飲茶のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
哲学とはなんぞや?という疑問から読み始めたのだけど、何故かSFの世界に突入してしまいました。サイエンスフィクションはもはやフィクションではなく、物理学の世界ではタイムマシーンもパラレルワールドもどこでもドアも存在し得ることが証明されているらしい(ただ技術が追いついていないだけ)。難しそうな物理の話がわかりやすく面白く書かれており、物理の世界に少しだけ興味がわきました。
で?哲学は?自分とは何か?とかぼんやりとわかったようなわからないような、言葉で説明することは難しく、この世界に存在していた私は私ではないのでは?そもそもこの世界は存在しているのか?とイタい人になりそうなので、物理という学問から哲学的な何かを紐解いていこうという趣旨の本なんだと思う。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ哲学の入門として、非常に読みやすい本だった。最後の正義に関しての考え方は、自分のなかで正しさに持っていた漠然とした考えを文章に落としてくれたようだった。まとめの方では、善く生きるとはつまり「感覚で生きる」ということにもつながっていくように思えた。(しかしそれでは宗教的正義に近いのだろうか......)
最後の締めはまさかで、嫌悪感を少し抱いてしまった。そこにまた、自分が社会の構造主義の中に染まっているのだと感じさせられよかった。自分はかねてより、同性愛の気質もあるのではないかと思っている。自分はその世界を見なければいけないのかと斜めの方向に葛藤してしまった。
正義という答えのない問題についての思考であるため、途中出口を失い苦しくなる。また最後はどうしても俗人的というか、一つの答えでまとめられるものではない。そういうものなので仕方がないが、それでも答えを求めてしまう。これもまた構造主義によって、物事には見つかっていないだけで確かに正解があるのだと思わされているからなのだろうか。思考が深くなるような本だった。 -
Posted by ブクログ
とても読みやすかった。そして自分の考え方を客観視することができてライトな読み物ながら為になった。
まず、平等(全体の幸福量最大化)か、自由か、宗教(直観)か…登場人物の3人の女の子はいずれかに極端に振れてるわけだが、実際はこの三角形のどこ寄りかという話なのだと思う。自分は平等を語りながら、でも心の中では強い方の自由主義で、たぶん半々なのだと。平等の功利主義はパターナリズムに陥るというのも、パターナリズム自体がそこまで問題とは思わないのも本心だし、一方で強い自由主義にも共感できる。
だが何より、主人公が後半でまとめ的にいうセリフ「どの主義も全コミットできないが、前もって正義はこれだと決めつけてそれを絶対のものとして押し付けるのだけは違う。自分がトロッコ問題的な極限状況に置かれて、自分の中の善を考え抜くことが正義だ(出した結論がなんであれ)」に全力で頷いてしまった。これしかない。この結論は、正義なんて人それぞれでいろんな考えがあるよね、という思考停止とは違うものなのがミソで、なぜなら自分がその極限状況におかれ他人ごとでなくなったときに「じゃあお前の考えはなんのなの?」と突きつけられてしまう。人それぞれ違う中で自分がどの結論をだすか、哲学的に自分の価値観を考えるのは面白かった。 -
Posted by ブクログ
理論重視の西洋編も面白かったが、こちらも読み応えがある。
東洋編はざっくり言うと「考えるな、感じろ」をテーマにしているようなノリで、読みながら頭がゆるくほぐれていく感じがある。
個人的に好きなのは、東洋哲学には“思考には限界があって、感覚や直観がそれを超える”という前提が垣間見えるところ。
悟りは難しいかもしれないが、理論と感覚の二つを使いこなせば、最強なのかもしれない。
東洋哲学の歴史や流れをざっくり知りたい人にはちょうどいい入門書で、相変わらずテンポよく読ませてくれる。
東洋哲学の入門書は、西洋哲学に比べると書店でもあまり見かけないので、こういう一冊があるのはありがたい。 -
Posted by ブクログ
ネタバレとてつもなく良い本だった
難しい内容も物語だとすっと入ってきやすい
最近哲学の本を読み始めている自分にはとてもとっつきやすい本だった
人間には必ずその先に死があって、それはいつ訪れるか分からない。今この瞬間に死ぬかもしれない。いつ死ぬか分からないという考えはずっと持っていたけれど、この物語の主人公のように、でもそれは明日ではないもっと先の話と無意識に考えていた。今心臓が止まって死ぬかもしれない。明日事故に遭って死ぬかもしれない。そんな身近にある死を心に持って、死ぬ瞬間に「もう少しやりたいことはあったけど、でもまあ幸せだったからいいか」くらい思えるようにしたいなという考えが浮かんだ本だった。 -
