安部公房のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
そもそも論だけど、安部公房の文体かっこよすぎる、勇ましいというか、なんというか、
アリスのカメラ
「シャッターを押しつづけていさえすれば、いつかアリスが写っているかもしれないという幻想。不可能にかけた、一瞬の緊張。それは、現実の拒絶であり、部分への解体の願望でもあるだろう。だが、アリスと出会えるのは、不思議の国の中でしかない。」
カメラで写真を撮ることで写り得ないであろうものの存在を肯定しようとするの皮肉だよな、あるものしか写らないカメラに対して、存在しないはずのものが写ることを祈るなんて、
公然の秘密
「当然だろう、弱者への愛には、いつだって殺意がこめられている。
やがて仔象は、古新聞のように燃え上り、燃えつきた。」
分からないけど分かりたいだけなのか、分かっているのか、分からないのかすら判断できない、 -
Posted by ブクログ
ネタバレ何回も笑わせてもらった。
特に主人公モグラのキャラクターが面白かった。
肥満体型に黒のレインコートを羽織っていたが、後はサングラスでもかければモグラとして見栄えがする。
「豚」というワードに過敏に反応するがデブという比喩で怒っているわけではなく、父親は猪みたいにガタイのいい人間で中身は最悪(母親も強姦されてモグラを産んだ)であり、今回シェルター活用している洞窟に、左足に足枷をつけられて放置されたこともあり、最初こそ痩せた体型だったが、そこから母親に枷の鎖を切ってもらって脱出してから父親への憎悪などでどんどん太ってきて、父が猪なら子は豚だな、などと同類扱いされるのがたまらないのである。
なので猪口という苗字もなるべく名乗らない。
「〜犬や豚じゃあるまいし。」
「豚だって……」
豚はいけない。
↑メモするのを忘れたが、こうゆう流れのところがあって特にお気に入り。
虫屋との出会いも面白いし、サクラ達も意図せずだが合流し、結束を高めるためお互いの弱い部分をさらけ出そう!と過去の自分語りを始めたり、ほうき隊だか謎の男が洞窟内で目撃されたり、便器に片足を突っ込んで抜けなくなったり、舞台っぽい面白さ。
ただ、モグラは女への免疫が低いため、たまに気持ち悪い描写が入るのがまじキモイのでマイナス★1 -
Posted by ブクログ
ずいぶん前に、Twitterで「脛にカイワレ大根が生えてしまった男が病院に行ったところ、温泉療法を勧められて、自走式ベッドで地獄めぐりをする話」と紹介されていたのを見た。興味を持ち買ってから数年積読されていたのを開いたが、紹介されていた通りの話だった。本当に面白い。今度、友人と読書会で読むことにした。
とはいえ、物語の全体像を一貫したストーリーとして把握するのは、かなり難しい物語だ。とにかく、場面と場面の間に脈絡がなく、「地獄めぐり」の言葉通り、大黒屋、賽の河原、硫黄泉の露天風呂、キャベツ畑、病院……といった場所で、現実にはあり得ない光景に出会っていく。
先行研究なんかを見ていると、大筋としてこの物語を「死」をテーマにした物語であり、「かいわれ大根」は、語り手の「ぼく」を孤独にする存在として読まれているようである。ぼくはどちらかというと、これは、生きる可能性を提示している物語で、その可能性こそが、「かいわれ大根」だったのではないかという気がしている。
卵と野菜とハムのミックス・サンド。風がはためく。サンドイッチに齧りつき、すぐに吐き出した。呆れたことになかの野菜は《かいわれ大根》だったのだ。嫌がらせにしてもひどすぎるよ。吐き気が込み上げてくる。例の医者が、なぜあんなに激しく嘔吐したのか、納得できた。彼は《かいわれ大根》の納豆あえを食べた直後だったのだ。時分のフケの臭いには平気でも、他人のフケには我慢できない、あの生理だろう。(p110〜111)
あいにくぼくは、さほどはしゃいだ気分にはなれなかった。運ばれてきたチャーシュー・ヘルシー定食には、たっぷり《かいわれ大根》をあしらった味噌汁がそえられていたのである。(p137)
《かいわれ大根》入りの味噌汁には、さすがに手をつけられなかった。(p140)
