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1952年、第1詩集『二十億光年の孤独』で戦後詩界に登場した谷川俊太郎。三好達治はその出現を「ああこの若者は/冬のさなかに永らく待たれたものとして/突忽とはるかな国からやつてきた」と推賞した。本書は、若き日の著者の考え方の基礎を示す著書『世界へ!』『愛のパンセ』の中から、21篇のエッセイを収録。初めに沈黙があった。言葉はその後で来た。――谷川俊太郎の青春!
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Posted by ブクログ
1045 157P 谷川俊太郎 1931年、東京に生まれる。高校卒業後、詩人としてデビュー。1952年に第一詩集『二十億光年の孤独』(創元社)を刊行。以後、詩、絵本、翻訳など幅広く活躍。1975年日本翻訳文化賞、1988年野間児童文芸賞、1993年萩原朔太郎賞を受賞。ほか受賞多数。絵本作品に『こ...続きを読むとばあそびうた』(福音館書店)、『マザー・グースのうた』(草思社)、『これはのみのぴこ』(サンリード刊)、『もこもこもこ』(文研出版)、「まり」(クレヨンハウス刊)、「わたし」(福音館書店)、「ことばとかずのえほん」シリーズ(くもん出版)他多数の作品がある。翻訳作品も多数。 沈黙のまわり 谷川俊太郎エッセイ選 (講談社文芸文庫) by 谷川俊太郎 詩の仕事を、他のいろいろな仕事、例えば大工さんとか、医者とか、警察官とかと、余りに区別して考えすぎてはいけないとぼくは思っている。勿論、木にかんなをかけることと一行の詩句を考えることとの間には、大変な違いがある。しかし、詩をつくることは家をつくることよりも立派なことだとか、或は逆に、家をつくることの方が、詩をつくることよりもずっと人間の役に立つなどと考えることは、間違っている。現代では、えてして詩人は特別な人間にされ勝ちである。詩人は役立たずの無頼の徒であったり、雲やかすみを食ってる仙人であったり、天才的な予言者であったりする。それはたしかに、少しずつ事実に違いない。だが、本当は詩人も、大工さんや医者と同じように、先ず一個の職業でなければならぬということを忘れてはならない。大工さんには家を建てる義務があり、医者には病気の人をなおす義務があるように、詩人には詩をつくる義務がある筈だ。それは最も初歩的な意味で、人間的な責任である。今の日本では、詩人が職業になり難いのはいうまでもない。しかしもし人が、自分の人間としての仕事として詩をつくることを覚悟したのなら、彼はすすんで詩人を僭称しなければいけない。たとえつくる詩が下手くそなものばかりでもかまわない、彼は自らを詩人と規定し、その義務と責任とをはっきり自覚するべきではないだろうか。本当の詩人になることは実は容易なことではない。しかしそれだからといって、自らの人間的責任を回避することは出来ない。 日本にはたしかに素人詩人が多すぎるようだ。彼等はまるで中学生のように、自分のいいたいことばかりを、勝手な言葉でいい散らす。そこには読者への心づかいもなければ、商品としての体裁もない。そうして一方では彼等は別の職業で糊口をしのいで、詩はただの告白や宣伝の道具にしてしまう。 ぼくは少々抽象的なことばかりを喋りすぎてしまったかもしれない。ぼくの他の詩、特に最近の詩についても、例えば言葉の韻律の問題、詩の〈私〉というものの問題、など考えてゆきたいことが沢山あったのだが、ここでは自分自身の詩作に関連して、ぼくはやや理念的な詩人像を、その一二の面から画いてしまったようだ。この詩人像はぼく自身を語るにしても詩人一般を語るにしても、少々理念的でありすぎると思われるかもしれない。しかしぼくはその最も根本的なところにおいて、社会主義的な詩人も、神秘主義的な詩人もひとつの共通なものをもっていることを信ずるものである。