藤沢令夫のレビュー一覧
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久々に読むのに骨が折れた。
正義とは何か、正しい国家の姿とはどのようなものなのかを根源的に問い詰めたプラトンの著書。ある種の理想の姿なのかもしれないが、この理想を目指して失敗したのがナチス・ドイツだったりレーニンのソヴィエト連邦だったりポルポトだったりするのだろう。家族を否定し、心を揺さぶる娯楽的なものを排除し、理想的な人間の完成をひたすらに目指す。宗教の原理主義もこんな感じなのかもしれない。
だが、だからと言って本書を悪書とは思わない。元来哲学とか思想とかは、斯様に根源的であり、社会にとって劇薬―薄めると薬にもなり、原液だと毒にもなる―であるべきだから。
とは言え、私はプラトンよりもホメロスを愛す。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ解説を読めば概ね理解できるものの、ソクラテスとメノンその他との会話では真意が推し量りづらい。恐らく彼らとの会話に伍しない限りは分かりえないのだろう。
ここでは「徳」とは教えられるものであるのか?ということを延々と話し続ける。まずソクラテスは徳とはなんなのか?どういったものか?を云う。
①知識は授かるだけではなく、云われて思い起こすこと。(想起)
しかしこの後、徳がなんであるかがあいまいのまま、「教えられるのか?」という質問に逆戻りする。
②性質を語るには、仮設する必要があったこと。
③ ②を踏まえて、徳は教えられるものである、という結論に達した。
④しかし②においては、仮説による結果であるだけであり、実際に徳を教えられる人間はいるのか?実際にいないではないか、ということだ。
以上のことから、「ソクラテスは徳は知であるけど、プラトンは結論としていないのではないか、知だとしても、教えられる人はいないではないか。」ということになる。でもプラトンは「ソクラテスがそうなのではないか?」とし、「そのような人間が政治家に教えることができれば、哲人王の出現となる。」ということになる。これがプラトン哲学の中心テーゼであるらしい。もっとも、後世になって否定されるのではあるが。 -
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プラトン以降の歴史は全て、彼の手の平の中だったのかもしれない-そんなことを痛切させれらる。とにかく国家の形態とその推移に関する分析は圧巻だった。ここでプラトンは自由と平等を愛する民主主義というのを決して優れた国家形態とはみなしていない。またこの制度は富者が支配する寡頭制に対する反発として、寡頭制の次に必然的に現れるものと考察している、正に歴史がそれを証明している通りに。そして何より恐ろしいのは、この民主制というのが自由と平等を愛する結果、守るべき秩序も失われ僭主独裁制、つまりファシズムを必然的に生み出すものと描かれているのだ。そう、歴史は今まさに、その事実を証明しようとしつつある。
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プラトンの中期対話篇。
「恋(エロース)」について
恋を"美のイデアを想起する神的狂気"と規定して、想起説や魂-三部分説を援用しながら称揚し、打算的な観点から恋を貶めようとする議論を批判する。恋とは、功利的な i.e. 即物的な立場からその是非を論じるべきものではないのであり、現世的な実用主義を超えた形而上的な観点から論じようとするソクラテス=プラトンの姿勢には、一面に於いて共感できる。但し、私の場合は、恋をイデアとの結びつきを根拠にして称揚するのではなく、合理性を超越しようとする実存の投企として肯定するのであるが。本筋とは関係ないが、人間の五感の中で視覚を最重視するイデオロギーがソクラテスの時代からあったことは、面白い発見だ。
「弁論術(レートリケー)」について
真実らしく語るには、真実そのものを知っていなければならない。よって真実を求める営みとしての哲学が必要となるのであり、そこでの方法論がディアレクティケー(弁証法)である。そこでは、「それは何であるか」と事物の"本質=意味=価値=秩序=当為"が問われ、総合と分析の手続きによってその解明が目指される。
結局のところ、「恋」にせよ「弁論術」にせよ、それが真実在=イデアを求める哲学(愛知)に裏打ちされて初めて価値を有するということになる。
