例えば電車の窓から流れていく住宅街を眺めるとき、あるいは巨大な集合住宅を横目にとぼとぼと歩いている時に、この幾多もの住宅の中に様々な家族であったり独り者であったりが暮らしていて、よくよく聞けば面白いかもしれない話を秘めていて、もしかしたら見ただけで興味を引かれるような人間がいるかも知れず、といった空想をすることがある。
この話は多分、普段は通りすぎるだけの、意識しなければ顔のない存在にすら、無限に詰まっているかもしれない情報たちについてのお話だ。
そうしてまた、つい最近、お話をする鳥たちがリモートで交流するというニュースを見たが、まるでおとぎ話のような不思議な交流から芽生える新しい感情に期待する、という物語かもしれない。
なぜならば話の中で、主人公も含む孤独な人たちが、ネットで交流して、お互いに好ましさを抱いて、心になにがしかの温かさをいだいているからだ。
さらにまた、恐ろしいほどの量の情報という名の知識たちが、実際には名もなく活用もされず、時には疎まれすらしており、しかし逆に、それらがクイズの出題に化けたときには意味を持ったりもするのだけれども、省みることもされぬ大事なことどもが、常に形をかえて世界に増殖していくこと、なども。
私の数少ない読書体験の中でしかない、小さな情報から考えたことでしかないが、割合と「文学」というものは、異常であること、世の中からはみ出していることは、その人間がその状況を反省していようと、その世界が異世界的に描かれていようと、普通よりも価値があるような印象を強く受ける。
しかしこの話で世の中は、異常であることや人と違うことを忌み嫌い、目にしたら見なかったことにしようとしている。
気味の悪いものと一線を画して、美しいものだけ目にして生きようとする人々だらけの様子である。それは主人公の周りだけではなく、遠く離れた場所で孤独を感じる人の家族たちも、そうなのだ。
持てるものは常に楽しくしなくてはならぬという、持たざるものたちのやっかみを素直に受け入れて、それを美しい暮らしだとして生きる家族を、孤独な人は受け入れ難い。持たざるものたちもまた、彼らの正しさのものさしだけで生きている。
いや、最終的にはみ出すことの賛歌ともいえるのだけれども、なにかとても、はみ出すことの否定を、そんなにも世の中はしてくるのだろうか、というほど疎まれている空気がある。だからこそ、主人公が最後に選びとる選択への肯定的な気持ちが、生きるのかもしれないけれども。
その一方で、まだバブルなどという言葉のなかった「金余り」の時代に流行ったクイズ番組に対して、普通の人らしさを持つ人が、否定的に語る場面もある。
これはまあ、主人公は確実にバブルのはじけた世の中に生まれた人で、キラキラに見せて昭和の根性論も多く持ったクイズ番組を知らないのだから、知る世代が語ったのかもしれないが、あの時代の世の中は、ニューヨークを目指してアメリカ横断に行く、さらに勝ってパリに行く、知力体力時の運で勝ち抜いて行く、ということを、肯定的にとらえたのだろうし、だからこそ人気番組だったのではないのか?
安っぽいブラスバンド、ということを、子供だった私はつゆほども思わなかった。休みに海外に行く子供は少なくとも周りにおらず、四国の父の田舎にすら、金がかかるのでほとんど行かないような家に暮らしていた私は、ニューヨークに自分の力と運で行く人々を憧れる気持ちで観たものだった。
しかし、情報すなわち知識をパンパンに頭に積めて戦う人々は------ウルトラクイズはもちろん、頭の良さだけでは最初の段階では落とされることもあるのだが------この世界ではアンタッチャブルな人々ではあるのだ。
私の認識が間違っているのかもしれないが、沖縄県外からやってきた特に学芸員であるわけでもないとはいえ、民俗学を在野の研究者として行う老婆、という、なにやら立派に感じなくもない人のことも、主人公以外の近所の人の目からは、気味の悪い存在として描かれる。
島の記録は、その昔自分達を同朋と言いながら一番ひどい目に合わせた人たちの子孫に、特に発信していく気持ちになるものではないのだろうか?
そのような復讐的な気持ちではなくとも、平和を常に選びとろうと主張するためにも、外から来た人へ話すことを、良しとするのではないのか?
