メルヴィルのレビュー一覧
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これは面白かった。バートルビーのおよそ理解できない行為。バートルビーを許すどころか助けようとする雇用主。同僚たちの奇行。謎解きのように語られる過去。それでも理解は進まない。こんな不可解な話なのに先を読まずにいられない。
漂流船は実話にもとずく作品だが、巧妙に仕掛けられた作者の罠によって、疑心暗鬼を深める。そして最後のどんでん返し。やられました。
原題:BARTLEBY,THE SCRIVENER/BENITO CERENO
書記バートルビーーウオール街の物語
漂流船ーべニート・セラーノ
著者:ハーマン・メルヴィル(Melville, Herman, 1819-1891、アメリカ・ニューヨーク、小説家)
訳者:牧野有通(1943-、アメリカ文学) -
Posted by ブクログ
下巻
そろそろモービィ・ディックを追いかけないと最終巻だよ!…などという読者の思いはどこへ吹く風、相変わらずの鯨語り(笑)。
上中巻でさんざん鯨語りしたから下巻では物語が進むかと思ったら、まだまだ作者は語り足りなかったらしいく、もっと語るぞ!という決意表明?までしている。
「わたしは鯨に関する研究に労を惜しまない人間だ。わたしは鯨のもっと深い所を読者にお目に掛けよう。ところでイシュメールよ、一介のボート漕ぎにすぎないお前がそんなことができるのかね?」などと自問自答しているし、「鯨の血液内の細胞さえ見逃さないぞ!」「壮大な本を書くためには壮大な主題を選ばねばならない、それが鯨だ!」「鯨を考古学化石学地学的に考えるんだ!その思想が及ぶあまりの広範囲無限性に気が遠くなりそうだ」などと目標が大きすぎるんだかやり過ぎなんだかよく分からなくなってきている(笑)
多様される比喩隠喩などは後書の解説を頼りながら読み進める。この解説がかなり詳しい。本文でメルヴィルが鯨をあらゆる角度から鯨を調べて読者に語ろうとしているように、解説者は「白鯨」という作品自体を分析して読者に示そうとしている。
この解説によると、「白鯨」はメルヴィルが書いては出版社に送り、すぐ印刷に掛け、売り出さらた、ということ。
ということはあの鯨語りはほぼ推敲無しの書き下ろしか、すごいな。たまに辻褄が合わなかったり、結末がはっきりしないことがあるも、推敲無しならしょうがあるまい。
ピークォド号は日本近海にも来たらしい。「閉ざされた国日本」となんだそうだ。このころ日本は鎖国中なんだからしょーがないじゃん。アメリカはこの後油を取るための捕鯨船の補給場所として日本に開国を迫るわけですね。
なお、日本列島のことが「ニホン・マツマイ・シコケ」と記載されていた。解説だと「本州・北海道・四国」のことだそうだ。ということは「マツマイ」って松前藩か!そして九州は地図に無いのか?!
ピークオッド号は相変わらず白鯨モービィ・ディックに執念を燃やすエイハブ船長とそれに従わざるを得ない船員達。
第一航海士で良識派のスターバックはたまりかねてエイハブ船長殺害を目論んだりする。しかしスターバックは引き金を弾けない。
スターバックにはエイハブに「私にではなく、あなた自身に気を付けなさい」などと警告を送る。
エイハブはその言葉を噛み締め、自分には白鯨を追う以外の人生もあるのかと迷ったりもする。そんなエイハブをさらに人間の情で説得しようとするスターバック。
しかしエイハブをエイハブたらしめているのはやはりモービィ・ディックへの執念であった。
ピークオッド号と行き会う船として、他の船の話も出てくる。
ユングフラフ号は、鯨が取れずに自船の灯油さえ全くなくなり、ピークオッド号に無心に来る。この船の船長は俗物として書かれている。
サミュエル・エンダビー号の船長は、白鯨のせいで腕を失くし、鯨の骨で義手を作っている。義足のエイハブとは、義手と義足で握手を交わした。ただしエイハブ船長とは違い、白鯨モビー・ディック個体への復讐心は全くない。
レイチェル号との出逢いは印象的。エイハブが「白鯨を見たか?」と問うと「見た。そちらは漂流中の捕鯨ボートを見たか?」と問い返してくる。モービィ・ディックを拿捕しようとして行方不明となったその救命ボートには船長の息子が乗っているという。協力を求めるレイチェル号に対してエイハブは冷たく言い放つ。「わたしはモービィ・ディックを追うことが目的だ。今こうしていることすら時間を無駄にしている」