なお、対話の最後に文字・書き言葉について論じられており、ソクラテスはエクリチュールに対して否定的な見解を表明するのだが、そこはまさにデリダが音声中心主義(現前の形而上学)の典型例として指摘している箇所であり、極めて興味深い議論が展開されている。というのも、私自身は、デリダの批判も分かるが、その上でなお、現前の形而上学に魅せられてしまっている面があるから(言葉を不特定多数に発することに対する i.e. 言葉を発することそれ自体に対する、アンビヴァレンツは、この点に由来する)。
"・・・彼らは、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになる・・・。"
"それに、言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く。そして、ぜひ話しかけなければならない人々にだけ話しかけ、そうでない人々には黙っているということができない。あやまって取りあつかわれたり、不当にののしられたりしたときには、いつでも、父親である書いた本人のたすけを必要とする。自分だけの力では、身をまもることも自分をたすけることもできないのだから。"
"それを学ぶ人の魂の中に知識とともに書き込まれる言葉・・・。"
"それはほかでもない、人がふさわしい魂を相手に得て、ディアレクティケーの技術を用いながら、その魂の中に言葉を知識とともにまいて植えつけるときのことだ。その言葉というのは、自分自身のみならず、これを植えつけた人をもたすけるだけの力をもった言葉であり、また、実を結ばぬままに枯れてしまうことなく、一つの種子を含んでいて、その種子からは、また新なる言葉が新なる心の中に生れ、かくてつねにそのいのちを不滅のままに保つことができるのだ。そして、このような言葉を身につけている人は、人間の身に可能なかぎりの最大の幸福を、この言葉の力によってかちうるのである。"
これらの箇所には、西洋形而上学の根本的な機制が表れているように思う。 -
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西洋哲学の祖・プラトン。
哲学書を数冊読んだ後では今さらすぎるが、
後世の多くの哲学者が参照するので、必須と思い手に取った。
話は、ソクラテスとその友人たちの対話形式で、理想の国家のあり方を議論する。
本の厚みに恐れつつ読み始めたが、思いのほか読みやすかった。
上巻の印象を一言で言うと、エリート主義と優生思想。
偽善を断罪するなど、道徳的なところも勿論ある。
しかし一方で、目を疑うほど危険な記述も見られる。
生まれつきの病気持ちは生きるに値しない人間、母親が20〜40歳の間に生まれたのではない子供は正当ではないので社会に押し付けるな、兄弟姉妹は結婚してもいい、
など、これ大丈夫?と思うようなことも書いてある。
古い映画などでよくある、「原作を尊重して差別的な表現も残してあります」的な注意書きはこのような古典には不要なのだろうか。
この内容を若い時に読むのはどうかと思うし、もし信じ込んでしまったら、ろくな大人にならないだろう。
とりあえず下巻へ。
主な要点を挙げる。
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・すぐれた国家の要件は、「四徳」と呼ばれる〈知恵〉〈勇気〉〈節制〉〈正義〉と、〈敬虔〉である。(p315)
・国家の教育と養育の規範は、音楽・文芸と体育である(p270)
・人間の魂には〈理知的部分〉と〈欲望的部分〉があり、前者が後者を監督指導する(p363 etc)
・さらにそこへ、怒り、勝気、覇気などの「気概の部分」を加えた魂の機能の三区分が、国家の階層における三つの区分に対応する(p488)
・美や真実を知っているのは〈知識〉である一方、それによって形づくられたものにただ愛着を寄せるのは〈思わく〉でしかない(p460-461)
・〈思わく〉とはドクサと同義である。この〈思わく・ドクサ〉と〈知識〉の区別・対比は、プラトン哲学において重要な役割を果たす(p509)
・ソクラテスは、正義をはじめ、人間の生き方に関わる道徳上の事柄を「技術」としてとらえる(p478)
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Posted by ブクログ
かかった時間
11時間! プラトンのその他の著作は短いですが、本書は中々骨太でした。
概要
本作は、正義について説いた作品である。作中内での主要な問いは、以下の3つである。
・正義とは何か、正義が実現する状態はどのようか
