイスタンブルの迷路のような道を好きなように歩くことができるというもの。肩に担ぎ棒を担いだボザ売りの立ち姿は、メヴルトの人生の比喩なのだ。そして、それは東西文明の中間に位置するイスタンブル或はトルコという国の姿でもある。 そう考えてみると、このアナトリアからイスタンブルへ出てきたボザ売りの人生を描いた通俗的な小説が、トルコという国の宗教や政治、因習的な家族関係、賄賂が横行し、やくざやマフィアが暗然とした勢力をふるう首都、などの深刻な話題を語る寓意的な小説にも見えてくる。どこの国にもそんな時代があるのだろうが、王政から共和政へと舵を切り、脱イスラムの旗を掲げ、西欧化へと突き進んできた現代トルコの状況は、敗戦後、新憲法の下、ひたすら先進国に追いつけ追い越せ、と走り続けてきた日本の姿にも重なって、他人事のようには思えない。 登場人物に纏わる挿話に活動家の暗殺や軍事クーデターといった史実を交えながら、メヴルトをとりまく状況は刻一刻と変化してゆく。駆け落ち後、義父に許され、めでたくライハと結婚したメヴルトには、娘も生まれる。サミハとの結婚を望んだスレイマンだったが、そのサミハはタクシーで乗りつけた男たちによって誘拐されてしまう。サミハをさらったのは民族主義者の襲撃事件以来姿を消していたフェルハトだった。二人の結婚によって、メヴルトとライハの間にサミハが入り込んでくる。 妻を熱愛しているメヴルトだが、フェルハトとはじめたスタンドでのボザ売りを姉妹が手伝うようになると、サミハが気になって仕方がない。ライハはライハでスレイマンから夫が恋文を書いていた相手は妹だったことを聞かされ、嫉妬に苦しむ。「妹に恋して姉と結婚した男」と皆から陰口されているメヴルトは自分につきまとう違和感について尊敬する導師に相談したいと思うのだが、導師の言葉によってもそれは解消しない。 小説や物語はあることをきっかけとして何かが変容することの仔細を描く。教養小説なら主人公はストーリーの進展と共に人間的に成長を遂げるところだが、メヴルトは変化しない。メヴルトを愛して止まない人々は彼を愛することで悩んだり苦しんだりするが、メヴルト自身は心の裡に違和感を抱きながらボザを売り続けるだけだ。むしろ変化してゆくのはイスタンブルの街だ。観光客がよく歩く旧市街は別として、アナトリア各地やその他の隣国から流入してくる人々で首都の人口は増大し、住宅地が急増。一夜建ての粗末な家は建て増しに次ぐ建て増しの果てに取り壊され、高層ビルが建ち、かつてメヴルトが住んでいたあたりはスラム化する。 今やハサンとムスタファの一族は、ボスフォラスの海を見渡す高層住宅の住人となっている。そこを一人抜け出し、メヴルトは今宵もまたボザ売りに出かけてゆく。人の心をかきむしるような彼の売り声を待つ人々のために。ゲニウス・ロキ(地霊)というものがある。変わり続けてゆくイスタンブルの裏町を昔ながらのボザ売りの売り声を響かせながら歩いてゆくメヴルトこそは政治や宗教によってその都度変化する国家ではない、開闢以来変わらない土地としてのトルコの地霊なのではないかと思えてくるのである。
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