ついにピークオッド号は白鯨モービィ・ディックに追いつき、3日間に渡る死闘が行われる。
エイハブ船長は、最後まで自分を説得しようとするスターバックの心の気高さを認めて「自分と心中することはない」とピークオッド号に残し、自分はボートに乗りこむ。エイハブが持つのは、3人の異国人銛打ち達の血を浸したという特別作りの銛。
年老いて人間たちに銛を打たれ続けてさすがに衰えを見せるモービィ・ディックは、鯨でありながらもピークオッド号に攻撃の意思をもって迫ってくる。
引き裂かれるボート、折られる船の柱、打ち破られる船首。
銛に付けられた紐がエイハブ船長を海へと引きずり込み、スターバックたちの乗るピークオッド号本船も…
…原作はあんがいあっさりしている。昔見たグレゴリー・ペックの映画では、白鯨から船員たちを死に向かい手招きするエイハブ船長の姿、主要人物の最期の描写などかなり劇的だったんだけどな。
劇は終わりぬ。では何故にここに登場する者がいるのか?-ただひとり難を逃れて生還せし者がいたが故なり。
ピークオッド号と白鯨モービィ・ディックの闘いの一部始終を見て、それが終わった後にこうして語っているイシュメールが助かったのは、かつて熱病を発した”心の友、高貴なる野蛮人”クイークエグが死期を悟って作らせた棺桶をボート代わりにして海を漂い、二日後に漂流者として助けられたからであった。 -
Posted by ブクログ
児童用の簡易訳は読んだ。グレゴリー・ペックの映画も観た。「スナック モビー・ディック」と「スターバックスコーヒー」が向かいに建っていてどっちが勝つんだとか思ったこともある。(「モビー・ディック」が先に閉店した)
しかし今まで手を出せなかったのは、
この作品は小説でなくて捕鯨の論文だとか、
いや小説や論文といったジャンルですらなく「白鯨」というジャンルだ、とか、
キリスト教の隠喩が多いとか、
難解だ~、
などという噂ばかりを聞いてちょっと手を出しづらくて。
しかしいつまでも恐れていてもしょうがない、今こそついにと手を出してみた。
冒頭は主要人物紹介で誰がどうやって死ぬとかネタバレ状態、その次は航路や捕鯨船の船体説明、本編が始まったら鯨についての多くの資料からの引用集。
これは確かに特殊な小説形式だと思っていましたが話が始まってみたら、私が比喩隠喩論文を理解していないだけかもしれませんが、小説部分はごく普通に楽しめる、そんなに身構えずに素直に読書体験を楽しめる一品でした。
なお本文中では鯨を旧約聖書に登場する悪魔的な海の怪物”レヴィヤタン(Leviathan)”と訳されていることが多い。
これは英語の”WHALE”で感じるようなただ大きな海の生物というだけでなく、もっと強い力を感じる生物として人間がどのように捉えてきたか…という象徴でもあるのか。
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私を「イシュメール」と呼んでもらおう。
語り手は、陸の生活が嫌になると海に出る生活を送るという若者。数年前に捕鯨船に乗った時の体験を語る。読んでゆくうちにイシュメールの乗った捕鯨船は、彼以外の乗組員と共に沈んだのだと分かる。
イシュメールは海に出る前に、南太平洋の”人喰い人種”クイークェグと知り合った。
クイークェグは南海の島(ポリネシア?)の大酋長の息子で世界を見るためにキリスト教徒の国で暮らしている。イシュメールは、全身の入れ墨を施し、干し首を売って歩き、先祖代々祀ってきた神に祈りを捧げるこの異教徒の中に、高貴なる野蛮人の姿を見出し好意を持つ。そして彼らは真の友情を誓い合う。
…えーーーっとね、船乗りにとってはよくある友情表現なんなのかどうなのか、このイシュメールとクイークェグとの友情表記が
「額をくっつけ合って『これで私達は夫婦だ』と儀式を行った。夫婦と言っても心の友という意味であり、必要とも有らば相手のために喜んで死ぬという関係」
「同じベットで和み愛し合うペアーとして心の蜜月を過ごした」
「ベッドの中ほど心を打ち解けて話せる場所はない」
「クイークェグは彼の足を私の足に絡ませたり…」
「白人(イシュメール)と野蛮人(クィークエグ)が並んで仲良く歩くのは珍しがられたが私は気にしなかった」
「クイークェグの勇敢な姿を見た私は、フジツボのように彼から離れなかった。…彼が海に沈むまで」
などという記述が続くんですが、これは死と隣り合わせの船員なら当たり前の友情の示し方なのか…(--?)
