『100分de名著』で取り上げられた川島隆氏の新訳。
ある朝目覚めたら、巨大な虫に変身していたグレゴール。虫になった理由も、回復の方法もわからない。無論仕事にも行けない。一体彼はどうするのか…?
ものすごく大変な出来事に遭遇しているのに、グレゴールが淡々と落ち着いているのがシャープで怖い。彼が気
...続きを読むにするのは、もっぱら遅刻した出張や、実家の借金や、妹の進路であって、自分の変身の回復法ではないのだ。まずそこで、私たちは驚き、この作品に釘付けになる。
まるで身体障害のある人を急に抱えた家族のような様相を呈する家族たち。困惑するなという方が無理な、想像し難い現実に、一家はかつての和やかな家庭から、貧しい家庭に変貌し始める。
嫌々世話をしながら、だんだんグレゴールは疎外される。ついに彼は、父親が反射的に投げたりんごで大怪我をし、誰にも見捨てられて衰弱死する。
りんごが、グレゴールに対する社会的追放の鉄槌であり、家具の剥奪が、彼が『人間であった』ところから、ものの役に立たない生き物へ、その立場が転落させられるのが、無情であり、無常でもある。まだ彼には、美しい絵に心惹かれ、妹のヴァイオリンに思いを寄せる知性があるというのに、それは誰にも気づかれず、顧みられることがない。淡々と滑稽味さえにじませて描かれているが、なんと絶望的な悲劇だろうか。もっと怖いのは、読んでいるこちらまで、淡々と事態を観察していることだ。ふと気づいた自分の眼差しが恐ろしいのだ。だが、衝撃はそこで終わらない。
虫に変わってしまった家族の一員を持て余すのは想像できるとしても、後半に妹がグレゴールを放逐することを提案するところ、鈍器で殴られたような驚きが走る。
グレゴールが家族を『いじめて』いるというのだ。虫に変身した責任は、グレゴールにはない。不慮の事態だし、基本彼は身を隠している。それでも、ヴァイオリン、いや、愛妹に心惹かれて、団らんの場に思わず出てきてしまっただけなのに。『いじめるばかり』と非難されるとは。たった数行の妹のセリフの、破壊力といったら。解釈や鑑賞を、一瞬吹き飛ばす衝撃がある。
グレゴールの死後の家族の外出が、輝かしく楽しげでヨーロッパ的近代市民層の典型的憩いの姿で描かれているのも、冒頭からずっとモノクロームの世界だったところに、急に色がついて彩りが差したようなのが、また変に美しくて、なんとも言えない気持ちになる。美しいと感じる私が、やはり怖い。
ラスト、絶筆のように幕切れとなる。妹のぐっと伸ばした背。その靴の下で、今しもグレゴールと私が、一緒に踏まれて消えた。彼女の靴底には、もちろん汚れなどついていない。かがやくような豊かな若さがあるだけだ。
実存主義って諸刃の剣。なんて怖いんだろう。この小説に対して『答え』なんて出るのか?あの、読書から来ると思えない殴打感のある衝撃。それが答えではないだろうか。次は『城』読んでみようかな。ヤバい。中毒になりそう。
巻末に川島氏による、懇切な作品解説とカフカについての評伝が付されていて、非常に充実した内容だった。これを読むと、カフカの書簡集も読みたくなるだろう。非常に読みやすく、明晰な訳で、強くお勧めしたい。