・正義が実現する国家はどのようにして可能
・正義を守る人自体にもたらす便益は何か
これらの問いを中心に、ソクラテスとその弟子の対話形式という形で論が展開される。
1. 正義とは何か
国家における正義とは、統治者と補助者と生産者の三階級が、それぞれ固有の特徴を発揮し、それに専念することを指す。そのような正義が実現した国家には、節制と勇気と知恵が存在する。勇気は軍人に宿り、知恵は政治を司る人々に宿る。そして、節制とは、各人が自分の職務以上に手出しや口出しをせず、特に政治分野において知恵のある人々に一任することに合意することを指す。これら3つの状態は、各人が適切な職務にあたるという正義が実現されてこそ、成しうることである。 そして、究極的には、国家の性格は国民の性格を反映したものと考えることができる。そのため、正義が実現する国家においては、人々の魂も同様に、各区分が適切に作用している。魂は3つに区分され、欲望、気概、理性に分けられる。理性が欲望を抑えることに全体が合意し、気概が理性をサポートする。このように個々人の魂が成熟することで、国家へと反映され、最終的に正義が実現されるようになる。
2. 正義が実現する国家はどのようにして可能か プラトンは正義を国家で実現するために、妻・子供の共有や男女平等の労役や徴用、私有財産の廃止など様々な方策を提案する。
中でも最も有名なのが「哲人政治」である。 プラトンは、哲学者が国を統治する優秀君主制が最も正義が実現されやすい政治形態だとする。この優秀君主制は、名誉制や寡頭制、民主制、僭主制とは異なる政治体制として区別される。 統治者に哲学者を据えるのは、彼らが現象の背後にある真理(イデア)を把握することができるからだ。
読者が具体的な哲学者によるイデアの把握のイメージを持てるように、プラトンは洞窟にいる囚人の話を引き合いに出す。 暗い洞窟には囚人がいる。これは大衆の比喩だ。囚人の背後から光が照らしだされ、前には影絵が映し出されている。影絵が仮象で、照らされている物体がイデアと称される善そのものである。
囚人らは、影絵を常に見ることを強制されている。彼らは影が現実であり、実在するものだと認識している。一方で、哲学者は、洞窟から抜け出して、実在の世界を見た人と表現される。彼らは、影絵が真実ではなく、別に真実が存在していると知っており、囚人らに真実を伝える責務を担っている。 この例の囚人のように大衆は仮象に惑わされる。そのため、善のイデアを観照した哲人のみが、正義の規範を国家に持ち込むことが可能であり、責務として負っているのだ。
3. 正義を守る人自体にもたらす便益は何か ここまでで、正義やそれが国家で実現している状態、その方法を明らかにした。しかし、正義を実現する上で大きな障害になりうるのは、個人の動機づけが困難であることだ。
実際、正義の意義は了解している人が多いが、いざ実践するとなると行動に移す人は少ない。それは、不正をする方が正義を実現するより余程容易く、より益をもたらすように感じられるからだ。
プラトンの対談相手は、それを示すために思考実験をしてみせる。もし自分の不正が明るみに出ないリングがあったら、誰もが不正に手を染め、報酬を得るだろうと言うのだ。
この問いに対して、プラトンは3通りの方法で説得を試みる。 ①不正に手を染めている人の魂は自由ではなく、不幸せで惨めであるから。 不正に手を染めている人は、名誉欲や金銭欲などの欲望や気概が制御できず、支配されている状態である。それは、自由と程遠いため、不正は正に劣ると結論づけられる。
②正義の実現を求める過程では、知、名誉や金銭快楽を味わうことは可能であるが、名誉や金銭欲から行動する場合、知の快楽を味わうことはできないから。また、知の追求それ自体が最も快楽をもたらすから。
正義の実現には知の追求がかかせない。 そのため、当然ながら、正義を実現するプロセスで、知の快楽を味わうことはできる。それだけでなく、知を追い求めると、名誉や金銭ももたらされることがある。一方で、名誉や金銭を追い求めた場合、知の快楽を味わうことはできない。
また、経験や思慮、言論において、知を愛する人は最も優れているため、明瞭な判断力を持っていると考えられる。そのため、様々な快楽の中でも、彼らがよしとする知の快楽は最上位に置かれる。このように、知の追求は他の欲も満たす可能性があり、またそれ自体がよいものであるため、
③正不正への関与は来世の魂の運命を決定づけるから。 プラトンは、正不正によって来世で魂の裁きをうけると主張した。現生の人の目は誤魔化せても、あの世の神々の目を誤魔化すことは決してできない。そのため、粛々と正義の実現に取り組むことで、来世の魂をより優れたものにすべきと説いた。