この実に濃い友情表現のため、私が読む前に勝手に敬遠していたこの作品へのハードルは一気に下がった(笑)
さて、彼らが乗ることにした船は、エイハブ船長の指揮するピークオッド号。乗船前に浮浪者といった態のエライジャという男が現れて不吉な予言をよこす。
船長のエイハブは片足を義足として船板の孔に固定して命令を下すような初老の男。エイハブの片足を奪ったのは、捕鯨船の船員たちにとっても象徴的な存在であり”モビー・ディック”という固有名(洗礼名)を付けられた巨大な白い鯨だった。話が進むにつれ、エイハブが白鯨モビー・ディックに寄せる偏狭的な復讐心が明かされてゆく。
巻末の解説によると、そもそも旧約聖書における「イシュメール」という名前は、歯向かう者、追放者などの意味があり、純粋なキリスト教徒に名付けられたり自ら名乗ったりする名前ではない…ということ。
また「エイハブ船長」などの人名や「ピークオッド号」という名称は聖書やアメリカの歴史からつけられたもので、不吉な名前であったり何かを引喩していたりするとのこと。
そんな不吉さを纏って捕鯨船ピークオッド号は出港し、船乗りたちそれぞれの想いが語られる。
一等航海士のスターバックは、家族も捕鯨船員で敬虔なクエーカー教徒。真面目で冷静な部分もあるが狂信的で向こう見ずな面も持つ。彼を生き延びさせたのは鯨を恐れる気持ちがあるからであり、それは正しい恐れ方だった。
二等航海士は陽気なスタッブ。いつも手放さないパイプは最早体の一部だ。
三等航海士のフラスクは小柄で頑丈で現実的。
彼ら航海士達が指揮を取る鯨獲りのボートには、それぞれ銛打ちと船員たちが乗る。
スターバックの船の銛打ちはクイークェグで、となると当然語り手イシュメールもこの船に乗っかっている。
スタッブの銛打ちは、インディアンのタシュテーゴ。
フラスクの銛打ちは、アフリカ人のダグー。(巨大なダグーと小柄なフラスクの取り合わせ)
ピークオッド号が航海中に起きたことの小説としての書き方がなかなか面白い。
船員たちが甲板で陽気にそれぞれの仕事を行う様子はミュージカル調に書かれ、
船長室に閉じこもり思いを巡らすエイハブ船長と、エイハブの狂気に対するスターバックの憂いは演劇調に描かれる。
”わたし”という一人称で語られる割には目線は実に自由奔放。
さらにピークオッド号の”物語”と同時に語られるのは膨大な鯨薀蓄と鯨考察。捕鯨の歴史、鯨の習性、鯨の種別など。
この「白鯨」では鯨の種別は大きさで分けていて、イルカは一番小さな鯨としている。そして鯨は魚に分類されています。鯨とはなんぞや、とは、作者メルヴィルの時代にもかなり論争されていたようですね。
そして捕鯨者たちには有名な白い凶暴な鯨、”モビー・ディック”について語られて、上巻は終わる。
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「白鯨」の話は二つの流れが混じりあいます。
①イシュメールの乗った捕鯨船ピークオッド号の物語。
⇒巨大な白鯨モビー・ディック、エイハブ船長の妄執、乗組員たち、航海中に出会った他の捕鯨船の話。
一人称”わたし”で基本的にイシュメール目線だが、イシュメールがいない場面も書かれる。
②鯨談義
⇒鯨と人間についての色々。
一人称”わたし”だが、作者のメルヴィル自身がイシュメールに交じってるような状態。(「ピークオッド号から数年後のイシュメール」という可能性もあるが)
①の物語は、登場人物たちがそれぞれ個性的で楽しく、
②の論文のほうは学術的に正しいのかどうかは全く不明ですが、論文とも小説とも言い切れず、「話の面白い人に、その人が拘っていることをひたすらしゃべらせた」みたいな感じで理解はできていないが文章として面白い。
後書の解説はかなり丁寧。後書と言うか調査研究。
聖書などの隠喩、捕鯨に対する歴史解説、出てきた名前の意味、作者のメルヴィルの状況などなど。
このピークオッド号が沈むことはイシュメールの語りや不吉な予言や隠喩により示唆されているが、
作者は語り手を通して「人間は醜い面や弱い面を見せることもあるけれど、本来は高貴な面も持っている。だから自分はその高貴な面を語りたい」と書いている。そのためか散々不吉不吉~と仄めかしてる割には流れは決して暗くはない。
本格的に捕鯨が始まるであろう中巻に続く~~。 -
Posted by ブクログ
