野口悠紀雄のレビュー一覧
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ネタバレ中国が工業化し世界の工場としての役割を担うようになり、製造業からの脱却は必然の方向であった。所詮製造業に固執しても低賃金で生産される中国製品にはかなわない。アメリカはいちはやく経済構造を製造業から金融業中心に変えた。リーマンショックの震源であったにもかかわらずGDPの落ち込みを日本などに比べれば、はるかに軽微に抑えることができた。他方、日本は、失われた20年の間、金融緩和と円安政策により輸出を増加させ、実力以上に景気を回復させてしまった。輸出中心の産業構造から脱却できず、虫の息であった鉄鋼業さえ息をふきかえさせてしまった。脱工業化できなかった日本経済は、リーマンショックによりなすすべもなく地盤
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戦後の日本経済(高度成長、石油ショックの乗り切り)は戦時期(1940年)に確立された経済制度の上に築かれたという立場から時系列にまとめられた一冊。財政金融制度(間接金融、金融統制、直接税中心、公的年金制度)、日本型企業((資本と経営の分離(内部昇進者)、起業と経済団体、労働組合(起業別の労使協調、産業報国会が母体、他国は産業別))を挙げていく。メモ。(1)軍需省→商工省→通産省の歴史的流れは発見。(2)池田勇人の所得倍増計画、1955~70年のGDPの年平均成長率15.6%の舞台裏(均衡財政論者から積極投資論者に。打ち出の小槌としての財政投融資の財源活用)。途上国の成長の流れの中で伝統的な重厚
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日本のGDPが伸びなかった理由は、90年代以降の世界経済の大変化に、日本が対応できなかったことである。
①冷戦終結と中国工業化という変化が生じた。これは、製造業の労働力が急増したのと同じことであり、製造業を中心的な産業とする日本経済に本質的な影響を与えた。しかし、日本はこれに対応できなかった。
②金融とITの面で、大きな変革が生じた。ITは個々の産業に限定されない一般的な技術であったが、日本は対応できなかった。また、新しい金融技術も、アメリカやイギリスの経済活動を一変させた。しかし、日本は受け入れなかった。
③新しいグローバリゼーションに対応できていない。これまで日本がおこなったきたことは、製 -
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「霞ヶ関において戦時と戦後は切れ目なくつながっている」
軍需省→商工省→通産省へ
戦勝国の占領軍に軍票を発行されることは、通貨発行券を握られることを意味し、日本軍による占領地での軍票発行による経済破壊を熟知する大蔵官僚は、連合軍による日本本土での軍票「B円」流通を小額にとどめ、戦後の大蔵省・日銀による金融・財政・通貨政策の掌握が成功する。B円は沖縄で1958年まで使用される。
ドイツにおいては、「モーゲンソー・プラン」を実施、中央政府の解体および戦時中の指導者層が一掃された。
戦後復興期の指導者
ドイツ:反ナチで投獄されたケルン市長
日本:エリート外務官僚である吉田茂
日本は、1940 -
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戦後の日本経済は戦期に確立された経済制度のうえに築かれたという論。最近戦期と戦後の連続性を主張する本とよく出合う。
間接金融方式、金融統制、直接税中心の税体系、公的年金制度。
資本と経営の分離、企業と経済団体、労働組合。
土地制度。
1940年体制が高度経済成長を牽引、バブルを引き起こした。
しかしこの次の新しい体制が見えてこない。IT分権化の時代に即した体制が必要との指摘も興味深い。歴史主義の話題も。
・戦後の改革期にインフレ→平等社会の実現
・アメリカ人な日本を無知であり、通産省、大蔵省が実権を掌握
・金融鎖国下の金融統制←政府のコントロールが可能
・高度成長←比較優位でない重化学工