円城塔のレビュー一覧
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見るからに前衛的だけど、ある意味で分かりやすく宇宙を飛行しそうなロケットを指差して
「これは花火です」
という。
こちらは「そうかこれは花火か」と思いつつ、宇宙空間を飛んでいくこの不思議な物体を想像する。
発射直後くらいから飛行物体はその結合を失っていく。見方によっては更なる加速のための意図的な分離にも映るし、見方によっては設計者の意図しない分解にも思える。
時に蛇行し、時に回転し、時には一瞬姿を消してみせ、すぐその先に現れる。そんな花火ともロケットともつかない不可思議な動きをみせる。何人かはこの辺りで背を向け帰っていくが、なぜか目を離せない。
だんだんと分離は加速していき、分離したパーツは華やかに爆発する。その爆発によって残った本体は宇宙に向けて加速しているようにも見える。それともその華やかな爆発そのものに意図があるのだろうか。
ひとつ、またひとつと分離と爆発を繰り返し、宇宙空間と地上のその狭間、最後の空間でもっとも大きなパーツがこれまでにないほど派手に炸裂し、天上は明るく彩られる。
そして最後に作者は「これは花火です」という。
そんな話だった。見方によってはSFと文学の可能性に挑んだ意欲作だし、ロケットのようにその限界を超えることを期待してしまうけど、結局のところ地球空間で破裂して地上の人間を満足させることを本懐とした私小説。
騙されたと言えるような気もするし、気概が足りないような気もするし、でも最初からこんなもんだと言ってるし。そんな苦い笑いをも作者は指差して笑ってるような気もする。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ思えば初期「Self-Reference ENGINE」「Boy's Surface」「オブ・ザ・ベースボール」から約10年なのだ。
作風は拡がったり膨らんだりしているとも言えるし、堂々巡りしているとも言える。
文体の実験、メタ意識、抒情。
すべて筒井康隆を連想してしまい、円城塔自身は筒井康隆を敢えて避けていると言うが、短編ではどうしても共通するものがある。
しかし筒井のドタバタハチャメチャコミカルとは違うリリカルコミカルな味付けなのだ。
もっとはっきりいえばエモい。
また、所々に差し挟まれるハリウッド映画的な身振り手振りの小気味良さは、人物を記号的に扱う思い切りの良さがあるからこそなせる持ち味なのだろう。
また作中人物が自分は作中人物であると意識する頻度は、筒井よりも高い。
筒井ほど作風の幅は広くないが、ある領域の作風の中では豊かな味を出している。
以上、何も言っていないに等しい駄文だが。
初期のボーイ・ミーツ・ガール感から、いったん遊離して思考実験やスペースオペラに逸れていたが、再度ボーイ・ミーツ・ガール感覚に戻ってきたらなんと今度は彼女は妻になり子も生れたり、さらには子がとんでもないものであったり妻子とは別れていたり。
極めて無理やり私小説的味わいを引き出すことも、できなくはない、か。
執筆時期からして「プロローグ」「エピローグ」は表裏一体ではなく、「シャッフル航法」を足して三位一体と見方を改めなければなるまい。 -
Posted by ブクログ
ひと月ほど昔の読書内容が、当該の書籍のページを繰りな押しても全く浮かばないのは、私がぼけたからだろうか。
「イグノラムス・イグのラビムス」の章に「言葉そのものの問題ではない。まさに『君』が、その発言をするという所が問題なんだ。人間が『自分はキリンだ』といったとしても別に問題は起こらない。キリンが『自分はキリンだ』と言い出したとしてもまあいいだろう。しかし、カバが『自分はキリンだ』といいだしたなら、事態は戦慄的なものとなり、森の仲間も大宴会だ」
この部分で、大いに笑い納得したはずなのだが、なにも浮かばない。この浮遊感はなんだろう。これが円城君なのだろうか。とわけわからんことをつぶやいてしまいます。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ2018年2月10日第一刷。
「文學界」連載も楽しみに読んでいた。
私小説とは概ね徒然なる日常を書くもの。随想からの跳躍ありき。
本作もまさに徒然なる日常と、その都度考えたことを徒然に書いているらしい。
が、そこは円城塔。凡人の思考ではない。
私小説では語り手は単純に「わたしは云々」と書き始めるが、この小説の「わたし」は「小説そのもの」のことだから、不用意に「わたしは云々」と書き出せない。
そのうちに著者の要素がいろいろなキャラクターに分散、分身、仮託、委託、されていく(?)
