新潮文庫から出ている太宰中期の短編集『きりぎりす』を読みました。
まず最初の、女性の独白体小説「燈籠」、特に結び方が素晴らしいので、
ぐぐっと読む者の気持ちがつかまれます。
それで、だだーっと読んでいくと、
どうもこの時期の(?)太宰はまるで自分を卑下するように、物語の主人公を卑下して、
卑屈とさえ思わせられるくらい徹底的に、自らを人間の屑だと自認するんです。
それを読んでいても決して、僕なんかにしてみたら太宰は屑になんか思えないわけです。
自分を屑とする太宰以下なのが、それを読んでいる自分だなということに、
個人的に気付かされるので、しょんぼりして寝付くという事態に陥ります。
しかし、しかし、最後から三番目の短編、「風の便り」というのがそういう読者を救うような
手立てとしての作品になっています。このあたり、編集者のうでが素晴らしいっていう
ことなのかな、しっかり理解しつくしている人が本を編んでいることが身を持ってわかりました。
「風の便り」はこの作品群の中では、世代に関する論、創作に関する論、言葉自体に対する論などが、
作家同士の往復書簡という形で弁証法的に語られています。
すごく面白かったです。
特にですね、たとえば世代に関する話ですと、上の世代に大物がいるときの下の世代の息苦しさ、
それゆえに芽を摘まれるように、才能が伸びていかないことが明らかにされています。
これはたぶん、この時代(戦前の昭和の時代)の描写ですから、そのスケッチではあるにしても、
今の時代にも十分に言えることだったりしますね。
そういうところは、その大物たる人物のせいなのです。かれらとて、そういう部分でいえば、
失敗者であり、自らの成功しか…それはそれですごいのだけれど、し得なかった、
直後の世代からエネルギーを搾取してしまったかのような存在であると言えるんですよね。
考えてみると、そういう大たる人物たちは、その作品の力によって、
「どうだ!」と同時代のクビ差、アタマ差届かない
同業者を抑えつけてねじ伏せてしまうとところが、望まぬにしろ、あります。
そして、20歳と30歳では、経験も知恵も違うものです。
30歳と40歳でもそうです。
それなのに、ハンディキャップマッチではなく、同じ条件でレースをすることになるのですから、
下の世代は不利も良い所なんですよねぇ。
いやいや、あてこすってるわけではないですよ、あげつらってるきらいはありますけどね。
そこらへんの、世代間の条件の悪さ、有利不利を言語外のところで感じて、
世代間の亀裂っていうのが生まれるのかもしれないです。
みんな、言葉でなかなかうまく言えなくても、そういうことは肌で感じていて、
とやかく論じたてても理屈がついてこないから、とりあえずつらーっと「上の世代とはつきあわねー」
とかなるんじゃないですかね。
この場合、上の世代と付き合うことによるメリットよりもデメリットが大きいと計算されたことになりますし、
そう計算された上の世代は悲しいものです。
まぁ、身一つでやっていこうという人は、へんにメリットを考えないでしょうから、うまくデメリットも回避されて、
成功するっていうパターンもなきにしもあらずな気がしませんか。
ちょっとわかりにくいかもしれない話です。
さて。
この『きりぎりす』では、今述べた「風の便り」のほかにも太宰(?)が佐渡を訪れる旅行記「佐渡」も
面白いですし、女性一人称独白の「千代女」も、真を突いていて妙っていうような佳作です。
中期の太宰治はなかなか面白いです。僕は以前に読んだ「女生徒」がお気に入りですが、
この短編集にも先にあげた作品たちが実に心を揺さぶってくれます。
まぁ、「太宰治って面白くないね」っていう人もいますけれど、
「なんでもかんでも、してもらうのがエンタテイメント」と思っている人以外には、
まあまあ高確率で「面白い!」と言ってもらえるんじゃないかなぁ。
ほんと、太宰さんは、入水などせずに、老いてからも小説を書いてほしかったものです。
それは無茶なことだったのかもしれないけどね、彼の心の中はわかりません。