Posted by ブクログ
東洋哲学の入門書として非常に面白かった。
平易でわかりやすく、西洋哲学との違いがよくわかる。
西洋哲学は「世界がどうなっているか」という外界への論理的な思索。
東洋哲学は「世界をどう捉えるか」という内なる世界での感覚的な体験。
昔、大学の授業で、なぜヨーロッパは発展したのか、なぜアジアは権威主義的なのか、というテーマの講義があった。
元々ヨーロッパ人にとって、自然とは「何もしなければ恵みをもたらさない。けれど、努力次第で管理できる存在」だった。
地震は少なく、中国のような大河の氾濫もない。
アフリカのように激しい高熱でもなければ、寒すぎるわけでもない。
乾燥しているから作物は育ちにくいが、全く育たないわけでもない。
要は、適度な障害がある地域。
だから、自分たちの理性と努力をもって現状を変えようとする意識が育った。
一方アジア人にとって、自然とは「普段は恵みを与えてくれるけれど、時々、抗い難い災害を引き起こす存在」だった。
地震は多いし、大河は氾濫する。津波も来るし、火山も多い。けれど、湿潤なので作物はよく育つ。
だから、抵抗しても無駄だし、でも普段は恵んでくれるから、おとなしく従おう、という意識が育った。
だから東洋哲学においては、「世界をどう捉えるか」という内なる世界での感覚的な体験を重視したのかもしれない。
そして、「この世の苦痛はすべて自分の思い込みで、本当は何もないんだよ」という悟りを得たのかもしれない。 -
Posted by ブクログ
フェルマーの最終定理といえばサイモン・シンの著作が有名ですが、本書はそれよりも少しライトに、より身近に感じられるように描かれる。2009年発刊の単行本も持っていますが、先日書店で文庫版を見かけお布施を兼ねて購入・再読。
n≧3のとき、x^n+y^n=z^n を満たす自然数 x, y, z は存在しない。
この命題について、真に驚くべき証明方法を私は発見した。だが、それを書くには、この余白は狭すぎる。
この「フェルマーの最終定理」を巡って数世紀にわたる偉大な数学者たちの挑戦。
・人が息をするように計算をしたといわれる天才オイラー。
・男尊女卑の時代に、男装してまで大学に忍び込み数学を学んだソフィー・ジェルマン。
・証明をめぐって競い合い、やがてクンマーによって「証明不可能であることが証明された」ラメとコーシー。
・複数の数学分野を結びつける視座を提示した谷山・志村。
・「急に無能になった」とまで揶揄されながらも、実に7年の歳月をかけて定理の証明を完成させたアンドリュー・ワイルズ。
そして、「フェルマーの最終定理が証明されるより先に人類は滅亡する」とまで言われたこの絶望的な難問には、当時10数億円もの賞金 (ヴォルフスケール賞) が懸けられ世界中の人々が熱狂し、命題が単純であるがゆえに数学的な知識もなく論理の飛躍にも気付けないまま誤った証明を送り付けてくる、そしてそれを隠ぺいされるのではないかといってプロの数学者たちを追い回すような混沌。
「数学なんて勉強して何の役に立つの?」......そんな問いに対して、役に立つかどうかも分からないものに人生を賭けた人々の姿が描かれている。彼らの熱意、執念、そして葛藤に読むたび胸を打たれる。
仕事に直接役立つ類の本ではありませんが数学における美しい物語の一つ。個人的にとても好きな逸話で、多くの人におすすめしたい一冊。興味をもった際にはぜひサイモン・シンのフェルマーの最終定理も是非。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ普通の哲学入門書にはバキ分がたりない!バキのように強さに一生をかけた人達、哲学者も強い論(誰もが正しいと認める)に一生をかけたので!
◎プロタゴラス
紀元前400年頃、ギリシア、相対主義。
相対主義「絶対的な真理はない!人それぞれ!」
狩猟から農耕になり、都市(ポリス)を形成し村が群れると村ごとの常識が異なる。(雷は山の神の怒りor神の夫婦喧嘩etc)ゆえに真理も存在しない(場所や時代により変わる)論。
「人間は万物の尺度」結局はそれぞれの個人の価値観だよねって主張。当時民主主義だったので大ウケ。どんな事も論点ずらして主張できた。
◎ソクラテス
紀元前400年頃、ギリシア、無知の知
無知の知はナゼナゼ期ばりに、ずっと何故を繰り返して聴くと答えに詰まる。ってことは知らないのに言ってるんですねとバカにする。
真理を追求せよと言いたかった。
◎デカルト
1600年頃、フランス、方法的懐疑
数学はいくつかの公理から導かれ証明できる。三角形の内角の和は180度とか。
哲学もそうでは?ちゃんとした公理を探す。目の前にりんごがある…いや、悪魔が見せる幻覚かも。悩んだ挙句、悩む自分は絶対居る!「我思う、故に我あり」
◎ヒューム
1700年頃、イギリス、懐疑論
「我あり」ってなんや?それ、「経験」やろ?