さらには堂々たる「わたし対わたし問答」も生起し、それが詰まらないトートロジーに堕さない。
私小説を刷新するのか~、たいそうなこってすな~、アホな読者にはわかりませんわ~、とやっかみ半分で読んでいたところもあったが、
「これが私小説と言うと私小説とは云々と言いがかりをつけられそうだが、まあ無視してよろしい。だってこういうことばかりしている生活なのだ」
と言われてしまえば、もうシャッポを脱ぐしかない。
神秘主義などの衒学趣味とITが融合したら、とか。
あるいはITがごく当然な世界における衒学趣味は、というか。
「エピローグ」との関連については……榎室春乃やイザナミ・プロジェクトなど出てくるが……わからず。
まっこと、アホな読者である。
ところでドリフトグラスが登場するので連想したのが「グラン・ヴァカンス」だが、あながち遠くはない、と思いたい。
というのもPC内に残された物語が、切り離されたままどう熟成するか、という視点は、通じるものがある。
お子さんご誕生おめでとう。
……と、書くのは決して文芸界ゴシップをひけらかすためではない。
中盤で唐突に登場した『赤ちゃんプログラム』が、終盤に向かうに従って大事な小道具になる。
そして濃淡あれど子育てに関わり何がしか考えたことのある人間には、感じ入らざるを得ないリリカルなニュアンスが終結にある。
要は生まれてきてくれてありがとう、と。
その感慨は創作上のキャラクターに対しても、現実に直面し続けざるを得ない実人物に対しても、言いたい言葉になるのだ。
ところで先日柴崎友香「春の庭」を読んだから連想するんだけど。
柴崎友香「春の庭」芥川賞選評で、【建物は上から見ると”「”の形をしていた】と読んで、読む気をなくした、と村上龍。
円城塔はわざと似た表現を340pに置いて、老害村上龍へのあてつけをしている。 -
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『プロローグ』(文春文庫)と『エピローグ』(ハヤカワ文庫JA)の同時刊行という異業(笑)に、つい、手を伸ばしてしまった……。
あらすじとしては、こうある。
「小説の書き手である「わたし」は物語を始めるにあたり、日本語の表記の範囲を定め、登場人物となる13氏族を制定し、世界を作り出す。」
そうして始まるや否や、『千字文』が渦巻く21ページ目にして、笑いが生まれる。
これは、凄まじい。
けれど、同時に日本語とは一体どこまでを見通せる可能性を持った言語なのか、と考える。
私はその、何パーセントを語彙として所持していて、残りは存在さえ知らないのか。
ストーリーとしては正直、分かりやすくない。
なのにハードカバー版のレビューを読んでいたら、皆ちゃんと「読んで」いて、感心する。
私みたいなふざけたレビューもまあ、役に立つこともあるかもしれないから、いいか。
筒井康隆の『残像に口紅を』を彷彿とさせる。
文字が減ってゆく世界(セカイの規定はどうあれ)に対して、文字が取得されてゆく世界。
語りが物語として創造されてゆく工程。
「私小説」として、自らが構築したこの世界を、またパーツに分けては分析する。
語彙の構成、使い方、長さ、数……。
データ化された、それらを紐解くことで、自分を知ることになるという試み。面白い。
『古事記』のテキストくらい、データとしてすぐに手の届くところに置いておいてくれ、とか。
PDFは書式を潰すからデータ保持には良くないとか。
あ。私も、ATOK良いよって言われて使ってみたら、変換しにくくて非常に難儀したことあるの、思い出したよ。
電子機器を使って読み書きするという形態はメジャーになりつつあるけど、真摯に向き合わんとする人を見るのは初めてだった。
日本はなんだかんだ言って、まだまだ紙を神聖視しているとは思う。
ああ。『エピローグ』に迷い込んでしまいそう。 -
Posted by ブクログ
といいつつ、早速辛い評価をしてしまっている訳ですが(苦笑)。「屍者の帝国」は、あくまで伊藤ケイカクの作り上げた世界観があったからこそ、傑作に仕上がったんですね、きっと。もちろん円上塔に、突拍子もない発想を十全に広げる力があるからこそなんでしょうが、少なくとも本作は、そんな期待を満足させてくれる内容とは言い難かったです。正直、難しくて理解出来ていないだけって言われればそれまでなんですが、いかんせん物語が… 読み進めるのがちょっとしんどかったです。ちなみに表題作で力尽きてしまい、もう一方の作品は読めませんでした。当然、ここのコメントも表題作に対してのものです。