2ヶ月かかった。この本に出会わなければ、私が鯨や捕鯨船に興味をもつことはまずなかっただろう。メルヴィルの描写の力強さ。白鯨を追ったエイハブ船長、スターバック、スタッブといった航海士、クイークェグの生き方から、私は何を感じるべきなのか。今はまだ圧倒されるばかりで。死をも恐れずに突き進み、生ききった男エイハブ。こんな肯定的な見方をすべきではないのだろうけど、それも1つの生き方だ。私は何にこの命を捧げよう。何に対してなら、豪雨にも消せない燃え上がる情熱を生み出すことができるだろう。
白鯨には、聖書の引用や世界中の名称が数多く登場する。私はまだまだ世界を知らなすぎる。自分の目で、耳で、肌で感じたい。そしてもう一度この物語を読んでみたい。 -
Posted by ブクログ
ネタバレラストシーンで思い出したのはジョジョの一部のラスト、あのシーンも棺桶で生かされるというメタファーがとても印象に残っていたのですが、この白鯨もそのような暗喩がありました。
しかもその棺桶は主人公の親友のクイークェグのもの。
分厚い三冊の上中下の冒険の物語は、終盤突然白鯨とぶつかり、あっさりと終わってしまいました。
粗削りな男が書いた男の物語なんだけど、どこかねちっこい感じが離れないなあ、と思っていたのですが、解説でイギリスではエピローグがない白鯨が発売されたと書いてあり、あの二ページのエピローグがなかった場合の事を考えた。
エイハブの怨念、鯨学、不吉な予兆、水夫たちのやりとり、重みを感じる長いページの末に船が沈没したところで終えるのも男らしくていいのかもしれない。滲み出る女々しさを払しょくしてくれる潔さがあるように思える。
三冊読み終えて、あの鯨の雑学やページ数を考えると、とてもすらすらと読めたように思えます。
偏に目標がしっかりと定まっていたからだと思います。
エイハブの怨念、そして白鯨への憎悪。これがこの物語の全てと言ってもいいと思うくらい。
エピローグ。棺桶で漂流したイシュメールはレイチェル号の息子への女々しい希望によって助けられた。
男らしい物語だと今まで思っていたのですが、実際は違うのかなと読み終えて感じました。 -
Posted by ブクログ
白鯨「モビー・ディック」との戦いを描いた、海洋冒険小説。ワンピースの白ひげが乗る海賊船「モビー・ディック号」の由来でもある。人々の生活を照らすため船に乗る船員たちと、そうではなく、昔対決し、足を引き千切られた怨みを晴らすべく白鯨を探し続け復讐しようとする、船長・エイハブ。最終的には、白鯨を見つけて戦闘するものの、ほとんどの船員が殺されてしまう。船上の志が不一致だと、大海原へ出る資格はおまえらにない、ということなのだろうか。ところでこの小説、主人公・イシュメルの存在が、前半は際立つものの、後半はまるで音沙汰がない。きっと、作者・メルヴィルは、エイハブ船長の、栄光でも賞賛でもない、己の誇りのため、白鯨への憎しみをじっくり描きたかったのだろうと思う。
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Posted by ブクログ
とても濃厚な読書体験であった。その要因は様々にあろう。真に迫った描写であったり、著者独自の思考論理であったり、衒学的な鯨知識であったり、卓越した文学的表現であったりと現代作家の小説にはない芳醇な体験を送ることができる。これが古典の魅力か。翻訳小説の魅力か。
正直、万人にはおすすめできない。読書初心者が読めば、その難解さに数ページで白旗を挙げる。強制されれば発狂するかもしれない。さらに物語とは関係ない鯨に関する説話や知識がひたすらに語られたりして、鯨に興味がない人間からすれば退屈に感じるだろう。なのである程度読書に慣れてきた頃合いに読んでいただきたい。人生に一度は読んだ方が良いとは思っている。それほどに文学している。
本書は刊行されたのが1850年代で、当時の日本でいえば開国もしていない江戸時代末期の時期である。そんな時代に日本からほど近い太平洋を舞台にして自然生物との激しい死闘が繰り広げられる物語を、遠く離れたアメリカの作家が実体験を元に描いていることに何かしらの因縁と浪漫を感じる。日本に開国を迫った理由の一つに太平洋での捕鯨活動の寄港地としての目的もあった。日本が鎖国をしている間に世界は鯨を捕るための大型船を作り大西洋、インド洋、太平洋をまたにかけて航海し、捕鯨活動から自国に大きな利益をもたらしている。この小説一冊だけでも文明の差を露骨にしている。