一つ目は、賽の河原で、観光客向けに石積みを演じる小鬼たちの引率者が、おそらく親切でくれたのであろう「かいわれ大根」入りサンドイッチに対する反応である。二つ目は、キャベツ畑で母親にベッドを奪われそうになったところを助けてくれたトンボ眼鏡の看護師と行った、ラーメン屋での描写である。
ここでは、「かいわれ大根」は、コミュニケーションの契機として現れてくる。しかし、そのきっかけに対して拒絶反応を引き起こすのは、語り手の「ぼく」の方だ。
見覚えのある植物だ。そう、もしかしたら《かいわれ大根》かもしれない。マヨネーズをかけて、三日に一度は食べている好物の野菜だ。(p14)
そもそも「かいわれ大根」は、ぼくにとって好物の野菜だった。そう考えると、引率者が渡してくれたのは、「ぼく」の好物をたっぷりと入れたサンドイッチだったわけで、本来は、好意として受け取ってもいいものだった。
しかも、「他人のフケには我慢できない、あの生理だろう」と語り手は言っているが、「ぼく」にとって「かいわれ大根」は「他人のフケ」ではない。自分の身体の一部であり、一時とはいえ、命をつなぐための貴重な栄養源でさえあった食べ物である。そんな「かいわれ大根」を拒絶してしまうことで、自己疎外してしまうのである。
考えてみれば、物語を通して、「ぼく」が好意を寄せることになるトンボ眼鏡の看護師や、下り目の少女たちと出会うのも、「かいわれ大根」があったればこその出会いだった。「ぼく」は、脛に「かいわれ大根」が生えて、病院にいったからこそ看護婦らと出会うのである。
こうやってみてくると、「かいわれ大根」は、「ぼく」にとってコミュニケーションのきっかけとしてある。それは、ぱっとしないサラリーマンをしている現実世界とは、別の生き方の可能性を提示してくれる場所=治療の場として、地獄があったのではないかということを意味している。しかし、「ぼく」はそれを拒絶してしまう。そして、物語の最期、再び「ぼく」は、カンガルーと出会うことになるのである。
六つの電動ドアが一気に開いた。誰も降りてこない。いや、なにか灰色の小動物の群れが飛び出してきたような気もした。すごいスピードでジャンプしながら、ホームを横切り、闇のなかに散らばっていく。カンガルーにしては小さいので、ワラビーかもしれない。そしてふたたび、静まり返ってしまう。(p228)
元をただせば、カンガルーというのは、サラリーマンとしての「ぼく」の悩みのタネであった。「カンガルー・ノート」と呼ばれる、ただの思いつきの商品アイデアが、上司の目についてしまったがために、新しい商品を具体化されるように指示され、何のアイデアもなく「ぼく」は、悩むのだった。
地獄をめぐる足であったベッドを失い、カンガルーという現実の群れに引き戻されることによって、語り手の地獄めぐりは終わりをつげる。それこそまさに、生の終わりを意味していた。
新聞記事からの抜粋
廃駅の構内で死体が発見された。脛にカミソリを当てたらしい傷跡が多数見られ一見ためらい傷を思わせたが、死因とは認めがたいとのこと。事故と事件の両面から調査をすすめ、身元の確認を急いでいる。(p236)
脛にカミソリを当てたらしい傷跡は、脛に生えた「かいわれ大根」に対する拒否の象徴だろう。死因とは認めがたいとされつつも、脛の傷=「かいわれ大根」の拒否こそ、彼の死にとって致命的だったのではないかと思わせる。
この物語は、自分を他者と結びつけてくれる可能性を拒否することで、自滅していく一人の人間の物語なのだと思う。 -
Posted by ブクログ
飛ぶ男を巡る、アパートに住む2人の住人の目線で展開する不思議な物語。作者特有の難解な展開と顛末。ストーリーを追うのではなく感覚的に文章を味わう読み方かよいのかも。終盤は誤植と思われるような文章になっているがワープロに発見された状態なのだろう。紙原稿のように順に書いていくのではなく、行きつ戻りつ創作していると感じた。
「さまざまな父」の方はやや筋のあるストーリー展開で、人間の2大欲求である空を飛ぶこと、透明になることを題材に、しかし親子間で展開するところが異彩であり、この後の展開で理由がわかると考えると未完である事が悔やまれる。飛ぶ男に通じるストーリーで関連性にも興味が湧いた。