他の機会にまたこのぼくの詩人像を補足して、詩人の原型とでもいうべきものをもっと深く探してみたいと思っている。 窓の外では、雀がさえずっている。子供たちは三輪車を押して遊び、主婦たちは洗濯に余念がない。空にはやや雲が多く、ラジオの天気予報は、夕刻にわか雨のあることを報じている。世界と、その中での人間の生活、私もまさにそのために詩を書いているのだ。一人は旋盤をまわし、一人は畠を耕す、一人は洗濯し、一人は詩を書く、そうして我々は互いに生かしあっている、それが人間の生活というものではないのか、それを離れて、詩には如何なる抽象的な価値も意味もありはしない。詩が鍋釜と同じものだとは思わない。だが、生活し続けてゆく以外に、人間にどんな生き方が残されてるだろう。詩人ももはや放浪者ではあり得ず、英雄でもあり得ない。 あらゆる人間は、常に何ものかを通して、 生き続けてゆこう としているのである。詩人もその例外ではない。彼は詩を通して生き続けてゆこうとしているのであって、決して詩そのものを求めて生きているのではない。我々は詩を書くために生きているのではない。生きてゆくために、あるいは、生きているから、詩を書くのである。私は詩には惚れていないが、世界には惚れている。私が言葉をつかまえることの出来るのは、私が言葉を追う故ではない。私が世界を追う故である。私は何故世界を追うのか、何故なら私は生きている。 私にはむしろ言葉より沈黙の方が信じられるようになっているのだ。そうして、今、私の考えている方法は、詩から一切の曖昧な私性を完全に追放してしまう。そうすることによって、詩は明らかに劇や小説に近づく。詩は完全な虚構となり、感動はもはや言葉と直結しない。そうすることによって、私の生活の言葉は私の詩の言葉と完全に分離出来るだろう。 また私には、心から詩に惚れたということがかつてなく、これからもないだろうと思う。私はひどくだらしなく、ずるずるべったりに詩人になってしまった。恥ずかしい話だが、詩人という仕事を自ら選んだのだという自信は、私にはない。例えば、インダストリアルデザイニングなどという仕事に、私はいまだに色気をもっている。しかし、信じる、信じないの問題と違って、私は詩を好きになりたいとは別に思っていない。自分の好きな仕事をして糊口をしのぐことの難しいのは、一般に日本の現状であるし、十年近くも、馴れ親しんだ仕事であってみれば、私にも些少の誇りや、自信はある故である。また、自らの仕事に淫しないという点においても、詩に対して、適当に節度ある気持を保つのはいいことだと私は考えている。 私も、自分自身を生きのびさせるために、言葉を探す。私には、その言葉は、詩でなくともいい。それが呪文であれ、散文であれ、罵詈雑言であれ、掛声であれ、時には沈黙であってもいい。もし遂に言葉に絶望せざるを得ないなら、私はデッサンの勉強を始めるだろう。念のためにいうが、私は決してけちな自己表現のために、言葉を探すのではない。人々との唯一のつながりの途として言葉を探すのである。 男は飛びたがる。男は離れたがる。男は軽さなのだ。接吻を重ねれば重ねる程、男は軽くなる。女は逆に、接吻を重ねれば重ねる程重くなる。三日間女と一緒にいると、もう男はひとりで酒が飲みたくなる。その代り、三日間女と離れていると、男は猛烈に女が恋しくなる。女は違う。三日間男と一緒にいると、女はその男と一生一緒にいたいと思う。その代り、三日間男と離れていると、女はその男を忘れてしまう。 結婚とは、男にとっては、女の重さに耐えることだ。それは同時に、地球の重力に耐えることでもあるのだが。 家庭の中では、女が政治を司どるのである。民主制であれ、封建制であれ、女は先ず有能な政治家でなければいけないのだ。彼女は確固たる制度を維持し、男を統治しなければいけない。 男にとって、何野何子を愛するということは、何野何子の個性を愛するということではないのだ。彼は、何野何子の中の女を愛するのである。