火坂雅志のレビュー一覧

  • 軍師の門 上

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    戦国武将や大名好きからしたら軍師のツートップである黒田官兵衛と竹中半兵衛。
    火坂雅志さんの作品がいちいち面白くて、ちょっと悔しい感覚すら覚える。
    最初は左近と業政駈けるだけ読もうと思ってたのにいちいち面白くてじわじわと火坂さん作品を読み進めてしまってます。
    いまさら黒田官兵衛という感情もありながらも軍師の門読みました。
    こちら上巻では黒田官兵衛と竹中半兵衛との出会いや官兵衛の苦悩や苦労、成長などが描かれています。
    普通に面白いです。

    火坂雅志さんの他作品(全宗や墨染の鎧、臥竜の天など)を読んでいる為、他作品の主人公が出てくると、おっ、とテンションが上がってしまいますね。

    2021/5

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    2021年06月12日
  • 黒衣の宰相

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    黒衣の宰相と呼ばれた金地院崇伝。名門一色氏の血筋を引きながらも、室町幕府衰退もあり南禅寺に入らざるを得なかった。
    僧侶でありながらも、政治に深くかかわり、天満外道と言われる。悪名を一手に引き受け、徳川家康の天下を万全なものにした手腕は見事であり、ある意味大変魅力的である。

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    2021年05月27日
  • 太平記鬼伝―児島高徳

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    鎌倉末期から室町初期の南北朝時代に南朝方の軍師として活躍した児島高徳。配流されていた後醍醐天皇の隠岐脱出を実行するも、御門は鎌倉幕府を裏切り倒幕した足利尊氏に信を置く。義を捨て利に転んだ行いに承伏できない高徳は新政権からは距離を置き、建武の新政では十分な論功行賞を得ることができず、境遇の近い護良親王と関係を深める。徐々に対立し始める後醍醐天皇と護良親王。足利尊氏の野心。足利兄弟の対立。四国、九州、北陸、信州と舞台を変えながた南朝方として最後まで戦い抜いた児島高徳の太平記を描く。
    火坂雅志らしい文学性と史実と想像の融合。心を駆り立てる物語進行に夢中になり、気づけば数時間で読破していた。

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    2021年04月18日
  • 軍師の門(上下合本版)

    購入済み

    決して善人ではない両兵衛

    秀吉両兵衛の作品はいくつか読みましたが、ここまで人間味あふれるものははじめてでした

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    2021年04月02日
  • 左近(下)

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    火坂雅志が喧嘩師島左近の死華をどう描いただろうかと、悔やまれてならない。
    関ヶ原の戦いの胎動を感じるところだっただけになおさら。。。

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    2020年12月11日
  • 天下 家康伝 下

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    ネタバレ

    著者の作品として、個人的には、、天地人、黒衣の宰相が、良書とおもうが、これと同等に値する作品と思う。ただ、本作品は、関ヶ原に向かうところで終わるが、家康「伝」とするならば、関ヶ原の合戦模様から、大阪の陣までも表す必要があると私はあると思う。もし、著者の余命がもっとあったならば、上下巻だけではなく、関ヶ原合戦模様や大阪の陣も加えて三から四巻の構成で執筆したとも考えれられ、非常に残念に思う。また、三方ヶ原の合戦の描写は他の作品にない非常に秀逸なものと感じ、これと同じように、関ヶ原、大阪の合戦が描かれていたならば、まさに、過去の他の著名な家康小説と並ぶ、完成度の高い家康小説になっているものと考える。

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    2019年12月15日
  • 常在戦場

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    高瀬川の開削、琵琶湖疏水を構想し、日本の物流効率を飛躍的に向上させ、全国に経済による「利」をもたらした水運の父、角倉了以。
    長久手の戦いでの失策で罪に問われ出奔の末、その立場を逆手にとって謀略役としての辣腕を振るい権勢に返り咲いた長岡藩初代藩主牧野忠成。
    日本の隠れざるヒーローたちの短編小説集。

    特に、義(おおやけ)のために働くことをモットーとしていた角倉了以の精神には、学ぶところ多く、そういう人物でありたいと強く思った。

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    2019年12月01日
  • 軍師の門 下

    ネタバレ

    軍師官兵衛の内容にそっくりだったので、多分これ真似して書いたんじゃないでしょうか?最初からこれ原作にすればよかったのに。それでも今の馬鹿みたいな大河(真田○w )よりだいぶマシだったが。あと城の水攻めは備中高松城が日本初ではないと思うのですが。