ペガサスは経験無いのに知ってるのは、複合概念(馬と翼の経験を合体)で得てる。神もそうだろう!
科学も、火を触って熱いというのは、偶々今まで100万回そうだったけど次は違うかも。妖精が火を触る人を見て熱さを与えてるだけで、妖精を捉えると熱くないかも。科学は思い込み。
◎カント
1700年頃、ドイツ、批判哲学
ヒュームの言う通りだが、なぜ多様な経験をした人が数学とかで行き着く結論が同じなのか?
経験の仕方に共通の形式(空間的、時間的)がある!
だから、人間にとっての真理はある!
イソギンチャクにとっては、上から落ちてくる餌が世界の全てだが、人間にとっては三次元。もっと違う生物にとっては人間もたかが3次元かも。
「真理は人間によって規定される」
真理は一つではなく、それぞれの生物ごとにある。
◎ヘーゲル
1700年後半、ドイツ、弁証法
互いの考えを徹底的に戦わせる。丸と主張する人と四角と主張する人も、徹底的に話し合えば円柱だったことに気づく。真理も徹底的に戦い続けた先に辿り着く!
◎キルケゴール
1800年頃、デンマーク、実存主義。死に至る病
「まって、それ何年かかるん?」「その為にしねるぐらいのが真理やろ!」
◎サルトル
1900年頃、フランス、アンガージュマン
「人間は自由の刑に処せられている」
何が正しいのかわからないのに放任された。
サルトルはそんな状況でも決断して強く生きるべきと言う
◎レヴィ=ストロース
1900年頃、ベルギー、構造主義
部族は劣ってると思ってたが調べると独自の文化で形成されてる。サルトルみたいに、決断の先に真理があるのか?それは西洋の真理であって部族の真理ではないのでは。部族を導く西洋が真理を見つけなければという構図は違うのでは?
西洋では時間は過去から未来に一直線で進む(PDCA的な)。東洋(インド)では時間は輪廻。東洋では誰がいつ生まれていつ何をして…ではなく、同じ物語を洗練させて行く。それが本質。どうせ繰り返すので記録するだけ無駄では?
◎デューイ
1850年頃、アメリカ、プラグマティズム
真理とかいいから、実生活に役立つこと考えよう!
愛とは?真理とは?の本質じゃなく、で、それって役立つの?という観点。道具主義。
人を殺すことは悪いこと…も本質が曖昧だが道具主義的には、「人を殺すと悪いというルールは何の役に立つの?」と考えられて答えが得やすい。その世界はいつ殺されるかわからず危険だから、そういうルールを植え付けている。
有用であればそれが真理。
◎デリダ
1930年、アルジェリア、脱構築
西洋は音声中心主義でダメ。話し手を大事にする。
話すことを考え→発話し→聞いて→話されたことを考える
つまり、答えは話し手のみ知る。死んだ哲学者が書いた文章の正解は不明で手に入らない真理。(というか聞いても聞くのが言葉だから正確に伝わるかは…ループ!)
読み手中心主義の方がいい!