補足 政治形態
プラトンは、優秀君主制こそ最も優れた政治形態だと主張した。この政治形態も永久に維持することはできず、優秀君主制→名誉制→寡頭制→民主制→僭主制の順番で悪化の一途を辿るという。
まず、名誉制への移行は、最適な出産のタイミングがズレることで、優秀ではない人間が産まれることによっておこる。具体的には、次世代の担い手が、知の追求ではなく、勝利や名誉の追求を重視するようになり、名誉制へと移行する。 次に、名誉制から寡頭制への移行は、富の蓄積による金銭欲重視への思考変化によって起こる。 そして、寡頭制から民主制への移行は、格差の進行による社会の分断の進行と持たざる者の鬱憤の爆発によって起こる。 最後に、民主制から僭主制への移行は、以下の二つの理由で引き起こされる。 ①過度な自由への反動から隷属志向になりやすいこと ②民衆的主導者は自分の生存のために自らの権力を集中させることに勤しむようになること 民主的主導者は、票田である大衆のご機嫌取りのために、財産を持つものへの反乱の首謀者にならざるを得ない。そして、一度、彼らへの何らかの措置をとった場合、攻撃を続けるか、もしくは自分が攻撃されるかという選択肢しか残らない。最終的には、保身のために、周囲の攻撃を続けることになり、僭主制へと移行する。
感想
1. 読みづらい
プラトンは、対話形式で論が展開されるので、平易で読みやすいと見せかけて、議論の現在地がわからなくなるのは私だけだろうか? 本来、議論の全体像を先に読者に提示するべきだと思う。具体的には、問いとその問いを解くために必要な論点を提示してから、各論点の具体的な議論に入るべきだ。そうすれば、読者は今の議論が何を解こうとしているのかを意識して読むことができる。
しかし、本作(というかプラトンの著作全体の傾向として)大きな問いしか明示されず、論点は議論が進むに従ってどんどん追加されていく。全体像が見えないめ、本文内の議論の大論点や中論点を忘れてしまい、何の議論をしているのかわからなくなることが多発した。スルスル油断して読んでいると、ある時点で結局何が言いたかったんだっけ?と立ち止まる必要性が生じ、結局複数回読まなくてはいけず、ストレスが大きかった。 また、論証の方法が類比が多く、とにかくこれが分かりにくい。類比とは、証明したい命題と類似の構造を持った事例を証明することで、同時に命題を証明する方法である。これを多用するせいで、証明したいこととはかけ離れた脈絡のない例がいきなり登場することが多い。ソクラテスの対話相手も「はい?」となってることが多いように見受けられたし、本当にやめて欲しい。
2. 現代に応用不可能なソリューションの比率が高く、実践的ではない
本作は、国家の政治形態や人材育成のあり方に関するアイデアを説く場面も多い。そして、そのアイデアが現実からかけ離れたものが多く、現代への示唆も個人的には少ないと感じてしまった。妻子共有とか、私有財産の否定とか、音楽体育の授業の徹底とか、詩人の追放とか。 アメリカのトップ大学の課題図書1位にも選ばれたことがあると聞いていたので、かなり期待していたのだが、予想以上に(個人的には)役に立たない解決策が沢山出てきて、読む気が失せてしまった。
3. テーマ設定の普遍性の高さ
いろいろ文句を言ってしまったが、テーマ設定については本当に素晴らしいと思う。本作が提示した「正義とは何か、正義を実現するものは、不正をするものより、本当に利益が大きいのだろうか」といった問いは、誰しも感じたことがあると思う。
こういう解かれるべき問いを見つける目利きはどうやって培われるのだろうか、と考える。マルクスもニーチェもプラトンもヴェーバーも、そもそもの問題設定が秀逸であることが、彼らの思想を偉大たらしめた一因だと思う。例えば、ヴェーバーは「利潤追求を第一義とする資本主義が、どうして禁欲主義で質素なプロテスタントの国々や地域を中心に発展したのか」という問い。こんなの問いの時点で偉大ですよね。 現代では、生成AIが解を導出してくれるようになったので、問題発見・設定力と実行力の重要性がますます高まっている。これは賛否両論あるけれど、トランプや参政党のイシューセッティング力は躍進の要因って言われたりするぐらいなので、やはり前者の能力は本当に重要だと感じる。
プラトンの場合は、ソクラテスが刑死したことが大きく影響したんだろうな。降りかかった不条理を問いに昇華できていて、きっと強くて立派な人だったんだろうと思う。
