早く読めば良かったとも思うけど、様々な失敗と反省を経た今だからこそ内容がスッと入ってくる気もする。今読めて良かった。人生は常に今が一番若い日だ。何か問題があるとすれば今から治すしかない。過去は良くも悪くも変えられない。
子供への接し方。ベースにあるのは子供への愛、子供の成長への期待と言う。君のため、君のため。
しかし根底にあるのは、不安だ。そして、その主語は子供ではなく自分にある。過去の自分、かつて子供であった自分、その時の記憶と経験が今の行動を規定している。僕はこうだった、僕はこうしたほうが良いと思う。なぜそれができない?なぜそれに取り組まない?君のためを思って言っているのに大丈夫なのか?その不安定さを解消するために、支配とコントロールが始まる。
ここには2つの問題がある、と僕は仮説を持つ。
不安に支えられた強力なインセンティブ構造と、主語のすり替えだ。
一つ目の問題、不安への対応。
おそらく僕らは生き抜くのに必死だった頃の記憶が強力に残されている。不安。それは様々な面での存続の危機への対応のアラート機能だ。不安という予測能力で、個々の個体の生き延びる確率を高めることができた。ある意味高度な認知能力であり、集団化するための組織形成能力にも上手く機能したのだと思う。この能力がホモサピを地球上の王者にしたのかもしれない。
一方で、不安は自己破壊をする機能も持つ。いや自己破壊をするくらい強力だから有効に働くのだと思う。便利なものは常に危険と隣り合わせだ。
ではどうすれば良いのか?
答えは、不安を認めることだと思う。不安は否定しても消えない。認めても消えない。不安が解消するまで消えない。生きている限り、様々な種類の不安は常に生じる。不安は常に身近にあり、自分を助けてくれる機能であり、味方なんだと考えることだ。不安は別に悪くない。要は不安との向き合い方、不安の使い方の問題だ。不安を認め、適切に情報を集めて、行動するための力に変える。それが理想だろう。そして不安は生きている限り無くならないと受け入れることだ。
二つ目の問題、主語のすり替え。
不安から始まる支配とコントロールは、自分のうちなる不安を原動力に、不安が解消されるまで続くはずだ。自分の不安を子供、つまりは他者を通じて変えようとする。ここに主語のすり替えが生じている。
ややこしいのは子供によっては支配とコントロールへの抵抗力に差があることだ。素直に受け入れる子も嫌がる子もいるだろう。素直であれば、支配とコントロールは上手く機能して不安は治るが、そうでなければ不安は治らずさらなる支配とコントロールが進むことになるだろう。
支配とコントロール、これ自体が悪いわけではない。ある段階では有効ではあるが、ある段階では無効になるだけの話だ。永続的に機能しないだけであって、使い方次第では有効に機能する。
古代ローマ帝国も巨大な帝国を支配するのにいくつかの知恵を絞った。君臨すれども統治せずや、分割して統治するなどは一時期までは仕組みとして有効だった。しかしながら、支配とコントロールはやがて破綻する。なぜなら常に監視が必要であるが、ずーっと監視し続けるのは難しいし、仮に監視出来ていたとしても心の内までは支配することは極めて難しいからだ。被支配者の気持ちに変化が生じれば支配とコントロールの体制を常に変えざるを得ない。それに追いつけない時、綻びが生じ始める。そして、古代ローマ帝国は滅亡した。
ではどうすれば良いのか?
主語を元に戻すことだ。強力なツールはアイメッセージ話法だ。不安があるのは、あなたではなく、私だ。あなたのためではなく、私が不安なのだ。
何か言いたければ、まずは自分が不安であることのみを伝える。子供も不安を感じていたら、子供の気持ちや意見を聞いてから、解決策を一緒に考えていくのがいいだろう。昔、自分も親に意見を聞いてもらいたかったように。そのプロセスを飛ばして、いきなり自分の考える解決策を子供に提示すべきではない。その行為自体が支配とコントロールの始まりであり、やがて破綻を迎える行為の始まりになるのだ。
では逆に、特に子供自身は不安を感じていないとすればどうする?私の不安はあなたの不安であるべきだと押し付けるべきなのか?あなたは経験がなく私には経験があるから、あなたは知らないだけで、あなたは私のいう事を聞くべきだと。あなたのためだからと。それは支配とコントロールの始まりでは?
そもそも親と子供との関係とは何か?兄弟とも、妻とも違う。友達や知り合い、他の誰とも違う。親として、生まれたその瞬間から死ぬまで、生涯をかけて付き合っていくのが親子の関係だ。唯一無二。その関係が支配とコントロールの関係でしかなかったら、なんと悲しいことだろう。
子供は一個人である。自分も一個人である。
自分の好きなことは自分で決めたいし、やりたい。自分の話を聞いて欲しいし、自分を認めてもらいたい。舐められたくないし、無視されたくない。やるべきだと思っていることもやりたくない気持ちの時もあるし、うまくいかないからと言って怒られたくない。そんな時は慰めて欲しいし、見守っていて欲しい。たまには厳しいことも言われたいけど、なるべく優しく言って欲しい。
それは子供も同じではないのか?
親子だからと言って特別なことはなく、自分のして欲しい事をする。して欲しくないことはしない。しかし、して欲しいことの内容は自分とは違うかもしれない。それはその人に聞くしかない。人を支配することはできない。そして、よくない事をしたら謝る。このシンプルな原則を忘れないことではないか。