渡邊ダイスケのレビュー一覧
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購入済み
正しいスピンオフ?
本編(善悪の屑、外道の歌)、園田の歌、朝食会を経て9巻まで読了しての感想です。
順番は、本編、朝食、園田、これが良いかも。
本編は言わずもがな、園田の歌を読んでいないと少し「あー別の作品で何かあったのね?」な展開が出てきますので。
で、感想ですが、正しいスピンオフって感じがします笑
朝食会が本編との関連を加世子側から描いてるとするなら、本作はちいたんを主人公に好き勝手してる感があり、最初は「なんじゃこりゃ!?」でしたが9巻まできて大ファンになりました笑
本編最強の彼のグリュングリュンの解説もちょっとあったり、これぞスピンオフなのではないでしょうか。
長く続いて欲しいです。 -
Posted by ブクログ
復讐という行為の本質は、「バランスを正す」ということなのだろう。それをビジネスとして行う以上、ブレックファーストクラブの榎加奈子の譲れない規範があるということなのか。加奈子の人間性をさらに掘り下げていくエピソード。外道シリーズになってから、焦点が犯罪者の在り方(どういうふうにして犯意が形成されてくるのか)にシフトしてきているのだが、この巻に収録されているのは先述のエピソードともう一つのものと、どちらも歪んだ身勝手な自己愛が犯行動機となっている。彼ら犯罪者の意識に渦巻くのは「バランスを正せ」「バランスを正してやる」という、これも復讐なのだ。ブレックファーストクラブもカモトラの行為も復讐が加害者の殺害(とその周辺)になるのは、被害者の命が奪われるケースがほとんどだからだが、最初に芽生えた復讐心でもし人の命が奪われなければ、「バランス」は死をもたずしても贖われえるかも知れない。もう一つのエピソードはかなり異色作だが、バランスはささいなことで調整されることもある、ということを示唆していると思う。あるいは周囲の人間や社会がもう少し接し方が違っていれば、歪んだ自己愛の持主は犯罪を犯さないで済んだかも知れない。一歩踏み込んで、間違った方法である犯罪という行為も、根は「バランス」の問題なのだとしたら、犯罪は犯罪者の身体を通して社会が生んでいるものと言えるのかもしれない。
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Posted by ブクログ
隣人トラブルを扱ったメインのエピソードは、他人や社会との共感性を欠いた反社会性パーソナリティ障害の、いわゆるキ〇ガイ親子が登場。騒音や汚物を撒き散らし、何得かわからないただ周囲への恨みやあてつけを行動規範とした迷惑住人。以前は民事不介入で警察が対応してくれないことも多かったが、ストーカー規制法、侮辱罪、威力業務妨害罪の罪状解釈の拡張や、各自治体の迷惑防止条例の強化、またスマホでの録音録画による証拠の収集が容易くなったことなどにより、「嫌がらせ」にもだいぶ警察が動きやすくなっているようだ。この親子たちもきちんと法で裁かれればカモトラに〇〇されないでも済んだかも知れない。そう、法律がきちんとその悪の悪質性を正しく評定し法律で裁くことができ、復讐屋などに依頼しなくても済む世界のほうが良いのだ。学校のいじめ、児童虐待など、まだまだアップデートが足りない法律も多い。そういうことを考えさせてくれる。このエピソードは、偏見から隣人と分断してしまうことへの警鐘も並行して描いているところが素晴らしい。旅館の心霊エピソード、カモの独り言に胸がつまる。
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Posted by ブクログ
前半のエピソードは、娘と同じ幼稚園に通う娘の友だちを殺害した母親の起こした文京区音羽の幼女殺害事件を思い出す。この事件自体はママ友仲間の人間関係への恨みが起こしたものだったが、本作は、他人より優位に立つことで自己実現を果たしてきた女性というキャラクターを創造し、より逆恨み度の高い歪んだ殺害動機の芽生えを丹念に描いていく。社会や家庭の中でそれまでの自分がどんなに辛い目にあってきたかと、犯行の一分を主張する加害者をカモが身勝手の一言で一蹴するいつもの展開だが、こうやって実在の事件などを参考にしながら、人間の歪んだ自己愛の在り方を俯瞰し、読者と一緒にどうあるべきだったかを考えて行こうとするのが第2部の方針なのだろう。後半は園田が担当する売れない若手漫画家を餌食にしていくサイコサスペンス。こちらは前半のような理屈で考えられる犯罪動機を超えた人間の精神の在り方の恐ろしさを描いている。倒錯した性行為のような殺害場面の創出がいい(犯罪行為そのものがいいという意味ではありません)。
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Posted by ブクログ
前巻で殺人者側の犯行にいたるまでの心理を始めて描いたのは、犯罪者の行う殺人と主人公たちの行う復讐という殺人の双方を描くことで、「殺人」という手段(とそれをテーマに描いている作品)に対する作者の、方針の再確認の作業のようなものだったのかなと思った。往々にして殺人犯はその自らの殺人の正当性を主張する。多少の差はあれど、おおむね自分の生まれ育った環境、社会のありかた、そんな中で自分がどれくらい苦しみを味わったかを反芻し、自分がどんなに可哀想だったかを改めて確認し、そしてその哀れな自分のために社会へ復讐したのだ、というような理屈に落ち着くのだろう。その殺人者の理屈をカモが「なぜふつうの人はそんな理由で殺人などをしないか」という問いかけとともに一蹴する。主人公側の殺人の一分(正当性)にまで踏み込まないが、殺人犯たちの「復讐」ついての正当性についてはきちんと反証していく。主人公たちの行動についての賛否は読者に委ねる、あるいは今後作品を描きながら更に追求していくのだろう。
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Posted by ブクログ
時代を超え「目には目を」的な復讐話が存在するのは、量刑への不満が解消されないからだろう。被害者側がどんな報復をしたところで、結局奪われたものが元に戻ることはないのだからしょせん奪われ損、奪い得なのだ。現行の法律は言うまでもなく、主人公カモたちが行う残虐な報復代行でさえ、被害者側の依頼人の心は晴れない。どんなに酷い仕返しをしたとしても、復讐からはカタルシスは得られないことを本書は描く。復讐執行を行うカモの加害者顔負けの残虐行為について、相棒のトラが再三そこまでする必要があるのかと異議を唱える場面が出てくるのは、本書が復讐という免罪符でもって残虐行為自体に愉悦を感じさせることを企図したくないことの表明と思う。要するに復讐話でスカっとした気分になって欲しくない、心が晴れないという読後感を感じて欲しいからだと思う。つまり本書は、現代社会の奪い得状況、加害者優位なあり方を可視化し告発することが目的なのだと思う。なぜなら著者が圧倒的な熱量で筆致し紙幅を割いているのは、報復シーンの方ではなく、加害行為を行う側の人間の身勝手な振る舞いとそれを行っている時の加害者たちの、人間ここまで堕ちることができるのかという下劣で醜悪な表情、そして理不尽な暴力にあっている被害者たちの絶望の表情だからだ。