そういった背景を踏まえて本書と向き合うと、一小説と断ずることにささやかながら抵抗を覚える。私には一種の文献として捉えても良いように思えるのだ。
色々ごちゃごちゃ書いたが、言いたいことはたまには古典に触れるのも良いんじゃない、ということ。
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Posted by ブクログ
「白」の魔力を教えてしんぜよう。
そう言わんばかりに冒頭の章で「白」が持つ神秘性、潔白性、畏怖性、荘厳性などなど他の色には持ち合わせていない本質的な特別性が語られ、いかに「白鯨」という無限の可能性しか感じない存在の魅力を伝えんがせんとする姿勢は、文学の自由性を象徴しているかのようだ。普通の作家は白に注目して多角的に捉えて考察し紹介しようとはしない。
この他にも、捕鯨の仕方や捕鯨後の解体のやり方、鯨の器官に関する説明、鯨にまつわる神話の考察などなど、およそ捕鯨を目的とした航海物語の枠組みだけにはおさまらない小説となっている。いや、鯨に関する雑学本と言っても過言でない。
正直、読むのは中々にガッツがいる。翻訳本だし古いし、宗教や地理や歴史に浅いんだもの、「お前はとんだ無知人間だな」とひたすらボディーブローでサンドバッグにされていた。でも読み進めていくうちに慣れの影響か楽しくなってくるドM性も萌芽してくる。そう思わされるのは、間違いなく作家としての修辞や論理展開の緻密な言葉運びなのであろう。
もちろん、そもそもとして鯨に魅力を感じている自分もいるが、それ以上に著者の鯨に対する愛が迸っているのだ。執念といってもいい。あるいは小説というていを保った捕鯨の論文と言ってもいい。すなわち、1800年代の鯨捕りにとってのバイブルなのだ。
あぁ、メルヴィルよ。残すは下巻の一冊となってしまった。ピークオッド号の冒険もあと数日で終わってしまう。
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Posted by ブクログ
Q:なんでこの本を手に取りましたか?
A:なんかクジラの本が読みたくなったあぁぁ。
てな感じで読み始めた世界の名作小説「白鯨」。
うん、シンプルな題名。それゆえか覚悟も気迫も孕んでいることを窺える。
皆さんは白鯨と聞いてどういうイメージを抱くだろうか。私は怪物や伝説、神話など、どこか神秘性を帯びたものを想起する。少なくともひ弱なイメージはないだろう。ゲームでいえばラスボス待ったなし。そしてこの小説は伝説的な尾ひれがついたその白鯨に立ち向かおうとする物語である。おらワクワクすっぞ。
本作は発表が1851年と、ペリー来航の2年前の幕末期直前の時期であり、作中でも「日本の開国は目前にせまっている」とあり当時の雰囲気を生々しく感じることができる。
とても文学的で難解な表現や多種にわたる語彙もあったりして、正直子どもにおすすめできるレベルではない。一見して理解できないところも幾つもある。なので十分に理解できている訳ではない。でもそれでもいい、と思わせる面白さがある。まだ上巻しか読んでない段階だが、数年後にまた再読しようとすでに決めている。捕鯨のための船に乗船するまでに200ページ以上あるのだが、それでも面白くて読んでしまう。乗船前からすでに冒険物のワクワク感が滲み出ている。これは海外の作品だからだろうか。とにかく予期せぬ展開が続々と出てきて続きが気になるのである。
注意点
これは岩波文庫版であるのだが、冒頭に船の絵や航路図、登場人物の紹介があり、なんて親切なんだ(これと装丁が気に入って選んだ)と思って登場人物の紹介を読んでみたらガッツリ誰がどうなるかといったネタバレの記述がされていた。
「読んじゃったよ···」と意気消沈したが中身は楽しく読めているので「まぁいいか」と途中から吹っ切れて気にならなくなったが、これから読むかもしれない紳士淑女の皆々さまには、十二分に注意されたし。
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『書記バートルビー』 「しない方がいいと思います」と言う部下をいったいどうしたらいいのだ。この振り払えないしつこさが気になって読みかえし、四回目で自分なりの答えをみつけた(どこかで見たことがあったかも)。今回は五回目。二人の同僚もおかしくなっていることに気がついた。
