玉村豊男のレビュー一覧
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玉村さんらしい、ご自身の経験を細かく教えてくれる本で、長野県の山の土地を開いて、ワイナリーを作った体験談。ワイナリーを始めるのにお金がかかること(免許を取ろうとするとたくさん製造しなくてはいけなくなる、など制約がある)、実際にいくらくらいかかるのか、野菜もつくっていて、レストランで食事ができるようにしていることなど。
事業内容自体は、(自分が飲食店やワイナリーをするつもりはないという意味で、)そんなに興味はないのだけど、玉村さんが始めたワイナリーという、個人としてはかなり壮大な事業は、人生の秋に差し掛かった身には、とてもぐっとくるものがあった。
・ブドウの木は4~5年で成木になる。早いものは2年位ですこし実をつける。15歳から20歳のとき、最もエネルギーに満ちている。ワインをつくるブドウの木は、古いほうがよい。40歳、50歳。50歳をめどに木を植えかえるが、もっと長生きする木もある。人とブドウが、それぞれ世代交代をしながら一緒に生きていく。
・ワイナリーを土台に、いろんな人が集まってきて、例えば農業をする人の奥さんがワイナリーでバイトをして、農業がうまく行ったら、独立。その人たちが作った野菜をワイナリー併設のショップで売ったり、料理で使ったり・・・。ブドウ畑だけやっている人が、玉村さんのところでワインを醸造したり。ワイナリーを作ったことで、地域にインパクトを与えている。そして、それが、自分の死後も続くことを願っている・・・。
そして最後まで読んでやっと、本のタイトルがワイナリーとかではなく、里山ビジネスだということにピンと来た気がする。
自分だったら何をするか、何ができるか、したいか、考えたくなった。 -
Posted by ブクログ
玉村豊男が、ある雑誌に週1のペースで、2019年初めから2020年暮れまでの2年間に渡り連載していたコラムを単行本にまとめたもの。約100編のコラムが収められているが、1編が800字程度のものなので、あっという間に読み終わる。
「明けゆく毎日を最後の日と思え」というのは、なかなか良い言葉だと思うが、ホラティウスというローマ時代の詩人の「明けゆく毎日をお前の最後の日と思え」という言葉を拝借したものであるらしい。コロナ禍の中を生きる「基礎疾患のある後期高齢者」である筆者が、いつ死んでもおかしくないと思うようになってからよく思い出す言葉であるらしい。
読んで、2つ印象に残ったことがある。
玉村豊男は本コラム連載中の2000年10月に75歳の誕生日を迎えている。75歳になったことを機に、「文章を書く、絵を描く、といった個人的創作活動以外のあらゆる社会的な活動を限りなく縮小して本格的な”隠居生活”に入る」という挨拶状を送ったらしい。玉村豊男は肝臓がんを抱えており、決して万全の健康状態ではないということであるが、信州にワイナリーを持ち、毎朝犬と散歩に出かけ、奥様と奥様の妹さんと暮らし、料理をし、上記の通り、文章を書き、絵を描く、また、たまにパリをはじめとした旅行に出かけるという生活を送っているわけで、それは、ひとつの理想的な老後生活の姿ではないだろうか。
もうひとつは、2020年6月に書かれたコラムだ。
日本で新型コロナウィルス感染症が本格化したのは、2020年2月のことであるので、それから数か月後のことである。コロナ感染症について、筆者は下記のように書き記している。
【引用】
日本の新型コロナウィルス感染者の数は4月15日前後にピークを迎え、6月15日頃にはおおむね収束する...。PCR検査を巡る言説の対立や政府自治体の対応など想定外のことも多かったが、感染者の数については上記の予測がほぼ当たった。
これからは、ときどきあちこちで小さなクラスターが発生することはあっても、日常は確実に戻っていくだろう。新しい生活様式といわれるものも、一部は残るが、淘汰されるものもあると思う。
【引用終わり】
私たちは、というか、少なくとも私は、2020年6月頃に、新型コロナウィルス感染症に対して、上記のような楽観的な見方が存在していたことを完全に忘れていた。「忘れていた」というか、そのような見方があったということの記憶が全くない。
たかだか、1年数か月前のことなのに。人間の記憶は曖昧だと改めて思うのと同時に、人間の予測は直近の状況に大きく左右されるのだな、とも改めて思った。 -
ぼくのワインができるまで
- カート
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試し読み
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Posted by ブクログ
キャベツ、ジャガイモ、トウガラシ、ナス、サトイモ、テンサイ(砂糖)など、普段身近な野菜が原産地から世界に伝播して行った歴史を、著者の実体験も交えて詳しく解説した博物誌的な本。
原種の野菜が、人間の欲望によって、どのように手が加えられて現代のような姿になり、その過程で人々や地域や国家にどんな影響を与えてきたのか。特に最後の章における、テンサイから作られる砂糖が西洋諸国家を見苦しく自分勝手な係争に巻き込んでいったくだりは、普段語られることの少ないレアな歴史観が分かって面白かった。
学術書のような堅苦しさがなく、軽いエッセイのような語り口が読みやすい一方で、それがゆえに、非常に意味の深い貴重な情報がすいすいと頭に入って来づらいのがもったいなくて、逆にはがゆいと感じた点。メモを取るなり、情報を別途整理し直す作業でもすれば、後で役立てられるような形で記憶にとどめておくことも可能であろうが、そこまでするマメさもない怠惰な読書人としては、緩やかに好感を持って読後評とさせて頂く。
