井上靖のレビュー一覧
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ひまわりめろんさんの座右の書『しろばんば』である
恐らく二千七百回くらい読んでいると思われる
スケールの大きい嘘である
座右と言うが座左とは言わない
座って右にあるということは、対面する者から見ると向かって左ということになる
つまり左大臣の位置ということだ
左大臣と右大臣では左大臣の方が偉いので、もし座左の書というものがあったとしても座右の書の方が偉いということになる
この話はいらなかった
さて『しろばんば』である
井上靖さんの自伝的小説である
そして『しろばんば』は旅立ちの物語である
もっと言うならば男の旅立ちである
自分を守ってくれる故郷で、外の広い世界を垣間見ながら、少しづつ成長してきた洪作少年が、いよいよ外の世界に闘いを挑むために、湯ヶ島から旅立つのである
不安と期待が綯い交ぜになるラストで洪作少年と共に旅立つのである
座ってる場合じゃない -
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ネタバレ鉄木真は、異母弟殺しの代償として「お前は本当に、蒼き狼と白い雌鹿の裔であるのか」というアイデンティティの根幹への疑念を突きつけられた。終生に渡る呪いのように、繰り返しフラッシュバックするこの問いは、罰であり、呪いでもある。鉄木真の父は、鉄木真の母を奪うことで妻とした。長じた鉄木真の妻もまた他部族に奪われ、鉄木真は長子であるジュチと自分の血の繋がりに疑念を抱くようになる。他部族を侵略し、「モンゴル」を拡大してゆく鉄木真、ジュチの苛烈な戦いぶりは、よく似ている。その動機の源泉は、自身の存在証明とも言える、非常に個人的なものだ。皮肉にも、その個人的な動機、欲望に端を発する戦いは際限なく拡大し、鉄木真の孫の世代でモンゴル帝国に結実する。それでもなお、自分は本当に蒼き狼の裔なのか?という問いに対する答えは、鉄木真自身には与えられない。鉄木真は「自分は本当に父の子だったのか」ということを証明したかったのではなく、蒼き狼に連なるモンゴル民族の物語を、自分自身の物語に結びつけたかったのだろう。草原を超え、ユーラシア大陸全土に渡って覇権を拡大するその血腥さとは裏腹に、鉄木真・成吉思汗はロマンチストとしての一面を持っていたのかもしれない。この英雄流離譚のある種の切なさを背負った二面性に惹きつけられ、何度も読み返してしまう。
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なぜか無性に井上靖が読みたくなり、40年以上前に読んだ本を手にとった。あの時の感動とまた違った風が心の中を駆け抜ける。
8世紀の日本。日本と唐の間の航海は、今では想像もできないほどの苦難があった。しかし、その苦難を乗り越え日本の近代国家成立のために生涯を懸けた留学僧の思いが現代人に深い感動を与える。
圧巻は、業行が、日本に持ち帰るために数十年というか生涯全ての時間をかけ写経した夥しい経典とともに海の藻屑となり沈んでしまう描写だ。業行の人生は一体何だったんだろうか、深く考えさせられる。
救われるのは、日本に無事帰ることができた普照のもとに届いた一つの甍。これが日本に辿りつくことのできなかった留学僧らの形見に見えたことだ。
これを託した人物は不明であるが、唐招提寺の金堂の屋根に鎮座した姿を見た普照は何を思ったことだろう。
この物語のタイトルにある甍。天平時代の甍は、寺院などの隆盛を誇るシンボルを想像する。
これは、日本に唐の高僧を招聘し戒律を施行するという使命を普照に託し、唐の地で果てた栄叡の姿に重なる。
また、業行の叫び声とともに夥しい経巻が潮の中へ転がり落ちていくその一巻一巻がまさに一枚一枚の瓦のようにも見える光景にも重なる。
真に見事なタイトルだと思う。
文庫本で約200ページの小説。こんなにも心を揺さぶられるとは思ってもみなかった。再読して良かった。この小説を読んだ後、心の深さが変わったような気がする。
そうだ、唐招提寺に行ってみよう。天平の甍を感じるために。 -
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しろばんば、夏草冬濤、北の海、読みました。
洪作くんと、少年時代に戻ることができます。
その年頃の少年が見える、感じる当時の情景が、美しく描かれています。