キリスト教の人たちの話だ、ウォール街の話だ、とひとごとだと思っていたのだが、私のそばにもバートルビーがいるかも、とふっと思った。それで生き方を変えられたらいいのだけれど。せっかくのgood tidings(吉報p.101)を配達不能にしているのは自分なのだ。
『漂流船 ー ベニート・セレーノ』 ぞわぞわしながら読む、おもしろい話(四回目)。デラーノ船長、鈍感でほんとによかったな。偏見ゆえに助かったのだが。バボウの眼が、こちらにまっすぐに向けられている。この眼差しはズキンとするくらいで、忘れられない。こういう体験をさせるのが作家のすぐれたところだと思う。私の偏見や思い込みも変えることは難しい。ただ、礼儀正しくすることは心がけよう。 -
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語り手はウォール街の一角で法律事務所を営む年配の男。彼はターキーとニッパーズというあだ名の二人の筆耕と、ジンジャーナットというあだ名の雑用係の少年を雇っていたが、仕事が増えてきたために新たに代書人を雇い入れることにした。募集広告に応じてやってきたのは、バートルビーという名の、品はいいがどこか生気に欠けた青年。彼は、当初は非凡な量の筆耕をこなしていたが、しかしあるとき所長に呼びかけられて、書き写したものの点検のための口述を頼まれると、「せずにすめばありがたいのですが」とだけ言って再三の頼みを拒否する。ウォール街の法律事務所で雇った寡黙な男バートルビーは、決まった仕事以外の用を言いつけると「そうしない方がいいと思います(I would prefer not to)」と言い、一切を拒絶する。彼の拒絶はさらに酷くなっていき。
大した仕事ではないのだから、やってあげればいいじゃない。読んだ当初は思っていたが、実はバートルビーの対応も、そんなに変ではないのでは?と思えてくるから不思議である。なぜなら、できる事ならあれもこれも、と言い出して、サービス残業はできたのかもしれない。但し、拒否することにに命まで賭ける意味があるかどうかはわからない。バートルビーの拒否が不条理なのか。何でもはいはい受け入れるのが道理と考える社会が不条理なのか。
「漂流船」
港に停泊している船が漂流船を見つけ、船長が乗り込んで水や食料の援助を申し出る。漂流船の船長は申し出を受け入れるが、事情を聴いてもはっきりしない。黒人の従僕がか弱そうな船長の面倒を見て、二人で時々ひそひそ話をしている。船には黒人や白人の乗組員、子供をあやす黒人の女も乗っている。船長の話では、スペイン人と黒人が乗っていたが暴風や疫病で相当な人員を失ったということである。だがそれは本当か?というミステリ&ホラー。 -
Posted by ブクログ
18世紀末、若きフォアトップマン、ビリー・バッドは、商船ライツ・オブ・マン号から、英国軍艦ベリポテント豪に強制徴用された。強制徴用とは、対ナポレオン戦争の時に、絶対的に水夫が不足していたイギリスが、商船や酒場から、拉致するようにして水夫を集めた、かなり無茶なやり方だった。人材不足が極まった時は、囚人を水夫に採用することもあったそうだ。本意で集められたわけではないため、水夫の反乱も起こっている。文中でもノア湾での反乱について言及されている。つまり、強制徴用した船の船長や、もとからいた乗組員には、強制徴用された水夫達に対して、もとから不信感があった。
その事を前提にすると、ビリーの行為に対する厳しすぎる処置の、エクスキューズにはなる。ベリポテント号の艦長ヴィアは、ビリーの「あなたともお別れです。いとしきライツ・オブ・マン号よ」という、去り際の挨拶を聞いている。ビリー自身は、特に強制徴用に深い恨みを抱いていたわけではなく、冗談のつもりだった。彼はきわめて性格がよく、彼がいたことで商船の人間関係がよくなるほど、調整能力もある。二人が直接話せば、わかりあえたのではないかとすら思える。しかし、二人の間には、楽園に入り込む蛇のような男がいた。
先任衛兵長クラガートが、艦長フォアにビリーを危険人物として名指しした事から、二人の間がぎくしゃくし始め、決定的な出来事が起こってしまう。この理不尽に読者を放り出していいのか?という気がするが、逆にこの理不尽をこそ、メルヴィルが訴えたかったことではないか。