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    2019年11月20日
  • 軍師の門 上

    ネタバレ

    竹中半兵衛さんを野心家としているところが意外だった。そういうイメージないので。逆に黒田官兵衛さんは前半はいちいち半兵衛さんに対抗心を露にするところが、ちょっと青臭い感じがした。

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    2019年11月20日
  • 業政駈ける

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    「小さきものの誇り」
    あとがきで筆者が語っていたことが、伝わりました。
    長野業政は上州箕輪の小豪族、興味深い人物です。

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    2019年08月26日
  • 軍師の門 下

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    下巻はいよいよ官兵衛がその裁量をいかんなく発揮する。
    特に中国大返しの部分はあまりに緊張感があり、次々と官兵衛の手中に収まっていくような爽快感があり一気に読み進めてしまった。
    官兵衛のいう人物のダイジェスト的なものなので、ひとつひとつのエピソードはそれほど長くはない。

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    2017年12月28日
  • 軍師の門 上

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    冷徹で、残酷で、おそろしいほど賢くて、完全無欠で、美しく優雅で、いつだって雄大で、でも触れれば刺さる研ぎ澄まされた刃のような、そんなかっこいい竹中半兵衛が見られます。
    上巻は官兵衛中心というよりも、官兵衛とそれを形作った人々、という面が大きい。

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    2017年12月28日
  • 常在戦場

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    ネタバレ

    徳川家康の周囲の人物にスポットを当てた短編集。直虎も出るでよー。これを読むと大河ドラマが整理ついて見やすくなる。

     家康は有名だからわかるけど、その家臣団は人数が多いし、名前が似ているのも多いし、大河だけじゃあ判別がつかなくて、なんとなくもやっとする。それを解消できる。

     常在戦場。戦は戦場だけにあらず。今でも大事な格言である。これは司馬遼太郎の『河井継之助』でもでてくるよ。




    「ワタリ」
     鳥居元忠のお話。もとはワタリ(山師とか白金売り、鋳物師とか)と呼ばれる商人の家系であるから、経済観が高かった。もとは熊野の出身の家系らしく、雑賀とかとも交流があった。鉄砲の導入も彼が促したりしたんだろうなぁ。こういう忍じゃないけど、裏の社会に精通する人材が必ずいるよね。

    「井伊の虎」
     井伊直虎の話。ここでは大河ドラマと違って、小野政次は悪いやつだった。これはこれで、戦国時代らしさがあってよいね。とはいえ、徳川の切込み部隊の井伊家のドラマがこんな劇的で、戦国時代は面白いなーとなる。これを読んでから彦根城行けばよかった。

    「毒まんじゅう」
     石川数正のおはなし。石川数正は清和源氏一門だったという良家の出で、三河の松平家の田舎臭くて朴訥な気風とは一風変わっていたという。源平合戦でもともと平家の家臣だった河内の石川家は、木曽義仲の京都侵入の混乱に乗じて寝返って、源治に味方して頼朝に家臣団入りを認められたという。
     良家出身だったゆえに雅を理解し、今川の京文化や京遊びに精通していたという。家康が出世して京都と通ずるようになった時にも貴族の窓口を務めた。
     秀吉に気に入られて、懐柔されるという裏切り者としてのレッテルを張られる最後で、なんか切ない。
     家康の最初の正室である築山殿(瀬名)との関係が噂されたり、浄土宗の徳川家で一向宗の家系であったり、醜いアヒルの子だったんだね。

    「梅、一輪」
     大久保忠隣のおはなし。大久保家は江戸時代になって、本多家との派閥争いに敗れるという切なさがあって、ドラマがある。
     大久保家は徳川家臣団のモノノフとして有名であり、数々の武功を上げてきた。長篠の戦いや三河の一向一揆で活躍した大久保忠世は息子を家康の近習に取り立ててもらい、お家の出世を果たした。
     大久保忠隣は猿楽師だった大蔵藤十郎を家臣にして金山経営を任せた。のちの大久保長安である。
     晩年の本田正純の父子との派閥争いは、武闘派には難しかったのかなーという印象。徳川家が法治国家を作っていくにあたり、本多正純のような切れ者が活躍していく世の中になるという魁だったんだな。
     岡本大八&有馬晴信の疑獄事件で本多を攻めるのに失敗したのち、逆に大久保長安の横領問題で配流させられる大久保忠隣が、潔くその処分を受け入れているところが、時代の変わり目って感じで、さわやかでよかった。

