吉本隆明のレビュー一覧
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ネタバレマルクスの挫折と転回 -2008.08.06記
何と、何を?
われはあやまたずつきさす
血に染む剣を汝のたましひにつきさす、
神は芸術を知らず、神は芸術を尚ばず、
芸術は地獄の塵の中より頭に上り、
遂に頭脳は狂ひ、心は乱れる、
われはそれを悪魔より授けられた。
悪魔はわがために拍子をとり、譜をしるした、
われは物苦しく死の進行曲を奏でねばならぬ、
われは暗く、われは明るく奏でねばならぬ、
遂に心が糸と弓とをもて破るまで。
――マルクス初期詩篇「楽人」
じつは、2.3日前に吉本隆明の「カール.マルクス」光文社文庫-を読んでいたのだが、これまでついぞ知らなかったマルクス自身の私的な傷ましい事件に出会し、少なからぬ衝撃とともに暗澹とさせられていたのだ。
マルクスの伝記を知る人なら、だれでも先刻承知の事実なのだろうが‥。
1849年、ドイツ民衆の最後の蜂起は、時のプロイセン政府によって鎮圧され、マルクスには追放令が下された。
彼はこの年の夏、パリを経てロンドンに向かい、ロンドン郊外に永住の居をさだめた。
夫人と幼い三人の子はあとからやってきて合流、すぐにもう一人の子が生まれている。この年マルクス32歳。
亡命者マルクスの一家は貧窮をきわめていた。52年には、度重なる家賃の滞納で郊外の貸間は追い出され、ロンドンの最貧民地区の小さな二部屋に住むことを余儀なくされた。
折も折、疫病の流行は猖獗をきわめ、不衛生このうえないロンドンのスラム街は死者で溢れかえった。
あのナイチンゲールが「To Be a Deliverer-救助者になれ!」と、キリストによる二度目の啓示を受けたというのもこの頃である。
マルクスの家族も、伝染病でつぎつぎと3人の子が死んでしまうという凄惨な事態に陥った。
本書で吉本隆明は、「経済学と哲学にかんする手稿」などの初期マルクスから、「資本論」にいたる後期マルクスへの転回について、
「経済学は市民社会内部の構造を解明するというモティーフから、経済的な範疇こそが、社会を資本制市民社会にいたるまで発展させてきた歴史の第一次的な要素であるというように転化される。この微妙なマルクスの点の打ち方の移動は、1848年以後のヨーロッパの蜂起とその挫折、それにともなうマルクスの政治的公生活からの疎外、積もり重なる家庭生活の貧困といったような全情況の集約された表現であった」とする。
あるいはまた、「ひとはたれでも青年期に表現を完了するという言葉が真実であるという意味では、すでに1843年から44年にかけて、彼の思想はすべて完結されている。そのあとにはなにがくるのか? 現実と時代が彼に強いたものが、ひとつの思想の転回としてやってくるのだ。このような意味で、いまやマルクスに生産的社会の歴史的な考察と、生産的社会そのものの内部構造の究明という課題がやってくる」と。
マルクスの疎外論 -2008.08.07記
<A thinking reed> 吉本隆明「カール.マルクス」光文社文庫より
フォイエルバッハの宗教についての考察-「キリスト教の本質」と、ヘーゲルの「法哲学」→マルクスの「経済学と哲学にかんする手稿」
◇若きマルクスにとって、ドイツでは、宗教についてはフォイエルバッハの考察が、いわば群鶏中の一鶴として彼の眼前にあった。
法.国家哲学についてはヘーゲルの法哲学がそびえていた。
◇個人としての人間が、生誕しそして死ぬというかたちでしか繰返されないのに、人間の類-人類-という概念がなぜ成り立つのかを、ギリシア自然哲学から、とくに青春前期に執着したエピクロスから学んだマルクスの「経済学と哲学にかんする手稿」から辿りなおすならば、<疎外>あるいは<自己疎外>という彼の概念は、その<自然>哲学のカテゴリーから発生したもので、じかに市民社会の構造としての経済的なカテゴリーから生まれたものではないことに注意すべきである。
全自然を、自分の<非有機的肉体>-自然の人間化-となしうるという人間だけがもつようになった特性は、逆に、全人間を、自然の<有機的自然>たらしめるという反作用なしには不可能であり、この全自然と全人間の相互の絡み合いを、マルクスは<自然>哲学のカテゴリーで、<疎外>または<自己疎外>と考えたのである。
