平井正穂のレビュー一覧
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トマス・モアといえば映画「わが命つきるとも」を思い出すのですが、ヘンリー8世の離婚に宗教的な信念から最後まで反対し、最後は斬首されてしまいます。そんなモアが1516年(つまり今からおよそ500年前)、38歳の時に執筆したのが本書になります。ユートピアは「どこにも無い」という意味のモアの造語です。
モアの描くユートピアは、当時の絶対王政下の欧州社会のアンチテーゼ的な意味合いとして書かれていますが、完全なユートピアというよりは「限定的な」ユートピアといった方が正しいかもしれません。たとえば市民には自由と平等がありますが、ユートピアにも奴隷がいて、奴隷は動物のと殺などを担当します。また戦争もします。しかし市民はみな十分に生活していけるだけの衣食住を賄っていて、潤沢にモノが存在しているため貨幣交換が存在しません。なぜ潤沢に衣食住が揃っているかと言えば、皆が生産的な活動に従事しているからで、モアによれば宮廷に巣くうおしゃべりだけの人間だけでなく、弁護士すらも不必要な非生産的人間として扱われ、その結果ユートピアにはそれらの非生産的人間は存在していないのです。またモアは貨幣こそが悪徳と害毒の原因であると断罪しています。外国との交易においては金銀が使われますが、ユートピア国にとって金銀は、戦争資金以外の意味を持ちません。同盟国はありませんが自国の人材を首長として受け入れている国は友邦国であり、自国もしくは友邦国が攻め込まれたときなどには金銀をフルに活用して戦争を行います。金銀を用いて敵国内で内紛を起こすのです。
モア自身が非常に信仰心の強いカトリック教徒だったこともあって、モアの描くユートピアでは理性だけが社会を支配しているのではなく、宗教にも寛容です。しかもキリスト教だけでなくあらゆる宗教が「限定的」ではありますが、ユートピア国では認められる。巻末の解説にも書いてありましたが、理性と信仰の両方を融和させようとした点にこそ、実はモアのユートピアの真髄があるのではないかと感じました。その意味では、宗教を排斥した共産主義よりも、よっぽど「ユートピア」であって、文中の奴隷を機械に置き換えれば、十分21世紀の社会に当てはめることが出来るのではないかと感じました。 -
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たまたま入った中古書店で安く売られていたので、購入して読むことにした。
本作を読む前に、ハムレットとマクベスを読んでいたのである程度は作者の傾向というものは理解していたが、本作はこの理解を上回っていた。
シャイクスピアの作品の中では一番好きかもしれないと思っている。
あらすじはあまりにも有名すぎるが、一応簡潔に述べると、絶対に結ばれる環境にない男女の恋の行方を描いた作品だ。
そして、数々の苦難の先に、悲劇的な結末を迎えてしまう。
この結末を迎えるにあたり、まず思うのがここまで人を愛した事があっただろうかということだ。今の常識で考えると、相手に何か瑕疵があったりすると、結婚は無理ですね、という事になりそうだ。しかし、ロミオとジューリエットはどんな障害があっても諦めることはない。このメンタルの強さは見習いたいと思った。
ロレンス神父が何かとこの二人の恋の仲をもっていたのだが、最後の一か八かの賭けのような提案はもっと用意周到に行うべきであり、結果的に二人を死なせてしまう罪は重く、怒られるでは済まされない気がした。
まあ、細かいところを指摘したところで、本作の理解に何か重大な影響が出るわけではなく、全く無意味なのだが一応記載しておく。
全体として、運命への抵抗ということを強く感じた作品だった。生きていく上で、どうしても自分の置かれた環境や、境遇に生き方や考え方を支配されがちになる。しかし、それでも何とかその運命に抵抗していく事により、本当の自分の幸せや人生の目的が見つかるのではないか。こう思った作品だった。 -