    「馬上の局」
     阿茶の局のおはなし。もとは武田家家臣の娘だったが、武田家滅亡で逃げ落ちた際に人売りに出されたところを家康に助けられた女性。子どものころに人身売買の経験のある家康は共感できたという。勇猛果敢で小牧長久手の戦いで騎乗で兵士を奮い立たせるシーンは凛々しい。
     阿茶は家康の戦場に付き添ったり、武士のように振舞ったり他の側室とは異なる姿を家康に見せて、その寵愛を得た。流産で子を産めなくなった後に、薩摩の局が生んだ秀忠の義母として養育係を任されるほど信任を得ていた。
     関が原に際して小早川秀秋の裏切りが勝負を決めたが、これは秀吉の正室の北政所が促したといわれている。その北政所の調略を任されたのが、阿茶の局だったという。同じく殿様の子を産めないながらも地位を持つ女同士として打ち解けたという。
     家康が天下を取った後、阿茶との間に亀裂が入る。阿茶の連れ後のお岩と家康がおイタをして身籠ってしまったのである。自分の娘が旦那と子作りしたっていうのは、流石にキレた。お岩は後藤庄三郎のもとに嫁いで事実を隠蔽した。そのために、後藤家は将軍家の血があるからという噂のためにずっと金座の管理を任される盤石なお家になったという。
     阿茶は家康が死んだ後も活躍した。仏門には入らず、お家のために働いて秀忠のサポートを続けた。秀忠の娘である和子は後水尾天皇のもとに嫁ぐときには守役として同行し、官位として従一位という高位を得た。
     一度は人売りに出された身が不思議なものである。

    「川天狗」
     角倉了以のおはなし。世のため人のためになるよ言うに儲けをした商人。阿茶の局の癪の病を、角倉了以の弟である吉田宗恂が治療したという縁で家康と交際を持った。豊臣時代にも朱印船貿易をしていた角倉家の分家の角倉了以に再び貿易をさせて外貨を稼がせたかったのである。了以の権力にこびないビジネスライクな人格を気に入ったとのこと。
     しかし、角倉了以の野望は貿易で富を得ることではなかった。河川工事で世の中を革新することだった。
     了以は貿易で稼いだ資産で保津川の開疎を行った。丹波から嵯峨野に通ずるこの川は岩場があって船が通れない。もしこの川で舟運が可能になれば、兵庫と京都が最短距離でつながって流通経済は飛躍的に向上する。了以はこの事業を先頭に立って推進していった。
     「利は義なり」公共事業は政治の担当だが、商人自ら公共投資を行って経済力を向上させる。一見相反しそうな利益と義心を成功させた。
     この功績から、了以は幕府から富士川の開疎と鴨川の整備を任された。そして了以を一躍有名にした高瀬川の開削も成功させた。鴨川の氾濫を防ぐために人工的に高瀬川を造成して、宇治川につなげる約10キロの工事は京都の物流と水難を大きく改善した。
     この高瀬川開通の後、了以は琵琶湖疎水を計画していたといわれる。その許可の手紙が林羅山から来ていたが、それを受け取る直前に角倉了以は亡くなったという。当時の技術では比叡山を切り開いたり、トンネルを掘る技術がなく非現実的だったかもしれないが、もし実現すれば日本海と京都が水運でつながる大革命が起きていたはずである。そして、琵琶湖から流れ出る水が増えて湖面が下がり、新田開発も進み、大きな変化があったに違いないといわれている。