4. 「正義は不正よりお得だ」は論証できてない
前述した通り、「正義に向けて動く人は、不正をする人よりも得をするのか、損なのか」という問いに真っ向から勝負しているのが本作の魅力だ。 この問いは絶対みなさんどこかの場面で感じたことはあるはずだ。
例えば、
正義の実現に向けて動くと自分に実害がある場合: 小学校の時、いじめる側や黙認する側の方がクラスで生き生きとしている。そんな中で、わざわざ状況を変えるために動くべきなのか。
明らかに不正をしている人が利益を得ている場合: 詐欺師やそこまでいかなくとも倫理や環境に配慮していないインフルエンサーが大儲けしている一方で、真面目に働いて安月給。
某米国の内政や外交。自国の利益のためなら、他国への軍事介入もするし、国際協調の機関は抜ける。
「正義は不正と比較して、得か、損か?」の問いに対しては、1の状況であれば明らかに正義は損だし、2の状況であれば不正は得だと感じるだろう。これでは、積極的な正義に向けて動こうとは思わないわけである。
この問いに真っ向から向き合ったのがすごい。 しかし、肝心のプラトンの答えは釈然としなかった。
ざっと私の粗い読み取りだと、問いに対する答えは以下のようになっている。
①不正に手を染めている人の魂は自由ではなく、不幸せで惨めであるから。 ②正義の実現を求める過程では、知、名誉や金銭快楽を味わうことは可能であるが、名誉や金銭欲から行動する場合、知の快楽を味わうことはできないから。また、知の追求それ自体が最も快楽をもたらすから。 ③正不正への関与は来世の魂の運命を決定づけるから。
まず、③のような死生観は成人後だと変えることは難しい気がしている。また、科学主義が跋扈する現代では、この魂の概念は説得力に欠ける。悲しいことに、これが最大の理由として提示されていたような印象を受けたので、ここでプラトンの論の限界を感じてしまった。
①と②はもはや生き方の美学や志向の話で、全員が納得できるような説得力や普遍性は持ってないですよね。個人的には好きですし、やはり立派だなと思うので、寄せていければなあと思うんですが。
改めて、前回読んだニーチェの指摘が身に染みた。もはや全員共通の善や道徳は存在する時代に私たちは生きていない。そもそも善悪を重視するのか?善悪って何か?善く生きるべきか?それは、自分自身で探さなくてはならない。 今後の方針としては、以前読んだニコマコス倫理学の方がかなり腑に落ちた気がするので、再度挑戦したいと思っている。(優先度は低めだが) あとはカントかなあ。。。
5. 思ったことを色々
①気概概念の興味深さ
魂は欲望、気概、理性の三種の区分があり、そのうち気概は怒りや激情を指すという。この気概部分は、理性の駆動が円滑になるように支援するらしい。この気概が欲望として否定的に捉えられるのではなくて、理性の駆動に役立つものとして切り出して分類されているのが興味深い。確かに理性だけだと推進力が弱いようにも感じた。
②富と堕落はセット 富の蓄積とそれに伴う堕落は、いつの時代でも憂慮されているという発見があった。ヴェーバーの著作でも、これが指摘されていた。 プラトンは、この富の蓄積が名誉制から寡頭制に堕落した原因だと喝破して、強く警戒していたようだ。政治家は卑属な名誉や金銭欲に目が眩んだ人がなってしまうと、国は不幸になるという。全体が幸せになることを考えるのが正義であって、政治家はそもそも前述した卑近な欲目当てでなるものではなく、無私な人が望ましいと言っている。それを防ぐためにも公人の私有財産の保有を制限することまで奨励している。
日本の政治家は名誉欲とか金銭欲でなる人いるんか?と思うが、某国の大統領とかはまさにこれですよね。そういう人を選ばないこと、大事。
③どの政治形態でも怖いしサイアク
高校の時に受けた政治経済の授業以来に、プラトンの政治形態の分類にお目にかかった。 プラトンは民主主義を最悪から2番目の政治形態として分類している。それは一番甚大な被害をもたらす僭主を生むのは民主主義だけだからだそう。この民主主義からの僭主制への移行に関する分析は非常に興味深いと思った。移行の特徴として、大衆が過度な自由への反動から隷属を欲するようになることや、財産を持つ層の攻撃者として指導者が選ばれることが挙げられていた。これは、歴史を見ていても起こることですよね。 私も僭主制が最悪であるということはプラトンと認識が一致しているので、以下のように気をつけたいと思った。選挙も近いですし!①僭主を生み出す政治形態であることを強く自覚し、注意深く選ぶこと②強いリーダーシップを無闇に求めない③明確に敵を設定して攻撃するような人は選ばない