私自身の体験でも、小学生の頃、楽しかったことが中学生になるとつまらなくなったりして、中学生の頃に仲良かった友達も、卒業したらばらばらになって全然会わなくなって…ということがあります。これらの作品群には、流れていった井上靖の少年時代が詰まっています。それがまた、読者である自分のノスタルジーを呼び覚まします。
もう随分前になりますが、しろばんばシリーズが好きで、湯ヶ島へ、しろばんばの里に足を運びました。浄蓮の滝を見て、西平の湯に入って、ずいどうを通って…お墓参りをしました。
郷里を掛け替えのなく感じる気持ちは、忘れたくないと思います。
(ゲーム、ぼくのなつやすみが好きな人はおすすめの本です。) -
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ネタバレ舞台がほぼ自分の郷里であることの贔屓目も手伝った側面はあるが、ここまで感情移入して自分の感性ですんなり受け入れることのできる小説は初めてであった。
郷愁というよりは、多くの人が幼少期に出会ったことのある心の動きがかなり正確に再現されており、そこに懐かしさを感じるといったところ。外的な出来事や環境に対して内的なものがどう応答するか、まるで子供の心がそのまま端正な文章になったようである。それでも幼年期の前編は叙事的な傾向が強く、少年期を描く後編は多分に抒情的になっていく。一人の人間の魂が形作られる過程のようである。
後編に移ると幅も奥行きも大きくなっていく洪作の世界で、おぬい婆さんは小さく老いていく。あれだけ剛毅でつっけんどんだったおぬい婆さんが衰弱し、もう洪作の庇護者たりえないことを2人が共有してしまう描写が非常に悲しい。
おぬい婆さんに対する惻隠の情を言葉にできなかった洪作が、二度と会わないであろう老人に優しく声をかけるのも象徴的。子供の大きな成長は些細で何気ないことから起こるのだろう。
以下好きな場面等
村の人間の意地の悪さや皮肉っぽさは、不快というよりはむしろ、この作品ではユーモアを担っており小気味良さを感じさせるものがある。
豊橋で迷子になった場面において、「あとへ引き返すより、まだ前へ進む方が怖さが少いような気がした」とあるが、子供の心理描写としてここまで適切なものは寡聞にして知らない。
沼津のかみきの小母さんに好きな食べ物を聞かれるところ、「よく理解できなかったので、何でもみんな嫌いにしてしまおうと思っていた」とあり、子供の頃ってこんな感じだったなと強く懐かしさを抱いた。
湯ヶ島から大仁が4時間は (長すぎて) 驚かされるが、下田までも4時間で行けるのは意外。下田行きの描写は、量的にも物語的にも比重はそれほどないように思うが、丘の上から入江を眺める2人の構図が快い。
村を去るとき、最も親しい幸夫が遠くから笑いかけるだけというのもいい。
最後に遠く離れていく天城が、読者にも湯ヶ島との別れを感じさせる。 -
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作者の自伝小説『しろばんば』を読んでいると、これも自伝小説でその続きなのかと思いがちですが、著者のいくつかの実体験を活かした創作です(『しろばんば』に連なる続編は『夏草冬濤』『北の海』)。
タイトルの「あすなろ」は、あすは檜になろうと思いつつ、永久に檜になることが出来ない。それで「翌檜(あすなろ)」という名が付けられた、檜に似た木をモチーフにしています。
この物語は、主人公の少年期〜青年期〜働き盛りの壮年期までの人生を、戦前から戦後にかけて6部構成で描いています。そして、会話の中で「あすなろ」にちなみ、檜になれた人、なれなかった人を論じていますが、印象的なのが、3部目の「貴方は何になろうとも思っていらっしゃらない」と主人公が揶揄されるところ。翌檜でさえ目標があるのにと言わんばかりの発言を、憧れの女性から面と向かって言われているのに、まったく堪えていない。夢中だったと言えばそれまでですが、次の4部で、そのホの字の憑き物が落ちたのは、ある意味転機と言えるでしょう。5部では意図せずにライバルの転機に加担してたりして、人の運命の転機は意外なところにあるものだと思いました。
ラストの6部では、明日は檜になろうとする、終戦から必死に立ち直ろうとする人々の力強さを感じる印象的なエンディングでした。ここで、あえて主人公が檜になれたか言及していませんが、当人が気付いていないだけで、立派な檜だと自分は思うのですが、これを読んだ他の人はいかに?