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南米のどこぞにある「何もない処」ユートピア
そこの土人は、既製品で皮製の服を與へられるとか、書かれた当初の英国人的に屠畜は調理の醍醐味だと思ふんだけど、ユートピア人は牛を屠る奴隷(はユートピア人一人につき2人宛がはれる)がゐるとか、えーと。
その半月上の島から500マイルの彼方にすさんだところがあって、そこの戦闘民族ザポレットはここの人でないと戦争で使へないとか、他、何ヵ国かの国で当時の英国をDISるらしい。
なので首都っぽいアモ―ロート(暗黒 の意。当時のロンドンぽいんださうで)の近所の川アナイダ川はテムズ川みたいな感じださうであるが、へー。
ラテン語とギリシャ語がぶわーってある上にその
ザポレット=Ready Sellers 進んで身売りするもの
と言ふ解説があってアレ。 -
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ネタバレ「ユートピア」は実際には存在しない架空の場所である。この場所では、頭脳と心の豊かさが高いレベルにある人々が、平和に暮らしている。
印象に残ったところは、金がこの世界では、貴重なものだとして、崇められている。しかし、このユートピアでは金を実用性のない、むしろ鉄に劣るものだとして、醜さ、みすぼらしさの象徴とみなしている。
たしかに、金は取れる量が少なく、量的な貴重さはあるけれども、本質的には価値を見出せないものである。金を身につけて、いきなり人間としての格や品が上がるのはおかしいことである。
また、人々は神から、自然に喜びを感じる肉体や精神のあらゆる状態と運動とを快楽と呼んでいる。
その快楽は、あえて他人与えることによって、回り回って自分にとって大きな快楽として、帰ってくると本書では述べられている。要は、情けは人の為ならずと言いたいのではないだろうか。
健康であることが身体の快楽と説いている。暴飲暴食をするという表面的な快楽を追求して、病気で苦しむよりも、健康という状態こそが一番の快楽である。
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「ユートピア」という言葉は、「空想上の」あるいは「理想的な」という意味で使うことが多いだろう。トマス・モアの造語であるユートピアはギリシア語で「どこにも無い」を意味する。表題の『ユートピア』はどこにも無い国なのである。
『ユートピア』はユートピア国に滞在したラファエル・ヒロスデイが語った見聞をモアが記録したという体裁をとっている。この本の中でモアは共産主義国家であるユートピアを理想国家として描いた。ユートピア国の特徴は様々だが、必要十分な少数の法律を人々が忠実に順守していることや、人々が貨幣をまったく用いずに社会生活を営んでいることはユートピア国に特有な特徴だろう。法制度、例えば刑罰の重さや人々が法律を自ら進んで守るための褒賞の存在などがかなり詳しく述べられている。法律家のモアにとって、(宗教を別として)社会基盤としての法律や法制度の重要性を強調するのは当然のことだったに違いない。
しかしユートピアを「どこにも無い国」にしているのは何よりも、公共の利益と平和を求めるユートピア人の性質なのではないかと個人的には思う。「金銀を汚いもの、恥ずべきもの」と考える人々が個人的に大きな富を所有することは難しいだろう。私有財産に関心のない人々は公共財産の増進に心を砕くかもしれない。「どんな人間でも自分に危害を加えない限り、敵と見なすべきでは」なく、「戦争で得られた名誉ほど不名誉なものはないと考えている」人たちの間では争いも起きず、他国へ戦争を仕掛けることもなく、平和が保たれるはずだ。
ユートピア人のこういった性質はそもそもどこから来ているのか。少なくとも一部は教育の賜物と言えるだろう。しかし教育がなぜ上手く機能しているのかが、非ユートピア人である読者にはなかなか理解できない。他の例として、本書には窃盗犯に対する扱いについての記述がある。窃盗犯は日中に公共の労務を果たし夜は独房で過ごす。「国家の共通の召使い」である彼らにはかなり良い食事が提供され、給与が支払われる。そして給与の財源は「非常に慈悲の心に富んでいる」人々による寄付なのである。教育が慈悲の心をはぐくむことは間違いないが、それだけで十分なのかどうか疑問が残る。非ユートピア人であるヒロスデイア説明の中で何気なく「この方法は不安定なものではありますが」という一言を付け加えているのもうなずける。