これを、市民社会の経済的なカテゴリーに表象させて労働する者とその生産物のあいだ、生産行為と労働-働きかけること-とのあいだ、人間と人間の自己自身の存在のあいだ、について拡張したり、微分化していても、その根源には、彼の<自然>哲学が潜んでおり、現実社会での<疎外>概念がこの<自然>哲学から発生していることは疑うべくもない。
◇マルクスにとっては、フォイエルバッハのように、<自然>は、人間と自然とに共通な基底ではなかった。
それは<非有機的身体>と<有機的自然>として相互に滲潤しあい、また相互に対立しあう<疎外>関係であった。
私の考えでは、フォイエルバッハが、あたかも光を波動と考えたとすれば、マルクスはそれを粒子という側面で考えてみたのである。それはマルクスがギリシア<自然>哲学の原子説を生かしきったことを意味している。フォイエルバッハの<共通の基底>を、<疎外>にまで展開させた大きな力は、紙一重の契機であった。
フォイエルバッハのいう人間と自然との<基底の共通性>から考えるなら、人間がまだ自然人であったときには、神もまた自然神であり、人間が建物に住んでいるときには、神もまた神殿に住んでいる。神殿というのは、人間が家屋を美しくしたいと考え、もっとも美しい家屋と認めるものが作られているにほかならないので、べつに神が住んでいる家屋ではない。
なぜなら、神は、人間が自己意識を無限であり、至上であると考える意識の対象化されたもので、もともと人間の自己意識のなかにしか住んでいないからである。
人間が<宗教>の意識の内でやることは、自分の本質を対象化し、この対象化した本質を、ふたたび自分の対象にするという過程である。いいかえれば人間は<宗教>において自分の本質を自分の外へ投げ出し、その投げ出した本質を自分の中に採り入れる。
<芸術>の意識もまた、人間が自分の本質を自分の外に対象化し、ふたたび自分の対象にすることではないのか? これについては、フォイエルバッハは、<宗教>と<芸術>の意識の違いとして説明している。
宗教-ことにキリスト教のような一神教では、人間の本質を無限のものと考え、至上のものとするという自己意識は、ひとたび無限者としての神-キリスト-として外化され、それがふたたび自己意識の中にかえってくる。だから、神は無限者であるとともに人間であるという両義性としてあらわれる。
しかし<芸術>の意識は、人間の現実的な本質を、至上のものであり、無限のものであるとする自己意識が、<作品>となって外化され、それがふたたび自己意識にかえってくる。<作品>にはその意味で人間の意識にとっての両義性は存在しない。べつの言葉でいえば、<宗教>は神を至上物として外化するから、自己意識にとってあたかも神が第一義のものであり、それを外化した人間は第二義のものとなる。しかし<芸術>では、人間の現実的な本質を至上物として考える意識が外化され、それが自己意識にかえってくるから、あくまでも自己を至上のものとする意識の幻想性として一義性である。
フォイエルバッハによれば、キリスト教がすぐれた宗教的芸術を生みだしえないのは、その一神教的な性格が、芸術そのものと同質でありながら、こういった神を至上のものとする意識と人間を至上のものとする意識とが矛盾をつくりだすからである。<芸術>や<学問>の源泉でありうるのは、多神教あるいは偶像崇拝あるいは、汎自然の意識だけであり、一神教はそれ自体で芸術と矛盾する。
◇マルクスの<自然>哲学の本質にある<疎外>または<自己疎外>の概念は、レーニンもスターリンも、毛沢東も知らなかった。
◇私は、個人がたれでも誤謬を持つものだということを、個性の本質として信じる。
しかし、誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語ろうとする者をみると、憎悪を感じる。
なぜならば、それは人間の弱さを普遍性として提出しようとしているからであり、弱さは個人の内部に個性としてあるときにだけ美しいからだ。