女の人間的魅力などというものは、しれたものなのだ。男にとっては、女の魅力とは、その性的魅力以外の何ものでもない。性的魅力という言葉は、近頃少々せまく解釈されすぎる。私のいうのは、コントラバス・スタイルとか、フォーク・アウェイのことではない。例えば、マリリン・モンロオの魅力を、殆どすべての人たちはその表面的な肉体のなやましさからくると思っている。だがそれは思い違いというものだ。モンロオの魅力はもっと深いところからくる。もっと深い女性的生命のやさしさの魅力なのである。男たちは自分でも気づかずにそのやさしさに動かされているのだ。彼等はてれかくしに口笛を吹いたり、わざとワイセツなことを叫んだりするが。 どんな男でも、本当の男である限り、彼は女なしでは生きられないし、また生きてはいけない のだ。彼は人間と、そして彼の一人の女のために生きてゆくものなのだ。彼の生き甲斐は仕事と、家族の他にはない。この単純な真実こそ、何万年の昔からあらゆる男の守りつづけてきたことなのだ。 接吻は、動物たちの体をなめ合うのが進化して出来た形ではあるまいか。接吻の中には何かそういう親しく和やかな感じがある。欲望のための性急な接吻しか知らぬ者は不幸なるかな。接吻には無限の変化がある。性の交わりには常に、オルガスムス=受胎という一種の機能的終点がついてまわる。そのためそれは、如何に快楽だけを目的にしたものであっても、妙な重苦しさをもっていて、純粋な遊びにはなりきれない。だが接吻はもっと軽やかなものだ。それは仔犬のふざけっこのように、純粋な遊びでもあるのだ。 妻はある意味では女ではない。つまり妻は一人の妻であることで、女一般を超えている。プラトニック・ラヴというものは、夫と妻の間においてこそ可能になるのではないか。互いの肉体を知りつくしてしまうことで、二人はより精神的になってゆく。肉体を肉体として意識せずに、それを二人の存在そのものにまで、いわば精神化してしまう。それ故、夫が妻に感じる欲望は、彼の男としての性欲一般とは少々異っている。それは肉体的欲望であると同時に、もっと精神的な希求でもあるのだ。彼は妻に挑むのではなくむしろ、妻の中へ 帰ろう とする。 同性愛が理論をもつとすれば、それはおそらく汎神論であろう。 同性愛には対立よりもむしろ融和があり、劇よりもむしろ歌がある。正にそれ故に、同性愛は不毛であるに違いない。 どんな人間の中にも、同性愛的な感覚はある。それは自然の中へ溶かしてしまうか、それとも人間の中で結晶させるかによって、人は同性愛者になったりならなかったりするのではないか。 沈黙は夜である。それは本質的に非人間的なものである。それは人間の敵だ。だが同時に、沈黙は母である。われわれはみな沈黙から生まれた。 * 物質は沈黙している。宇宙は沈黙している。星々も沈黙している。蛋白質も沈黙している。われわれは、そこから生まれたものだ。愛はその最も根源的な形では、沈黙している。受胎は言葉と無縁だ。 おそらく私は、人生そのものにもはや反撥を感じていたのに違いない。若者の肉体は、生きることのすばらしさに気づけば気づく程、生きることの不条理にも悩むようになる。その不条理の中で、毎日をのほほんと暮らしている大人達、彼等の御立派な人間的秩序というやつ、それがことごとく癪の種なのだった。私は結局、学校という束縛に耐えられず、とうとう大学へはゆかずにすましてしまった。 愛とは先ず何よりも、肉体的な感動なのである。それは、考えて得られるものではなく、また意識して求めることの出来るものでもない。では、愛について語ることに、どのような意味があるのか? 愛について語るなどということは、本来不可能なことだと私は思う。愛なき者が愛について語れば、それは愚痴にすぎず、愛ある者が愛を語っても、それは讃歌にすぎない。おそらく本当の愛の中には、沈黙しか無く、また本当の愛は、沈黙の中にしか無いものであろう。 とは云うものの、愛についての知恵というものはある筈だ。愛はひとつではない。