◎レヴィナス
1900年頃、リトアニア、他者論
自分がユダヤ人収容所で死んでも続いて行く世界が怖い。イリヤ。この世界は他者(自分に無関係にそこにあり、決して理解できない不愉快な何か)で溢れている。
ーーーー以下第二章だけど、一人一人メモってくのめんどくさくなったので、いつもどおり印象に残ったヤツだけ…
ソクラテスの弟子で、「国家」という本を書いたプラトンはイデアを考えた。三角形の石って厳密には三角形じゃない。厳密な三角形すらピクセル単位で見るとガタガタ。厳密な三角形ってみたこともないはず。なのに何故厳密かどうかがわかるのか、別世界に究極の理想の姿が存在する。それをイデアと呼ぶ。
なので、「国家のイデアを知る哲学者が王になるか、王は哲学を学ぶべき」哲人王思想。
で、国中の子供達を集めて英才教育するアカデメイアを作り王を目指す。
そこで最優秀賞のアリストテレスはイデアの存在を疑問視。ってかイデアがどうのってダルくね?馬は四足歩行でたてがみがあって顔が長くて…という要素を持ってるから馬では?どんな特徴を持つのかよく観察すべき!ってことで様々なことを観察して纏める。自然科学であり万学の祖。ちなみにイルカは乳を飲ませるから魚ではなく哺乳類と分類したのもアリストテレス。
儲けることを悪とする考えは西洋でも東洋でも存在する。西洋だと「金持ちが天国に行くのはラクダが針の穴を通るより難しい」東洋だと士農工商のように商人の身分が低い。(と書いてたけど、士農工商が身分順ってのは誤読だった気がする)
利益を追求すると権力者を脅かし、みんなが豊かになろうとすると地道な穀物生産が行われなくなる。
と、されているがんなこたぁなくて、神の見えざる手によって調整されて自分だけ有利にはならん。全体の利益になっちゃう。だからどんどんお金儲けしろ!
マルクスは資本主義は破綻すると言う。労働者が100稼いでも会社からもらうお金は10だから。資本家が搾取している。資本家の競争で叩き合いになり、労働者が犠牲になる。だから、国家が全て管理する社会主義を提唱。でも失敗。平等と言っても共産党官僚は偉かった。また、平等だからやる気がなくなった。
社会主義は大きいプロジェクトには強く、宇宙なんかは一時的にアメリカを上回った。ただ、小さいプロジェクトに弱い。サラリーマンがお昼に会社から出てきて遠くまで言っているのを見て、近くに定食屋を作って、2号店3号店…大金持ちに!または、全然当たらず店が潰れて借金で首が回らなく…。前者ならみんなに必要だった、後者ならいらんかった、だけ。これが共産主義だとお役所仕事で不真面目に配置を決めるので、非効率な町並みが作られる。
マルクスの予言した資本主義の崩壊は未だ起きてない。何度も不況や恐慌は発生しつつ、しぶとく行きている。次の危機は乗り越えられないかもしれないし、永遠に崩壊しないかもしれない。
資本主義社会の今、何のために働くのか。新しものを作り続けることを辞めると小さな工場は倒産する。マグロのようにドンドン新しいものを作り続ける必要がある。お金を稼ぐため?もインターネットの発明でほぼ不要になってる。田舎の小さな部屋にパソコンを置いてネットしてれば楽しく生きれる。月に何日かバイトすればいい。
そんな現状では、ニートが出てきたりFIREして必要な資金だけバイトで稼ぐ人が出てきて当然。だが、それだと資本主義は退廃する。国家は何をしてくれるのか?
国家は何もしない。今は何主義の時代か?新自由主義である。
自由主義はアダム・スミスの哲学で、自由に行動しても神の見えざる手でみんなが幸せになる。という主張。
自由主義は世界恐慌と共に滅んだ。国家が市場を監視し、コントロールすべき。景気が悪くなるとドカンと金使って公共事業をやる。が、お役所仕事で赤字施設まみれになった。でも、どうせ税金で補填すりゃいいやと。そしてドンドン赤字が膨らみ税金が上がり国民の負担が…。やっぱり国家が市場をコントロールすべきじゃない!
ということで、新自由主義が始まった。ポイントは2つ。
「構造改革」民間企業を制限する法律を撤廃して自由に商売させよう!見えざる手を信じよう!結果、タクシー会社は乱立して倒産まつり、派遣会社も乱立して派遣だらけで景気が悪くなったら失業。
「小さな政府」郵便や高速などは公共事業で国が運営してたが、民営化!
で、結局国はなにかしてくれるのか?見えざる手がなんとかしてくれると祈ってくれる!!そのうちなんとかなるはず。そりゃ勝ち組負け組出てくる。
ーーー以下第三章。神様の真理。
紀元前のエピクロス。快楽主義という名前でアヘアヘ誤解あるが、これは征服されまくりの世で幸せを探す他学派が、盗まれると悲しいから財産持たずに裸になるべき!(キュニコス派)とか、厳しく生きよう!食べたくても少しだけで我慢!(ストア派)と比べると、普通に生きようよw(エピクロス派)ぐらいのレベル感。
彼は神については「おったら人間を気にかけるけ?あれ食うなとか、それやるなとか言うか?ってか、人間側からイメージを押し付けるほうが悪くね?」と、神様を気にせんでええやろと言ってる。
イエス・キリスト。キリスト教の元のユダヤ教は一神教で選民思想(終末に救われるのはユダヤ教信者だけ)。ユダヤ人は「連れ去られて→奴隷化→逃げ出して→悲惨な逃亡生活→やっと国家作った!→滅亡→奴隷化」という歴史をたどり、国なし民族として他国で汚れ仕事しつつ、「コレは神の試練…救世主が救ってくれる」と思いながら生きる。現れた救世主イエスは言った
「汝の隣人を愛せよ」
は?いや、殺してくれよ、敵を!