マルクスの疎外論-承前 -2008.08.13記
<A thinking reed> 吉本隆明「カール.マルクス」光文社文庫より
◇マルクスの全体系を辿ろうとする者は、たれも、彼の思想から三つの旅程を見つけることができるはずである。
ひとつは、宗教から法、国家へと流れくだる道であり、もうひとつは、当時の市民社会の構造を解明するカギとしての経済学であり、さらに第三には、彼みずからの形成した<自然>哲学の道である。
マルクスが、青年期につくりあげた三つの道は、やがてそのなかの一つの道を太くさせ、そのほかを間道に転化させる。これを彼自身の体験が強いたものとみるかぎり、たれも、それに文句をつけることはできない。-略-
現在、みることができる資料によるかぎりは、「ヘーゲル法哲学批判」以後に、宗教、法、国家、いいかえれば、相対的には幻想性にたいする考察はマルクスからあとを絶っている。また、彼の<自然>哲学は、ただ経済学的なカテゴリーのなかでだけ、「資本論」にいたるまでの道をたもっているにすぎない。
◇政治的国家というものは、<家族>という人間の自然的な基礎と、<市民社会>という人工的な基礎が、自己自身を<国家>にまで疎外するものであるにもかかわらず、ヘーゲルは、逆に、現実的理念によって国家が作られたように考えているというのが、マルクスの根本的ヘーゲル批判であった。たとえば、古代の国家では、政治的な国家がすべてであり、人間の現実的な社会は、すみずみまで政治的な国家の手足のように存在している。しかし、近代的な国家では、政治的な国家と非政治的な国家とが<法>によって調節されて二重に存在している。政治的国家は、非政治的な国家の具体性である市民社会を内容としながら、それから疎外された形式上の共同性として存在する。
だから国家と家族や市民社会とは、ヘーゲルのいうような矛盾のない存在ではありえない。国家は、家族や市民社会自体の生活過程が表象されたものではなく、家族や市民社会が、自己から区別し分離する-<疎外>する-理念の生活過程である。
◇人間と自然との相互規定としての<疎外>が、マルクスの自然哲学の根源としてあり、それが現実の市民社会に<表象>されるとき、<疎外された労働>から派生する現実的<疎外>の種々相があらわれる。
市民社会の<自己意識>-いいかえれば共同意識-は、あたかも、共同性の意識の<表象>として現実的国家を<疎外>する。ところで、市民社会の<自己意識>は、あたかも宗教として神という至上物を<疎外>するように、市民社会の至上の<自己意識>として政治的国家制度、政治的国家、法を<疎外>するのである。これを宗教、法、国家という歴史的な現存性への接近としてかんがえるとき、政治-哲-学の問題があらわれる。
◇プロレタリアートという概念は、市民社会の経済的なカテゴリーとしての人間の基底として登場する。マルクスのプロレタリアートという概念が、現実のプロレタリアートそのものでないのは、経済的カテゴリーとしての人間が、全人間的存在でないのと同じであり、同じ度合においてである。
◇<疎外>という概念は、マルクスによって、ある場合には、非幻想的なものから幻想性が抽出され、そのことによって非幻想的なものが反作用をうけるという意味で、またある場合には、人間の自然規定としてぬきさしならぬ不変の概念であり、したがって人間の自己自身にたいするまた他の人間にたいする不変の概念として、またある場合には、<労働>により対象物と<労働者>とのあいだに、したがってその対象物を私有する者とのあいだに、具体的におこる私的な階級の概念として使われているが、もちろん彼の思想にとって重要なのは、それがどのように使われていても、累層と連環によって他の概念におおわれているという点にあった。
そこにマルクス思想の総体性が存在している。彼の思想が、宗教.法.国家.市民社会.自然をつなぐ総体性として完結したとき、まだ、ほんとうの意味で社会の歴史的現存性のおそろしさを知らぬ青年であった。
なぜ、愚劣な社会が国家として現存し、たれにでもわかる愚劣な人物たちが牛耳っているこの社会は滅びないのか?
なぜ、一見すると脆弱そうにみえるこの不合理な社会はこれほど強固なのか?