    「常在戦場」
     牧野忠成のおはなし。関が原の戦いで秀忠軍が真田の上田城攻めに苦戦して遅参した際、戦いに苦しんだのは功を焦った牧野忠成たちのせいだといわれている。その責任を負って牧野康成は蟄居、忠成は出奔したという。
     その後、忠成は家康から京都の板倉重勝のもとでの密命を受ける。
     忠成は秀忠の失策の泥を被されて京都に配流された惨めな没落武士という役を演じて、京や大阪の内通を任されたのである。関が原で勝利しても、まだ大阪には秀頼が生きており、豊臣家臣団はくすぶっている。そこに入り込んで内情を探る、難しい役割を得たのである。こういう人材の活かし方ができるところ、家康は流石である。
     京都で活躍した牧野忠成は、朝廷の籠絡を行って和子の入内の道なりを整えたり、大阪冬の陣と夏の陣でも活躍して、その役目を大いに果たした。
     活躍を認められ忠成は長岡藩初代藩主となり、幕末までお家を続いた。お家廃絶の危機から一転して徳川の信頼を集める中心に復活を果たした牧野忠成は頑張った。
     長岡藩の家訓に「常在戦場」という言葉がある。これはいつ戦が起きてもすぐに出陣できるよう臨戦態勢でいろ。という意味ではないとこの物語の後には思う。
     戦は戦場だけにあらず、どんな場所でも戦場と考えて、あらゆる方面で手柄を立てろ。という意味がありそうである。
     そういや司馬遼太郎の河井継之助の物語にも出てきたな。これは現代のサラリーマンにも大事な格言だ。

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    2017年09月11日
  • 美食探偵

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    ネタバレ

    思ったよりも読みやすくて良かった。
    もうちょっと食の事絡めてほしかったなぁ。
    ネットで調べたところ、村井さんと多嘉子さんはご結婚されたようなので私的にはとてもHAPPYに終わったなと。

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    2017年04月29日
  • 軒猿の月

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    ちょっと伝奇っぽいところもある時代短編集.表題作はどうも僕とは生理的に合わない.「戦国かぶきもの」がハードボイルドで良かった.

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    2016年10月30日
  • 羊羹合戦

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    限られた紙面の中でどれだけインパクトのあるキャラクターを描くか、短編集の大事なところだと思いますが、どちらかというと本作品はストーリーの方がインパクトあるように思いました。地名を調べながら、まだ行ったことのない場所を思い浮かべながら。あとがきには私の地元の羊羹まで出てきて思わずニヤリです。

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    2016年07月21日
  • 黒衣の宰相

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    ネタバレ

    江戸時代を作った悪い人 崇伝の物語。日本のマキァヴェリ政治家として家康のブレーンになった。こういう悪い人が必要なんだ。


     謎の多い崇伝をかなり具体的に描いている。つまり創作が多いのだろうが、人間臭く描写していて面白い。
     紀香との恋、くのいち霞とのケンカ、天海僧正への妬み、キチンと人間として描いている、これが大事なのである。

    ______
    p67 法論
     崇伝は大徳寺の妙空と法論をかわすことになった。法論なんて大したものではないと崇伝は言う。教義や寺の優劣を弁舌で決するのは間違っている。弁舌が巧い方が勝つだけで、本質的な論戦したことにならない。宗教で優劣を決めようとする行為は間違っている。

    p72 紫衣
     紫衣は五山派の天龍寺と五山派別格の南禅寺にのみ許される法衣だった。

    p74 水
     「作麼生、説破」の内容。妙空曰く「世界の雨粒の数を数えよ」崇伝曰く「水は流れるがまま形を変え、千差万別であるのが本来の姿。物事の一つのカタチに囚われないことこそ諸行無常の本質(ドヤ)」

    p77 自由自在
     禅では自由自在が何よりも尊ばれる。心が一つに囚われず、融通無碍であればいかなる状況であっても適切に応じることができる。それが「無心」であり「石火の機」と呼ばれる境地である。

    p81 沢庵
     但馬国出石に生まれ、勝福寺で出家し修業した。のちの大徳寺の住持になり、三代家光の帰依を受けて品川東海寺をひらいた。

    p89 勝重に誘われて
     家康の臣下である板倉勝重に誘われて家康のことを知る。勝重は三河の地で武家に生まれ、若くして出家した。しかし兄弟が戦死し、跡継ぎがいなくなったので還俗し家康の家臣になった。禅寺で修業したことがあるので崇伝と打ち解けられたという設定。

    p104 信心とは…心理学っぽい
     崇伝はという破れ寺に左遷された。中国に密航しようとした罰がここにきて出た。という設定。
     その破れ寺を再興するために崇伝は嘘をついた。「身代わり阿弥陀」という足利尊氏をすくった尊仏が祀られているというふれこみを撒いて、信者を集めようという作戦である。崇伝さん、これは良いんですか?
     崇伝曰く「謀るのではない。救いを求める者にとっては妄言もまた、真実になるということよ。」きっかけは何でもいい。ポジティヴシンキングになって状況を打開できることが大事なのである。そのキッカケが方便でもいいのだ。