それはおそろしい程に多様な姿をもっている。そして私たちは、愛と愛でないものとを区別する眼や、またそれをどのような形の行為に現わした時に、愛が本当に愛になり得るかという反省や、愛に近づこうとする日々の努力や、そういった無数の知恵を、古来からの愛についての多くの言葉に学ぶことは出来る。 人間は永遠に青春に生きてはいられない。若さの過剰を、愛の豊かさだと錯覚してすごすことの出来る時期は余りに短かい。私たちは、愛されぬことに苦しむよりも、愛せぬことにより多く苦しんでいるのである。(愛されないと云ってこぼす人々の多くは、自らを誤解しているのだ。実は、彼等はむしろ、自分たちが愛せないことをこそ反省せねばならないのだ。)〈愛の瞬間〉というものは、そうやたらにあるものではない。美しい風景も、そこに住んで働いてみれば、自然の厳しさ、残酷さをあらわにする。初恋の人も、結婚して三年間も一緒に生活してみると、耳の形まで気に入らなくなるのは、ありふれた真実である。何も他人をもち出す迄もない。青年の頃にはあんなにもすばらしく思われた人生というものが、どんなに速やかに日々の生活の倦怠の中で死んでゆくことか。万一の僥倖をあてにして、愛を待っている訳にはいかない。そのような我々を救うものは結局、ひとつの愛の理想像とでも云うべきものへの、我々自身の意志ではないだろうか。 いわゆるプラトニック・ラヴというものは、あくまでひとつの準備期間にすぎないと私は考える。愛の中に精神的なものはあっても、男と女とが、いわゆる精神的な愛だけでむすばれるなどというのはどうも信用出来ぬ。本当のやさしさは、肉体の中にあるのだ。愛にとっては、百万通の恋文よりも、只一度のあいびきの方が大切なのだ。 だが、人は云うかもしれない。どうやって欲望と愛とを見分けるのか? と。私には、そのように欲望と愛とを切り離して考える問い方そのものが、先ず一種の堕落であるように思われる。愛は肉慾の中に既にかくされているのだ。肉体的な欲望を過度に律することによって、私たちは先ず愛を傷つけてしまうのだ。私たちのするべきことは、欲望を恥じることではない、だが同時に、それを余りにあたり前なものとして、立小便のように片づけることでもない。欲望は私たちの力でもあるが、それはまた同時に私たちを超えたものの力でもあるのだ。私たちはそれを畏れなければいけない。 欲望の中にかくされている愛とやさしさ、私たちはそれに気づき、それを失わぬようにしたい。男と女がむつみ合う時、二人は他のいかなる時よりも深いやさしさに貫かれている筈だ。ダブルベッドに寝る夫婦の方が、シングルベッドに別々に寝る夫婦よりも、離婚の率は低いそうである。喧嘩をしても、仲直りをせざるを得なくなるらしい。潔癖な少女たちは、そんな仲直りの仕方はいやだというかもしれない。だが、欲望の中に愛とやさしさとが、私たち自身もそれと気づかぬ間に、私たちのかくされた部分をうるおし、いやしているとしたら、私たち人間にとってそれ程深い慰めはないのではあるまいか。
義務教育を受けいていた頃の国語の教科書とか、合唱曲とかでおなじみの谷川俊太郎だが、それ以外で彼の書くものを読んだことがなかった。なので、読んでみた。いいな、と思える部分というか、そうだよな、と思える部分と、そうでない部分とまちまちだった。「私にとって必要な逸脱」とか「歌うということ」、「昼と夜」あた...続きを読むりは前者にあたる。首を傾げながら読んだものもけっこうあった。
感動と霊感は全く別物。 感動しなければ詩は書けない。感動するとき、秩序が生まれ、同時にそれがリズムを呼び起こす。 沈黙を語ることができるのは沈黙それ自身しかない。初めに沈黙があった。言葉はその後できた。今でもその順序は同じ。 ベートーベンの音楽は人を励ます。内面からその音楽の激しさ、力強さがある。
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