マルクスが、こういう自問自答をほんとうの意味で強いられたのは、西欧のデモクラートの蜂起が挫折し、その煽りをくらって解体した<共産主義者同盟>が内紛のうちに彼を締め出し、彼が貧困のさなかに公然と孤立したときである。ここで、マルクスの現実的な体験が、転向としてその思想に関与する。その意味は、マルクス自身が考えたよりも、おそらく重要であった。 -
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大学生の頃、めずらしく女の子に誘われて一緒にお茶を飲んだことがあった。浪人中に伸ばした髪が、何となく他の良家の子女たちとちがって見えたのか、同じゼミでもなければ、あまり話しかけられることはなかったのに、どうして俺が、と思いながら、学校の前にある喫茶店について行くと、突然「○○君は吉本についてどう思う?」と訊かれた。政治に関心のある学生なら誰でも吉本くらいは読んでいた時代だ。長髪が運動家に見えたのだろうか。
当時は吉本よりも、彼の論争相手である、埴谷雄高や花田清輝の観念やレトリックの世界の方に引かれていて、吉本のいい読者ではなかった気がする。今となっては、論争相手は鬼籍に入り、独り吉本だけが、いまだに情況に対して発言を続けている。敗戦を契機にした日本の知識階級の身も世もない寝返りぶりにとことん愛想を尽かした吉本は、思想の根拠を日本の庶民、大衆の位置に置き、愚直なまでに自前の思想的営為を続けてきた。しかし、すでに時代の潮流は娘のばななの世代に移り、吉本隆明の発言にかつてほどの影響力はない。何を今さら、と思いながらも題名に惹かれて読んでみた。
内容はといえば、北朝鮮の拉致問題やアメリカの対イラク戦争、それに不況問題と、どれも今日的な話題を、専門用語や特殊な知識を披瀝しない平易な言葉遣いで、市井の隠居が時事問題を語るという語り口が貫かれているので、読みやすいことこの上ない。たとえば、金正日は日本の天皇を真似た「生き神様」を目指しているが、まだ修行が足りない、だとか、拉致問題の解決は、拉致された当人が、どちらの国で生きたいかということにつきる、とか、至極真っ当な意見が多く、「異論」という言葉に興味をそそられた読者としては、少々物足りないこともない。
しかし、敗戦当時いっぱしの軍国青年だった吉本には、他の識者にありがちな自分を高いところに置いて他を語るというところがないので、アメリカがイラク戦争に固執する理由を、ああだこうだ言ったりはしない。ただ、何かあるのだろうと示唆するに留めている。そして、太平洋戦争当時の艦砲射撃と、イラク戦争のハイテク武器の使用を比較しながら、アメリカという国は、やるとなったら徹底的にやる国だというのは昔から何も変わらない、と締めくくる。
ガンジーの非暴力主義には敬意を表しながらもいざとなったら、自分や家族を守るためには、戦うだろうという吉本は醒めたリアリストに見える。その一方で、憲法九条は「思想的にも世界に先駆けた優れた条項で、どの資本主義国にもどんな社会主義国にもない<超>先進的な世界認識だ」とし、これを世界に広げるべきという理想主義的な言辞を吐いたりもする。いったいどっちなのだと言いたくなるところだが、そこはそれちゃんと落ちが用意されている。
「憲法にしたがわなければいけないのは政府と自衛隊と官僚たちであって、国民一般は要するに個人でもあるわけですから、したがうまいと思ったらしたがわなくてもかまわないわけです」という指摘には虚をつかれた。「要するに憲法というのは、国家の行動に対してある程度基本的な枠を設けているだけのことなのですから、一般の個人にすれば何が何でもそれにしたがわなくてはならないなどということはない」というのが、吉本の理屈で、国家という「幻想の共同体」を実体と勘違いして酷い目にあった戦争中の経験から学んだ彼の原則である。
九条の先進的なことも、国家が「幻想の共同体」であることも、景気回復は中小企業に視点をあてて考えるべきだという指摘も、自分自身が常々そう思い続けてきたことであって、何ら耳新しいことではない。しかし、他人の口からあらためて、それを聞かされると、なんだか悪い気がしない。ましてやそれがあの吉本であるなら、なおさらに。
「文芸はもともとは空の空を構築するもので、これにたずさわるものは無用のものと言うべきだろうが、この無用はたくさんの実用と理論に支えられている。この事実を確かに認知するためには繰返して基層を明確にする作業がいると思う」という言葉に励まされた。マスコミに登場する知識人や既成政党には愛想を尽かしながらも、何だかだと、この国の行く末が気になる諸兄に一読をおすすめしたい。 -