人の嫌な記憶をえぐる気味の悪い婆さんと感じる人々の群れがむしろ気味悪いが、まるでその人たちが正しいかのように、主人公は暮らす。
話は逸れるが、私の叔父は沖縄のかたと結婚をして、東京出身でありながら、島の記憶、島の受けた仕打ちに大いに感銘を受けた。今、終の住みかとして沖縄県に暮らしている。そのほど、影響のある情報の山を、市井の人から集める老婆に対して、この物語の世の中はなんとも冷たい。
老婆が声高に暴力的になにかをしたわけでもなく、あるいは人に強要して島のことを伝えないといけないとヒステリックになったわけでもないのに、いくら何回も歴史的に壊されたところだとはいえ、関心が無さすぎるのではないのか。
老婆に発信の力がなくとも、資料は山のように集まっている。誰かが発信すればいいだけの状態で、あまり他人には分からないやり方で分類されながらも、待っている。だが誰にも省みられることはない。老婆が年老いたので島にやってきた歯科医の娘さんもまた、老婆に対して、好きとははっきりと言えないのだ。
娘さんの話だと、老婆は在野の研究者というよりは、今時耳にすることもなくなったが、コミューンを形成するヒッピーの一員であったか、あるいは、その事件がなにを指すのか良く分からないものの、もう30年近く昔に起こった宗教に絡んだ、というか、勝手に宗教の名において行われた殺人及びテロであるとか、それよりももっとずっと大昔に起こった、革命という名の爆破テロを起こした人々と、普通の人の目には同じに映るなにかであった様子でもある。
老婆の周りに寄る辺ない若者がたむろしていた時期もあった様子だ。だから娘さんは、十年ほど前から中学にあまり行けないでいたことをきっかけに老婆の手伝いをしていた主人公のことを、その若者たちに重ねてもいる。
だからなのか、彼女自身は未だに感情に整理がつかぬ母という存在の一部、遺骨の欠片を未名子に渡してもいる。
未名子は、世界の果てどころか、宇宙や深海にも暮らす、孤独な場所で孤独に過ごさざるを得ない人々へスリーヒントゲームのようなクイズを出題して、ほんの少し交流する仕事をし、中学生の頃から引きこもりがちで、上にかいた老婆の手伝いを無報酬で行っていた。
やはりだから、老婆が世の中から向けられている視線と同じところにいるような人で、しかし一見するとそこに大きな悩みもなさそうだ。不思議なことに、彼女を理解し得るであろう上司の名前を、なぜか漢字ではなく片仮名で携帯に登録している。
そういえばこの上司も、この仕事についてを、一目を憚るようなものとして語るが、人に理解されがたいだけで、そんな風に感じる必要のある仕事というよりも、ある意味革新的な、自慢すら出来る仕事のようにすら感じる。
人の気がふれてしまわぬように、クイズという余り深くない交流で孤独を紛らわしていく仕事など、需要はともかく画期的だ。まあ、客層からして隠さなければならぬものなのだろうが、別段、未名子のもとへ人が出入りするわけでもなく、たまに事務所を開けて仕事するだけでも生きられる人、程度にしか感じないのではないか。
宇宙や深海、戦場のシェルターが通信場所と知っているのであろう電気屋の親父は、スパイ的な仕事かもしれぬと疑うかもしれないが、それは中途半端に知るがゆえに仕方がないのではないか。
なんにしろ、未名子自身がつかみどころのない人であり、外れものではあっても、そこ自体に悲劇がある様子もない。ふいに、仲間に近い場所にいた人間から向けられた敵意に強く傷つくという、割合と普通の反応も示すことの出来る人だ。急にキレて事件を起こすわけでもないし、酒に溺れるわけでもなく、この世界を啓蒙して回ろうとするわけでもない。普通の反応をする。
まるで妖精のように現れ、誰も所有権を主張しない、美しいことを愛でるための宮古馬という種類らしい小さな馬を、一度手放しながらも盗んで、世界の果てに暮らす仲間から聞いたやり方で飼育することにした未名子は、歴史的に意味ある場所を、その馬屋に選んだ。歴史的に意味のある名前を付ける。
しかし彼女は、世界的に意味のある歴史かもしれぬものも、ただの町の風景も、全部同じ視点でひたすらに集め、保存し、それだけだ。
未名子は物語の最初の方で、在野の研究者でしかない老婆にも自身にも、情報のを調べるとか、更なる研究をする資格はなく、ひたすらに集めていくだけ、といったことを言っているが、馬と共に集めていくことにする情報も、勿論、ひたすらに集めるだけなのだ。意味のある様子で現れた、意味のある名前のついた、意味のある場所に暮らす馬と一緒に、であるのにも関わらず。
老婆が集め、その手伝いをした情報は、ぼんやりとしかその居場所も分からない孤独な人たちにデータとして送っているが、日々更新される情報を、会社を辞めた未名子には知らせる術もない。でも、ひたすらに集める。妖精かなにかのようだが、虫にたかられ、変な匂いのする、ほんのりと温かな馬と一緒に。
この話の中で、孤独な人々や膨大な情報は、なにやら不穏なものとして強く扱われ、孤独な人たちの交流すらネットで行われたり、情報を一緒に集めるだけの年のうんと離れた関係だったりする。
膨大な島の歴史をどこに住むとも知れぬ人たちに送る未名子は、しかし自身の亡くなった父親が所有する大きな台車がなぜ家にあるのかすら、把握できていない。
世界は不確かな情報に溢れていて、しかし確実に情報は増殖していく。
この話の舞台はなぜ、沖縄だったのか?