ヒロスデイはユートピア国での滞在経験を踏まえてこう意見を述べる。「財産の雌雄が認められ、金銭が絶大な権力をふるう所では、国家の正しい政治と繁栄は望むべくもありません」それに対してモアは(おそらく読者を代表して)、私有財産が認められない社会では人々が真面目に働くインセンティブを持たず、結果として幸福な生活が実現しないのではないかと疑問を挟む。ヒロスデイはモアの疑問を「見当ちがい」と一蹴するが、具体的な理由を挙げて反論することはない。ここにも制度とは別の、ユートピア人の何か特別な性質こそが重要であることが暗に示されているように思える。もっとも続く第2巻ではこの疑問への答えとして「国民がぶらぶらと時間を空費する事由が許されていない」、「怠ける口実や言い訳があたえられていない」と飛べられている(本書巻末の「解説」によると第2巻が第1巻より先に書かれたという)。
モアの描くユートピアが理想国家であるかどうかはともかく、制度や法律をどう設計するにせよ、人々の考え方や価値観(そしてそれらを正しく導く教育)こそが重要であることを本書は示唆しているのだろう。 -
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小人の話と巨人の話は有名で、皆さん子供の頃に読んだかもですよね。その後があるなんて知らず、アニメPsycho-passの槙島聖護がバルニバービの医者の話をした所で、ガリヴァー旅行記本来のユーモアの香りを感じ、自分の好みに合うかも、と思い読んでみました。
実際バルニバービの医者の話を読みたくて読んだ人も少なからずいるのではないでしょうか?
シニカルで皮肉の籠った物語で、現実の色んな場面で「ラピュータの数学者達は、自分が精通してないが故に政治に対して好き放題、熱心に文句を言ってたみたいだね」とか「リリパット国の、王子は体裁と自分の思想のどちらもを取って靴底の高さが違う靴を片足ずつ履いて、歩き方が不自然だったんだよ」とか、そういうことを考えるようになって、何となく他人に優しくなれた気がします。
あと、noteで政治家や転売虫を描写する時など、自身の怒りが文にこもってしまう事があるのですが、その時はところどころガリヴァー旅行記で随所に見られる表現をするようになってしまいました。悪辣とか醜悪とか、犀利とか敬虔とかやたらと使いたがるようになってしまった読者の方も多いのでは?
変なツボを押され、自分はこういうユーモアが好きなんだと気付かされました。笑 とても面白かったです -
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この旅の物語がこれほど怒りに満ちた物語だったとは。。
子どもの頃に誰もが読んだ小人の国、巨人の国の話は、それぞれ原作の第一篇と第二篇の抜粋に過ぎない。原作は、これでもかというくらい、風刺と皮肉のてんこ盛り。そして、第三編の空中に浮かぶ島国を経て、怒りの頂点は、馬が支配する国を描いた第四篇にやって来る。馬が、獣人 (=人の形をしたけだもの)を家畜同然に扱うという設定からして、奇異な気配を感じるが、さらにこの馬が極めて理性的であり、馬の国では統治らしい統治が不要であるということに至って、これはもう人間否定・人間嫌い以外の何ものでもないことが分かる。なぜ、政治が必要なのか、なぜ法律が必要なのか、なぜ戦争が起きるのか。こうした馬の質問に答えることで、人間の愚かさが浮かび上がり、その愚かさへの怒りに満ちてくる。第四篇を読むに至って、第三篇までは怒りの序章にすぎなかったことに気づく。
尚、ガリヴァーはこの旅行記の中で日本に立ち寄っていること、空中に浮かぶ島が「ラピュータ」という名であること、そして、獣人が「ヤフー」という呼ばれることは特記しておこう。