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ネタバレ抜き書き。
いじめるほうもいじめられるほうも問題児。
誰もが生死をかけて自分の人生を生きている。当たり前なようで誰も当たり前に思っていないのかもしれない。
いつも明るいところばかり見ていたら、暗いところにあるものが見えなくなってしまう。そもそも、暗いところにこそ真実が隠されているのではないでしょうか。
「ひょっとしたら全滅だ」というところに競い合っていこうとしているのを、日本が真似することはないし、また、そんなものをいいと言う必要はない。核兵器を持つことについては、どちらの国が悪い、どちらの陣営がいいではなくて、全部悪いんだというのが正しいと思います。
自分自身の問題として、時にはどういう毒が自分にまわっているかということも冷静に考えることをしないと、大きく間違ってしまうこともあるのではないでしょうか。
聖職者の職業の毒として、もっとも問題なのは、「教える毒」ではないでしょうか。「教える毒」とは、わかりにくいかもしれませんが、僕らの商売でもそれとちょっと似たようなところがあります。「教える毒」に対して僕が一番気をつけているところは、いいことを言うときには、何気なく言うということです。
でも、いいことをいいこととして言うと、みんなが道徳家になってしまいます。これはよい、これは悪い、こうするのはよい、こうするのはよくないぞと断じていくようになり、いつももっともらしい口ぶりになっていくわけです。それはある種の毒です。
文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、俺だけにしかわからない、と読者に思わせる作品です。
僕は一般的な情報を新聞やテレビからとっていると言いましたが、一番大事にしているのは自分の肌感覚というか、身の回りの印象です。
ちょっと変な大人を見たら、この人は前思春期までの育ち方、親子関係に問題があったんだなと思うと合点がいくと思います。親に愛されていなかったり、不幸なことがあったりという事実が、間違いなくあったはずです。
僕は、男女関係に限らず、一般の人間関係においても、いい関係かどうかを判断する基準というものを持っています。それは、とてもシンプルなものですが、お互いが言いにくいことをきちんと言えるかどうかです。
東洋人に属するけれども、大陸の荒波にもまれたことがないから日本人というのは何となくこぢんまりしているのです。大陸の人から見ると、日本というのは、ばかに頭もいいし、科学・技術もヨーロッパ並みに発達して、アジアでは先進国のはずなのに、どこか包容力がない、と思われているところがあるような気がします。
日本人はふだんはおとなしいのに、変なことになってくると、もともと包容力がないものだから、カッとして人をいじめたり荒々しく振る舞ってしまう。
役職では上下があるのは当然としても、その上下はあくまでも仕事上のものであって、人間としては対等であるという意識が身についていないのではないでしょうか。
ただ気をつけなければならないのは、計算高さは、顔や挙措振る舞いの中に自然に出てきてしまうということです。恋愛関係であろうと、一般的な人間と人間の関係であろうと、それはあまりいい印象を相手に与えません。利害関係を自分の中でどういう心がけで持っていたらいいのかは、その人の全体の人格に関することだと思います。利害ばかり考えていたり、言っていたりすると何となくそれが全体ににじみ出てきて、相手にもあまりいい印象を与えないかもしれません。
「経済的にも豊かだし、物騒なこともなくて、日本のほうがずっといいですよ。ただ、フランスには何ともいえない自由さがあるんです。国とか人種とかには何のお構いもなく、誰とも自由につきあえる。それは、日本で言う自由さとか差別のなさというのとはまるで次元がちがう」と。
大切なことはその都度変わっていきます。だから何が人生で重要だというふうに言われたら、ずっと一貫して、大切なものと現状の自分との距離について考えていくことだと思うのです。
いまの日本は、道徳的にもよくないから、品格とか愛国心とか武士道精神といったものを復活させようという考え方がブームになっているようです。しかし、僕はそういうことは無駄である、初めから無駄なんだと考えています。そういう復古的ないし懐古的なやり方が、このかつてない新しい社会の状態に対して通用するでしょうか。僕は、復古的な考え方は通用しないと思っています。