そして、個人的には、政治形態は結局どれに行っても最悪だと思う。英会話の先生と話していたときに、最近のアメリカは寡頭制に例えられることを知って、個人的には民主主義よりこちらの方が胸糞が悪いと思った。ご存知の通り、アメリカは先進国内ではトップで格差がある。また、主要メディアも富裕層に大株主として所有されているケースが多く、情報操作されている可能性もあるそう。また、選挙活動への莫大な資金援助もある。このようにメディアやロビー活動を通じた政治の支配はどんどん進行しているそう。1年だけアメリカに留学した時も、この国凄いけどやばい、ロールモデルにしたらあかんとずっと思っていたので、日本がアメリカみたいにならないように強く願っているし、何かできることがあればしたい。プラトンのいうように、鍵は「富と堕落」をどう防ぐか、だと思う。
上下巻二冊分だったので、非常に長くなってしまいました...! 次回もプラトンでずっとレビューが書けてなかったゴルギアスを再度読み直して、紹介しようと思います
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Posted by ブクログ
ネタバレかかった時間
50分
感想(ネタバレなし)
西洋哲学の本を読んでいると、ギリシャの古典作品への言及が多いので、試しに読んでみた。
シェイクスピアのリア王挫折、サロメもファウストも楽しめなかった私にとって、正直王が出てくる古典的な物語は苦手意識がある。念願だったオペラも爆睡するぐらい、古典的な劇も苦手。
(本当にシェイクスピアがトラウマレベルのつまらなさで、もし面白い作品があれば再度挑戦したいので教えて欲しいです...。気概はあるんです...。)
しかし、本作品は短いし、面白かった!!!!
一気に面白くなる場面が来たとき、心の中で、「おっとー?^_^^これは!!!まさかの!!!もしかして!!!!面白いのでは??^_^」とニヤニヤしていた。そこからは一気に読み切れた。
芸術や文芸を愛していたギリシャ文化の中の一つに触れられて僥倖。感性が死んでいる自信がある私でも、その格式高さや荘厳さを感じ取ることができた。詩は意味がわからなかったので飛ばしました。スミマセン。
このまま、イリアスオデュッセイアや歴史辺りも読んでみたいが、優先度は低いかな...
感想(ネタバレあり)
1. 日本とは違う悲劇のあり方
悲劇といえども、日本とは違って劇的で派手なプロットだと思った。そこまで日本の文学には詳しくないが、平家物語の壇ノ浦の戦いや敦盛の話のように、どうしようもない運命に対しても、そのまま受け入れ、朽ちていくイメージ。
「あはれ、弓矢取る身ほど、
悲しかりけるものはなし。」
一方で、本作は両眼を潰している。。。
このような劇的な展開には、西洋ならではだと思う。きっと西洋の人々はこの悲劇を見て、感傷に浸るんだろうけど、私はその感情よりも驚きや疑問が勝ってしまった。そこまでする...?やりすぎでは..?と。
ただ、解説にもあったように、悲劇を悲劇たらしめるプロットの仕掛けは、全世界共通だと思った。栄華の頂点からの没落であったり、嬉しい知らせと思わせて悲しい衝撃の知らせだったり。
このような仕掛けについては、アリストテレスが詩学で解説してくれているらしいので、ぜひどこかで読んでみたい。
全く関係ないですが、読みながら走れメロスを仄かに感じていて、あれは西洋の人が読んだら西洋的、ギリシャ的と思うのかしら、という疑問が湧いた。
2. 予言者多くない?
今回読んで気づいたのは、西洋の古典文学はとにかく予言者が多い。しかもだいたいキーパーソン。これはまるっきり日本の文学とは違うところだと思う。しかも王と予言者の組み合わせが多い。だからと言って何の示唆もないんですが、ここは文化の違いですね。
3. 王政やだなぁ...
最近ニーチェ、プラトン,オルテガと専制君主制志向の人たちの著作を読んでいるので、自分の思想もそちらに寄りつつあるが、改めてこの本読んで専制君主やだなぁという素朴な感想を持った。
王様が出てくる物語では、必ず理不尽な仕打ちを受ける人が出てくる。この人たちを見ると、王政や専制君主制下で生きる大変さが偲ばれる。年上に媚びるのさえ大変なのに、自分の生殺与奪の権を握っている相手と応対しなきゃならないなんて、とてもじゃないけど無理。
ということで、ずっと遠ざけていたギリシャ古典が予想外に面白かったので、とても嬉しいです!
また、時間があったら他の作品にもチャレンジしてみたいです!