    p171 外交
     崇伝は玄圃霊山の下で外交文書のやり取りを整理する役職に就いた。そのおかげで国際外交のノウハウを得た。これはその後のキリスト禁教令に繋がるのだろう。

    p189 三成のようになってはいけない
     頭がキレすぎる男の常として三成は平素から他人を小馬鹿にし、わずかでも落ち度があるとその者を痛烈に批判せずにはいられない質だった。何事においても妥協せず情け容赦がない。そのため三成は敵が多く、秀吉という後ろ盾を失ってしまっては誰も付いてこなかった。
     いつの世もそうである。日本では上司になれるのは人間関係を円滑にできるやつである。実務派は頭にはなれない。

    p203 家康
     家康は三河国岡崎城主:松平広忠の子として1542年に生まれた。家康の生まれた当時、父:広忠は今川義元と織田信秀という強豪に挟まれた三河を治めていた。
     広忠は今川家の後援を受けて三河を治めていたが、妻の於大の方の実家:水野家がなんと織田方についてしまい家康は3歳にして両親が離婚してしまった。
     そして5歳にして今川家への恭順の証として人質に出される。その途中、かどわかしに遭い織田家に売り飛ばされ、織田家の持つ人質になってしまう。その後、父:広忠も家臣の裏切りで暗殺され、実家を今川義元に接収されてしまう。その後、人質交換で今川家へ回収されるも、今川家の三河統治の道具として扱われ、結局故郷に帰れない屈辱的な日々を駿府の地で過ごした。
     元服した家康は変わらず今川家に良いように扱われ、織田家との小競り合いがあるたびに鉄砲玉として危険な役目を押し付けられた。しかし、家康19歳の時、桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、混乱に乗じて三河岡崎城を奪還した。そして家康は織田信長と手を結んだ。
     このように若いころに辛酸をなめ続けた家康は我慢強い人間に育った。「無暗に怒らぬこと」それができる人間になった。

    p245 リーフデ号
     リーフデ号が漂着した際に、崇伝は外交官として船長のウィリアム=アダムズと謁見した。

    p247 ヤン=ヨーステン
     リーフデ号に乗船していた砲術師ヤン=ヨーステンは日本の砲術指南役になった。彼は関ヶ原にも従軍した。彼の屋敷は現在の八重洲の地にあった。八重洲は彼の名前から来ている。

    p248 直江状
     会津の上杉景勝の家臣:直江兼続が家康に対して出した宣戦布告状。ここから関ヶ原の戦いへつながる。

    p260 雲はみな
     「雲はみな 払い果てたる 秋風を 松に残して 月を見るかな」家康が関ヶ原の合戦後の処置について歌った歌。晴れ渡る空に浮かぶ月を見るよりも、少し暗い雲がある方が月見には趣がある。もし雲が払われてしまったなら、松の枝越しに眺めるのが良い。
     つまり、敵をすべていなくしてしまうのはかえって危険である。豊臣秀頼を廃絶するのは新たな火種になりうるから、そうべきでないということである。

    p291 高虎
     伊予今治城主の藤堂高虎を家康は迎え入れた。そして伊賀の国を与えた。伊賀の国を与えたというのが彼に対して何を期待しているかが見える。伊賀と言えば忍者だ。

    p313 関白封じ
     関ヶ原後の処置として、家康は豊臣家が関白職を得られないように工作した。一条兼孝を関白に据え、その後は関白職は五摂家持ち回りにした。そのようにして豊臣家の朝廷に対する力を削りに行った。

    p330 崇伝は心からの仏教徒ではない
     え!?崇伝は生きる手立てとして禅門に身を置き、建前上戒律をまもっていた。だから人々が戒律を犯すことに対してそれほど関心はなく、寛容さがあった。
     宗教家でありながら、現実的であったからこそ政治に向いていたのであろう。理想と現実のはざまにいる、それこそ政治家である。

    p336 紫色
     かつて、紫色という色は西洋ではムレックス貝のパープル線から抽出して染色していた。ごく少量しか取れない染料だったため非常に高価だった。紫色が日本にも伝わったが、日本にはパープル線を持つ貝が居なかったので、紫草の根で色を抽出した。植物による染色は何度も染め付ける手間があり、やはりものすごい高価なものだった。
     つまり、紫衣は贅沢の象徴でもあったのだ。