ところで、6部構成のそれぞれに女性が登場し、その誰もが個性的ですが、「春の狐火」の清香の話しが幻想的でとても良かったです。 -
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莫高窟で発見された文書群が、そこに保管されるに至った経緯を描く小説。宋代の河西回廊の政情と戦乱、その渦中にあって自らの誇りと意志を持ち続けた3人の男が主題となる。
描写が省かれることも多く、ある意味淡々と消化される日数だったり城邑のあいだの距離なんかがいちいち長いのが面白い。夷狄の土地の広大さを印象付けると同時に、故郷の潭州はおろか漢土に踏み入れることは二度とないであろうという中盤以降の行徳の意志が裏付けされるようである。
かなり好きな部類の作品なので、特に好きな箇所と解釈に迷った点と、あまり好きではない点を1点ずつ。
尉遅光は悪魔的に描かれる人物であり、善意を装って行徳らを嵌め込もうとする。しかし、自分は人を致しても人に致されることはないと断定する傲慢さの裏には一種のナイーブさがあり、実力行使を何度も逡巡するさまは可愛げすらある。生き生きとした悪役は、本書の魅力的な点だと思う。
よくわからないのが朱王礼の碑の伏線。私が正しく読めていれば行徳は碑を建てていないはずだが、折に触れてこの伏線を張る必要があったか。好意的に捉えるならば、朱王礼が戦死した以上、その義理を果たす必要はないというふてぶてしさの表現だろうか。結局、西夏文字訳の経典を回鶻の女のために完成させていないように、死んでしまった他者に依存しないという生き方を、行徳が選んだということだろうか。もしそうなら、中華の儒教的思考を棄て、精神的にも漢民族国家の重力圏から脱したということなのだろう。
物語上重要ではないが、作品美的観点から、最後に行徳の消息が判明するのは、なんとなく俗っぽい気がした。 -
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本書は伊豆湯ヶ島を舞台に、小学生時代を過ごす洪作が主人公の小説です。井上靖自身がモデルの自伝的小説ですが、全編を通じて何とも言えない良い味を出しています。山奥の小さな村で登場人物も極めて限られている、しかし洪作をとりまく家族環境はとても複雑で、洪作の両親は豊橋に住んでおり、両親よりも曾祖父の妾であったおぬい婆さんに育てられています。
洪作の心の機微がとても細かく描写されていて、そういえば自分も小学生の頃同じような感情を持ったなあと思い返すこともありました。そして洪作の心の成長もとても細かく表現されています。田舎の村ですからたいした事件もなく、全編を通じてのどかな中に哀愁が立ちこめた伊豆の情景が記述されていて、静かな感動を覚えます。本書を読み終えて、小津安二郎監督の映画「東京物語」を見たときの感動を思い出しました。大きなクライマックスはないけれども、全編を通じて静かなる感動を引き起こす作品であり、極めて日本的名作ではないかと思いました。その意味では「東京物語」を見て感動する外国人の方はいらっしゃいますが、「しろばんば」の良さが分かる外国人はいるのだろうか?とふと興味がわいたりしました。続編も読みます。