冒頭にもあったように、自然災害や、時にひどく暴力的な強制で、何度も何度も死に近い状況と再生を繰り返した歴史があったから、ではあるのだろう。
それは広島や長崎、あるいは神戸や福島ではなく、海外であったはずが日本とされ、日本が負けて今度はアメリカということにされて、また日本に戻された、という歴史以外にも、食べ物が豊富ではなかったとか、台風が多かったという歴史もある沖縄だから選ばれた、のではあったのだろう。
しかし、集められたという情報は,物語のなかでは大変にフラットなものに見える。確かに、ただ集めた情報だからこそ、重要、というラベルの付く際立った情報はなく、歴史的な骨も、老婆の遺骨も同列に語られる。
しかし大きな大きな世界の長いながい歴史の中では、偉い人の骨も、昨日亡くなった人の骨も、大きな違いもないのかもしれない。
なぜ、沖縄であったのか?
そこを私はうまく汲み取れていないのだと思う。とにかくこの悲しい歴史を見よ、という声高な主張もなければ、悲劇に視点を当てることにシニカルなわけでもなく、情報だけがつみかさなり、ひっそりと本当に少人数だけの知る秘密のやり取りで、島に縁もゆかりもないであろう場所、なにがしかの紛争という歴史が背景にある国にまつわるどこかに保管された、ということへ、大きく意味を見いだす方もいるのかもしれないが、それは読まれぬままに本棚に並ぶ百科事典とおなじものではないのか?
しかし不思議と、無職で、自分が拾ったものだとは言っても一度は警察に持っていった馬を泥棒して飼う、今や一目など気にもせずに好きなことに邁進する主人公が、馬の背に温かさを感じながら笑い、自身の集めた情報など役に立たぬままひっそりと消えてなくなればそれもまたいいのだと感じることへ、さっぱりとした気持ちにもなる。
彼女が、島の歴史をどこかで役に立てなければと思っていないところに、ではなぜ、沖縄であったのか、という問いの答えは隠されているのかもしれない。
彼女はもう、電気屋の親父が気味の悪いヤツめと視線を送ったってへっちゃらなのだ。
読み終えてふと、未名子が職を辞するにあたって、孤独な人々に送ったスリーヒントゲームの答えはなんだったのかと、気になったが、解説のかたが、話に出てきた、世界を細かな升目に区切り三つの言葉を振り分けることで、誰もがそこを認識できるシステム、というものが、アプリとして存在していると書かれていたので、そのアプリ、What3Wordsなるものを入れてみた。
「にくじゃが。まよう。からし」
首里城公園が出てきた。ほんの少し四角をずらすだけで三つの言葉が変わるから、かなり細かくピンポイントだ。
火事で焼失した時には、まさかテロなのだろうかと感じさせるものがその地名にはあるが、結局、全国どこででも起こり得る原因で焼失したという。
今、地図を見るに、かなり復元されているようであるが、これもまた、情報の更新だろう。いつまでもその土地は、「にくじゃが。まよう。からし」ではあるが、その場所では様々なことが起こり、動いている。情報は常に、動いているのだ。
私が子供の頃と、大化の改新は他の年号になっているそうだし、歴史は集められた情報からさらに検証され、新たに更新されても行く。
たいてい、作者がなにが言いたいのかなんてことは小説を読むにあたって、そこまで大切だとは思わないが、なぜ沖縄であったのか、ということは、なんとなく気になり続ける話ではある。そうして、膨大な情報について想いを馳せる話でもあった。