    p341 無駄遣い
     崇伝の本拠である南禅寺は本堂を豊臣家に再建してもらった。これは板倉勝重が崇伝に豊臣家の財力を削るための方策として献言した策である。
     このほかにも、家康は豊臣家に方広寺(秀吉が大仏殿を創建した寺、例の梵鐘の銘文の寺である)の大仏殿再建をすすめた。それもこれも、豊臣家に蔵してある莫大な財宝をすこしでも削るための無駄遣いである。

    p365 乱世こそ悪
     乱世が人を不幸にする。戦う者同士がいかなる大義名分をかざしても、戦で人が傷つき、死んでいくのは動かしがたい事実である。世の中に、賄賂が横行し金まみれの世の中になったとしても、罪なき者が苦しみ死んでいく世の中よりずっといい。

     って崇伝が言ってた。

    p369 駿府
     駿河国の国府(ミヤコ)だから駿府という。温暖な気候で、晩年の家康はここに居を置いた。

    p374 中間地点の駿府
     江戸から京へは12日はかかる。それが駿府なら7日で行ける。家康は実権を譲り、自分が西国に睨みを利かせる存在になったのだ。

    p422 ハニートラップ
     朝廷のドスケベどもを利用して、幕府が朝廷よりも上に立つことを演出した。崇伝は朝廷内の貴族が、しかも天皇の后までもが夜な夜な淫行に更けるという噂を聞いた。媚薬(アヘン)を飲ませたりしてそれに拍車をかけるように仕組んだ。それが後陽成帝の耳に入り、帝は激怒した。当事者はみな打ち首にする勢いだったが、家康がそこで仲介に入った。昔から貴族の下半身事情はひどくて、この度の事件も歴史的に見れば極刑にするほどでもないということにした。
     この計らいに事件の当事者は当然喜び、貴族全体として家康に従う流れができた。それほど貴族は陰奔が横行していたのだろう。それを公に許してくれる家康に感謝しないわけがない。そして天皇はメンツをつぶされてしまった。結果、家康は朝廷の実質的な主導権を得たも同然になった。

    p498 大久保vs本多
     大久保と本多は幕府の重鎮として主導権を争っていた。それに終止符を打ったのは、家康だった。本多の策謀で大久保忠隣に謀反の疑いがあるとして、配流の刑に処した。豊臣家との争いも佳境に入り、自軍の中で重鎮級で抗争があっては一枚岩になって政争に挑めない。それゆえに大久保家を切り捨てたのだ。

    p506 方広寺
     豊臣家の菩提寺の方広寺。ここにはいまでも「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が入った梵鐘がある。見に行こう。

    p528 片桐且元かわいそう
     徳川家に方広寺の梵鐘事件の弁明に来た全権大使の片桐且元は、不憫。
     実質的に徳川が支配する世の中になって、豊臣家がお家取り潰しにならずに生き抜くには徳川家に降るしかない。しかし、淀殿など頑なな派閥もいて、恭順派の且元は苦しい思いをしていた。
     江戸に来た且元はやはり豊臣家を潰さないように譲歩してもらうべく協議に来た。その結果、①大阪城明け渡し②淀殿を人質として差出し③秀頼の江戸参内いずれかを満たせば許すという譲歩案を得られた。
     しかし、これを持ち帰った且元は徳川方に豊臣家を売ったという謂れをつけられてしまった。
     本当に現実が見えていたが故の結果だったのに、裏切り者の汚名を着せられて、不憫である。
     まぁ、いつの世もそういうもんだよね。頭の良いものや、正義の者が報われないのはしょうがない。そういう時は、その場を離れる以外に仕様が無い。

    p552 即行和睦
     大坂冬の陣はもとから大阪城を落とすことに主眼は置かれていなかった。家康の目的はあくまで豊臣家を潰すこと。もし大阪城を落して一度で豊臣家を潰そうものなら時間がかかりすぎる。そのうちに西の毛利、島津、東の上杉など未だ爪を隠している戦国の猛者が隙を狙って攻め込んでくるとも限らない。
     まずは電光石火のごとく攻め込み、相手にすぐ和睦を申し入れる。豊臣家に「家康は本気で御家を潰す気はないカモ…」という隙を作る。だが、この戦いで東西の力の差は歴然になり、次なる戦いでは豊臣家を裏切る者が増えるだろう。外堀をきちんと埋めてから、豊臣家を潰す、家康らしい我慢強さ。