「汝の敵を愛せよ」
いやいや、殴り返してよ!奪われたものを取り返してよ!
「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」
「上着を奪うものには、下着も与えよ」
・・・はい、捕まえて、十字架に貼り付けて、串刺しにしてぶっ殺しました。
新興宗教キリスト教の信者たちは「あんな優しい人に酷い!!」と言いまわった。ユダヤ教の規則もめんどくさくなってきてる中、隣人を愛せのシンプルが響いた。
ニーチェ「神は死んだ」
ニーチェ「神とは、弱者の恨みが作り出したに過ぎない」
ニーチェ「神への信仰は弱者の恨みが生み出した歪んだ負の感情。人間本来の生を押し殺してる」
やべえヤツ。
ニーチェ「いやいや、元々古代だと善いこと=強いことで、悪いこと=弱いことじゃん。ユダヤ人が奴隷中に変なことになったやで。殴って!隣人を愛すよ!ボクは御主人様が憎しみの心から逃れられるように祈るよ!!そして、善が悪になり、悪が善になったんや。」
そうかもなぁ…「ボクは、カネと権力がほしいです!」って人いたら、いい人だ!ってならないよな現代でも。
ニーチェ「既存価値観が崩壊しても「超人」になれば解決や。めっちゃツエエやつ。肉体でも、金持ちでも、勉強でも、ひたすらに努力してツエエになればええねん。髪が死んでも超人は大丈夫や」
ニーチェはすべての価値観が崩壊した終末の時代を生きる人達、末人を著書で書いてる。末人は何も目指さず健康とよき眠りを求め穏便に人生が終わることを願ってなんとなく生きてる。…えっ?俺ら?
ーーー以下第四章。存在の真理。
哲学はタレスが紀元前600年頃に「万物の根源は水である」から始まる。全部乾いたらチリになるし、って。ヘラクレイトスが「万物は変化する」(岩は砂になり、砂の粒子が木になって、りんごになる)に行き着く。でも、パルメニデスは「万物は変わらない」(りんごを刻んで刻んで、小さくなってもりんご)と言う。古代ギリシア時代の哲学をまとめるのはデモクリトスで、めっちゃ分割したら「原子」になり、他の原子と結合したり分離したりする原子論を唱える。原子は変化しないが、原子が結合したり分離したりで変化するように見える。
※ なんだかつまらなかったので、コレ以降流し読みした。
近代言語学の祖、ソシュール。人工言語を作って授業で発表!…したら論文も書かずに病死!!学生がどんな授業だったのかをノートを持ち寄って頑張って作った「一般言語学講義」
ソシュール以前の言語学は「赤くて丸いモノ」に「りんご」という言葉がラベルのように貼られていた。ソシュールは「区別するもの」に名前をつけていると解釈した。
解りづらいが、いろんな形の石を見て我々は「石だね」と区別はしない。でも、りんご・スイカ・メロンを見ると、「りんご・スイカ・メロンだね」と区別する。
宇宙人に見せると、「有機物だね」ですむかも。実際、papillon(パピヨン)とフランスでは区別しないが、日本では蝶と蛾で区別する。英語のsisterも日本語だと姉/妹と区別する。つまり、「言語体系の違い=区別体型/価値観の違い」である。
区別する場所を変えると世界は違って見える。親と子を家族とし、家族の集合体を国家としているが、父族と子族という風に区切るとまた世界は違って見える。
襲来した宇宙人は我々を人と区別するかどうか、りんごも人も有機物という区別かもだし、有機物と無機物を区別しないかも、原子関係とひとまとめかも。
結局この世は「プラトン主義」(世界には目に見えないものもある)と「反プラトン主義」(目に見えないものはない)を行き来してる。一昔前は科学で測れないモノもあるとかオカルトブームとか精神的豊かさを求める新興宗教とかでプラトン主義だったが、今は反プラトン主義で物質的な価値を求めており、国家は余計なことをせず見えざる手に委ねる。ただ、プラトン主義の波も見えている。結局は行ったり来たりする。