一つはっきり言えるのは、いいことをいいと言ったところで無駄だということです。それは歴史が何回も証明してきました。いいか悪いかではなく、考え方の筋道を深く追わなければ、問題の本質が見えてきません。考え方の微細な筋道をたどっていかないと、解決の糸口を見失ってしまうでしょう。 -
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読みやすくて、おもしろい。
思想界の巨人と言われている吉本さん、彼が生きた時代のほんの一部しか生きていない自分。
だからこそ、というのもおかしいと思うけど、重みのある文章。あくまで読みやすいけど。
なんやろう。届く言葉、というか、考えに考え抜かれた言葉が集められている気がしました。こうでもない、ああでもないと、何度も往復したような。
「個人としての個人」「社会的な個人」「家族の一員としての個人」という三つの次元、あとは犯罪に関しての考え方、三人で起こることは一億人でも起こる、らへんの話が印象的でした。さぼってるひとの分の仕事まで自分がやる。かっこいい。 -
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13歳は2度あるか 吉本隆明
を、読んだ。
京都の恵文社で買った文庫本。
どの棚にあったかは忘れたけど、そのタイトルと目次に惹かれて買った。
13歳の少年少女のために書いたとするが、
実際には誰が読んでもためになるし、誰でも読める本だと思う。
文章も読みやすく、難解な単語や言い回しもなく、しかし、内容は充実している。
13歳のころ、この本を読んでいたら、少しは違ったのか?
と思い起こすより、これからの人生の中で、この本を活かすことこそが
13歳は2度もないことを踏まえ、生きるということだと思う。
良書!
さくっと読みたい時、ちょっと人生で立ち止まった時にはぜひ!
*どうでもいいけど、本棚登録時の表紙が全然違う本の表紙になってます。なぜ? -
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人は皆一人でいるのは寂しいものだと思う。
その前提から出発して、そうは言っても一人でしかいられないのは仕方ない、一人でいるのも悪くないよ、と説くのは説得力がある。
一人は寂しくないと説かれても説得力はない。
一人でいるとき、その使い方が問題だ。テレビを見ていたり、ネット上でつながっていたりするのでは、実質的に一人でいないのと一緒。内省という言葉は最近とんと聞かれないが、それをするのが一人でいるメリットだろう。
自分個人としては一人でいるのは好きだ。誰かといるのは相当に相手を選ばないと楽しいとは感じない。暗いかもしれないが、考えようによっては生きやすくできているのではないか。
一人でいても楽しいと思えるのは、他人とではなくても対話ができるときだと思う。例えば歴史や自然や文学、スポーツ、料理。何でもいいが、自分なりに楽しい、面白い、と思えること、ものが身の回りにあり、それを通して自分が新たな知見や達成感を得られるとき、一人でも楽しい。寧ろ一人だから没頭できて楽しいということもある。
そういうとき、わざわざそのことを声高に主張したいとは思わない。死ぬときだって、自分なりの楽しみをたくさん抱えて死んでいけると思う。他人に規定されない人生を歩むことが安定を生み、それが幸福ではないだろうか。 -
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追悼・吉本隆明コーナーからチョイス。
親鸞って女犯とか肉食とかやりたい放題の破戒僧。いや、もはや僧ですらない。たぶん自分でも認識していたのでしょう。
親鸞がスゴいのは、自分が修行しまくって菩薩になって救済するっていう、これまでの僧侶たちの常識を覆したこと。現実現場目線で今必要な教えをシンプルに実践し、仏教界のパラダイム・シフトを牽引してきた。本人はあまり執着ないようだが。
第十八願:煩悩具足のままに絶対の他力によって、阿弥陀にすがるだけだという考え方。これをさらにシンプルに一念義へ昇華させた。「悩んでる自分自身を悩まない」とカンサンジュンも言ってたけど、何か通ずるものがあると感じた今日この頃。タイトルどおり、親鸞は今のこの先の見えない世の中に生きている。