    p568 大筒
     当時の大型砲火は2種類ある。百匁筒(口径40ミリ)までが大筒で、それよりも大きいのが石火矢という。もののけ姫に出たのは石火矢衆だったな。

    p586 家康亡き後
     世の中一番危ういのは、カリスマが没した直後である。秀吉の死後、まさにそうであろう。
     今度は家康である。家康の死後、豊臣家も滅ぼし対外的な敵を失った徳川政権は、内なる戦いが始まる…。

    p621 死者の多い合戦
     大坂夏の陣は日本史上最も多い死者を出した合戦と言われる。大坂方一万七千、徳川方七~八千、両者合わせて二万を優に超える、関ヶ原の戦いをはるかにしのぐ。
     というのも、この合戦は西国大名にとって本当に背水の陣だった。この戦で敗れたら、生き残っても江戸幕府では生きていけない。多くの大名にとって、死に場所になったのである。

    p642 禁中
     公家諸法度の二年後に制定された「禁中並び公家諸法度」は以前の法案に天皇家も適用範囲に加えた。同時に「諸宗諸本山法度」も制定したが、これにより古来から幕府が手を焼いてきた朝廷と寺社、ともに統制下に収めたことになる。
     秀吉の頃は彼の人の好さによってどちらも従えてきたが、徳川の世になって法の下に従えた。
     世の中全体を法治主義に治めたこと、これが家康の大事業の結晶である。
     
    p644 消えた崇伝
     1615年、崇伝は二条城と伏見城で3つの法令(武家諸法度、禁中並び公家諸法度、諸宗諸本山法度)を発してから忽然と姿を消している。崇伝の日記『本光国師日記』もこの頃の記述が抜けている。
     ここでは崇伝が女のもとに走ったとしている。紀香さんのもとへ。

    p655 本多vs土井
     大御所派の本多正信と将軍派の土井利勝の主導権争い。これから始まる、家康の後の内なる戦い。

    p659 天海が鐘銘の犯人
     天海が梵鐘の文字を作ったという噂。鐘銘を考えた清韓上人は事前に天海に完成品を観てもらった。もとは「国家安泰」だったが「国家安康」に変えたという。
     噂だよ、噂。まさか天海が仕組んだなんてね。

    p678 後藤庄三郎
     徳川家の金庫番であった後藤庄三郎は40代で引退した。金に絡む者は嫌疑を受けやすく、大久保長安もそうだし、この時も庄三郎が秀忠から不正蓄財を疑われて、子の広世に代替わりした。
     庄三郎の子の広世は家康の隠し種である。家康から賜った愛妾の大橋の局は嫁いだころにはすでに孕んでいた。大橋の局は側室:阿茶の連れ子で、つまり家康は血縁はないが、義娘を孕ませたのだ。それを隠すためである。これは暗黙の事実であったらしい。
     徳川の血を引くものを造幣番の跡継ぎに据えれば、自分も助かると踏んだのである。
     家康の時代の終わりの一面。

    p690 上杉謙信大明神
     上杉謙信は、死後謙信の意思により甲冑をつけたまま大きな甕に入れられて居城の春日山城に埋葬された。死してなお、守護神として上杉家を護っていくためである。この遺骨は上杉家の国替えの時も持っていかれて、米沢城に埋められている。
     家康や秀吉はこれに倣ったのだろう。戦国大名は死してなお一門の繁栄の象徴になろうとした。
     戦乱の世に生きたからこそ、象徴という物の必要性、重要性を理解していたのだろう。

    p692 吉田神道
     吉田神道を革新的なものにしたのが室町時代の吉田兼倶という人である。
     足利義政の時代、日野富子に近づいて「天皇家には伊勢神宮という氏神があるが、足利将軍家には氏神が無い。幕府繁栄のために吉田神社を氏神にしては」と取り入った。兼倶は天照大神や八幡神を「大元尊神」として唯一神に集約し「吉田神社の大元尊神を拝めばすべての神を詣でたのと同じだけの霊験がある。」と喧伝した。
     この画期的な宗教は人気を集め、幕府も氏神にちょうど良いとして日野富子は将軍義政に氏神として認めさせた。ここから始まり、吉田神道は武家の神様として、豊臣秀吉の時代まで慣例的に崇められてきた。
     それゆえに秀吉は死後、大明神になった。
     これに倣って家康も吉田神道で葬儀を行うようになったが、これに異を唱えたのが僧正天海であった。天海は家康を、比叡山の守護神の日吉山王権現と同様の山王一実神道によって祀るのが本当の遺言だと主張した。
     結果、家康は秀吉同様の大明神でなく、大権現として神になった。

