萩原朔太郎と室生犀星という二人の巨匠がそれぞれについて書いた文章のまとめ本。今となっては二人とも近代詩の伝説のような存在だが、当時の文章を読むと一人の人間として生き生きと見えてくるから不思議だ。パンチのあるエピソードをそれぞれが面白く書き記しており、共著のフィクションを読んでいるような気分にもなる。全部実話なのだけれど。
詩作品だけを見てきたので、朔太郎という人間はもっと孤独で異様な雰囲気のある人なのかと思っていたが、本人の書くエッセイは意外と明るく軽妙な語り口でびっくりした。「室生のことは自分がいちばんよくわかっているから」と自信満々に語るさまには(犀星曰く「決めつけてかかるところがある」「思い込み屋さん」な部分もあるものの)詩作品だけでは見えてこなかった朔太郎の人間性のかわいげが読み取れて新鮮だった。それでいてやはりどこか寂しさや物憂さを孕んだ不思議な文体で、縋り付くような感じも見受けられる。しかも本当に縋り付くことはできないで、心の奥底では完全に相手と自分とを壁で仕切ってしまっている。
犀星の文章には朔太郎が書いたような「野生児」感はあまりなく、優しく人の良さそうな書き口の文章である。でも端々に見える金沢の言葉にはなんとなくその面影がある。朔太郎といると国の言葉が出てしまう、という記述もあったが、それだけ安心できる間柄だったのだろう。朔太郎が犀星を野生児と称するのも、その本質(純粋さやたおやかさ)に触れたように感じたのも、この二人の関係だったからこその視点かもしれない。趣味もスタンスも全く正反対の二人なのに、なぜかその奥底にあるものを理解し合っている。
しかし、その決定的な相違がしばしば彼らの間に影響していたのも事実である。奥底にどんなものがあるのか理解できても、賛同することはできないからだ。犀星が書いた『健康の都市』を読みながらその思いを深くした。朔太郎が苦しんでいるのをわかっていながら、犀星にはただ健康を願うことしかできない。一緒に堕ちてくれる種の友ではないのだ。そうした相違は巻末に収録されている娘同士の対談でも見て取れる。葉子の苦しみを本当に小説に描き出せたのはきっと、犀星ではなく朔太郎だったのだろう。わたしはそう思った。
ただ、一緒に堕ちてくれない友だったからこそ、彼らは無二の友だったのだ。その寂しさはいくらでも嘆けるけれど、嘆いたとてこれ以上望むべきものもないのである。彼らがお互いを指して「幸福者だ」と言い合うように、わたしも彼らを指して「幸福者たちだ」と呼びたい。これ以上ないほどの素晴らしい友人関係なのだから。