    p719 かま風呂
     洛北 八瀬の里の名物かま風呂。古く壬申の乱で矢傷を受けた大海人皇子もここで傷を癒したという。へぇ。

    p740 沢庵の喧嘩の振り方
     崇伝も認める沢庵の喧嘩のふっかけ方。
     紫衣事件で沢庵は公然と幕府に反旗を翻した。ただ、沢庵は個人的な喧嘩はしない。パフォーマンスによって世論を獲得してから勝負を挑む。
     個人で権力に挑んでも事実が公に出る前に握り唾される。しかし、世間を味方に付ければ権力者も簡単に隠蔽ができなくなる。この時、沢庵は「紫衣の権剥奪」について抗議はせず、ためらいなく紫衣を頂戴して堂々と規則違反をして見せた。事態を大問題にすることで、世論を巻き込んだのである。世論は常にどこか政権に反感がある。それをうまく煽れば、政権もすべて思い通りというわけにはいかなくなる。
     
     ここで学ぶ喧嘩のふっかけ方、正義を作る、喧嘩は自分一人の者ではなく世論ということにする。責任の希釈と、敵を社会悪に仕立てることがポイントである。
     あれ?これってよく女の子がやるやーつ??

    p755 崇伝の目指した国家
     「戦無き法治国家」これが目指したものであろう。
     大きなことを成すには悪者が必要である。崇伝はまさに江戸幕府を作った悪者である。
    ______



     天海が悪く書いてある。たしかに天海は加持祈祷を扱う胡散臭い人という評価もある。しかし、本気で胡散臭い人間はいないと思う。
     何らかの理由があって仮面をかぶるのが人間である。天海は…。
     堀和久さんの天海の小説を読む限りでは、あの人はいい人だった。崇伝がリアルの人間なら、天海がアイディアルの人間である。崇伝とは逆にあくまで宗教家としてのスタンスを貫いたのが天海である。物事は中庸が大事である。家康はそれがわかっていた。
     仕事のできる崇伝一人に任せていては、確かなシステムを作るだろうが、敵をたくさん作ってしまうだろう。バランスを取るために家康は天海を用意したのだろう。そうだとしたら家康の計算高さは本当にすごい。

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    2015年04月11日
  • 真田三代 下

    Posted by ブクログ

    真田幸村の生き様をあらためて感じた作品!真田家が生き残るべく強いものに仕え続けた父・昌幸と最後は義に生きた幸村。上杉家との関わりが大きく影響してたんですね

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    2015年04月19日
  • 真田三代 上

    Posted by ブクログ

    真田三代…昌幸・幸村を中心として物語か展開されることが多いが、武田に仕えた幸隆の時代は中々ないが、でも昌幸の生き方はこの人の生き様からきているのかもしれない。いかに乱世の戦国時代を生き抜くか…悪い言い方をすれば長い物には巻かれろ的な生き方はある種賢く緻密な考えだと思う。真田の所領である沼田を奪われ、家康との因縁、そして上田城の築城…さあ下巻、よく知る家康との戦いへ繋がっていく。

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    2015年03月23日
  • 実伝 石田三成

    Posted by ブクログ

    石田三成には昔から興味がある。

    一般的には、頭が良くて切れ者だが、傲慢で冷たく、人からは好かれないというイメージがあるのではないか。
    しかし通説を無条件に思考の前提にしてはいけない。

    秀吉という後ろ盾を失った後の関ヶ原であれだけの西軍を組織できたのも、策略だけではなく、彼なりの人望や人との繋がりがあったのだろうという気がする。
    実際、秀吉の側用人としていろんな大名の世話を尽くしていた記録もあるようだし、それをずっと恩義に感じていた大名もあったようだ。

    「のぼうの城」で有名な忍城攻めの際、三成と一緒に戦った武将たちがみな関ヶ原で三成に味方した事実から考えても、人の心を捉える一面もちゃんとあったのだろう。

    三成は優秀だけどしょせん事務官僚だ。
    そんな人間が、日本を巻き込んで、あの家康と互角に戦っただけでもすごい。

    享年41歳。
    戦国時代後半の、稀有な人生を生きた人だと思う。

    もっと再評価されていい人物ではないだろうか。

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    2014年09月07日