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Posted by ブクログ
いや、面白い本でした。野菜…と言いながら魚やスパイスなど野菜以外の食材の話も結構出てくるのですが…についての蘊蓄に著者の旅の思い出としての随筆的が散りばめられているような内容。
1つ気になったのは、アメリカに関して「エダマメはなぜ普及していないのだろう」と書かれている点。2010年の発行の本なのだけれど、今ではEdamameは英語として通用するくらい普及していて、冷凍パックだけでなくサラダバーにもほぼ必ずあるし、ファミリーレストラン的なところでもさやに入ったままのまさに日本の居酒屋で食べるエダマメがメニューにあるところも少なくないので、アメリカで枝豆が普及したのはわずかここ数年のことなのだろうか。 -
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ネタバレこの本を読んだ後、ビジネスってこういうことだよな、価値観にあった働き方をしたいな、ということを感じた。
特に、飽食の時代と言われる日本において、食べ物がどんどん捨てられるコンビニとかを見ていると、なんか価値観と合わないなって思うし、野菜の形で売る売らないを決めるスーパーも違うと感じる。
取れたての野菜をその場で調理し、提供する形を取れば、上記問題は起こらない。
余った野菜は、ソースなりジャムなりにして保存可能な状態にする。
そういった、たべものを大切にすることが価値観にあっていると感じる。
また、資本主義において、人を雇うにも人件費が発生する。しかも、時給という単位で発生する。
山奥のお店に人が来なければ、売り上げは発生しないため、お給料も払えない。
一人じゃ何もできないから、誰かと協力して何かをやり遂げようとするけど、それにはお金が必要。
当たり前の事だけど、ビジネスは持続させるのが大変だ。
最後に働き方。
仕事は自分が選ぶもの。誰かにやらされるものではない。
だから、仕事の作業そのものにやりがいや喜びを見い出せれば、それに越したことはない。
ある椅子作りの職人に60脚注文したところ、そんなに作ったら飽きちゃうと言って断る話が出てきた。
そりゃそうか。仕事は、興味と集中力が続く範囲で行うことが適切なんだろうな。
そして、ものつくりは面白い!ってこと。 -
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ダイエットは女性の永遠のテーマらしいです。
ダイエットってようするにカロリーの入出力の関係を「入<出」にすればいいってだけ(想像)だから、実はそんなに面倒なことではない気がするけど違うんやろか。違うんやろね、
でもダイエットを気にしすぎるとごはんが憂鬱になっちゃう。それだけは避けたいもんだ。
僕たちは食べるために生きているわけではないけど、食べないと生きていけない。省略できないこの時間を豊かにすることは、人生を豊かにすることじゃなかろうか。
■「食卓は学校である」玉村豊男・著(集英社新書)
筆者は食に関する著作をたくさん著している方ですが、この本はわりと新しい、昨年の秋に出ました。
内容は最初から最後まで食べ物の話。この本を読んだいま、世の中のすべての事象の起因は食文化にあると僕は言い切っちゃうね。
恋も仕事も世界情勢も、すべての原因は食事にアリ。「美味しんぼ」の世界は骨董無形な嘘話ではなかった。あれこそリアルだったんだ。
食について、目からウロコがぼろぼろ落ちるうんちくがいっぱいです。
民族の性格や、キャビアがなぜ高級食材とされるか、現代日本家族崩壊の理由、フレンチのフルコースが一品ずつ出る根拠などなど。食の側から見た世界はこんな面白いのか。すごいよ。
でもこの本の本当の素晴らしさはそんなうんちくにあるのではないです。
うんちくが人生を豊かにするわけじゃない。
巻末近くにある、食卓という毎日の奇跡を綴った文書、これこそがこの本の魂です。
ちょっと長いですが引用します。
----------------------<引用 ココカラ>----------------------
たとえば食卓の上に一個のリンゴがあるとします。
そのリンゴは二日前に近所のスーパーで買ったものですが、信州の農園で一週間前に収穫され、農家のトラックに積まれて農協に出荷されたあと、運送会社によって青果市場まで運ばれ、仲卸し業者を経てスーパーの店頭にたどり着きました。
このリンゴが実っていたリンゴの樹は、今年で樹齢三十年を迎えます。三十年前にこの樹を植えた果樹園の主人は五年前に亡くなり、このリンゴを収穫したのは息子さんです。
三十年前に植えた百本の樹のうち、二十本は虫や病気にやられ、いま生き残っているのは八十本ですが、そのうちの半分は老齢化によって生産量が落ちているので、来年の春までに伐採して、新しい苗木に植え替える予定です。このリンゴは、その樹の最後の収穫になるでしょう。
(中略)
さらにいえば、三十年前に植えたこのリンゴの苗木は、県の育種場で栽培されていた樹齢二十年のリンゴの樹から、枝を取って挿し木で育てたものでした。五十年前にその樹を植えたのは・・・・・・。
つまり、ある一個のリンゴがいま自分の目の前にある食卓にたどりつくまでには、夥しい時間の積み重ねと、数え切れないほどの多くの関わりがあるのです。
そう考えると、あらゆる時間と空間の組み合わせの中で、膨大な数のリンゴの樹に実った無数のリンゴから、たったひとつだけ、いまこのリンゴが自分の目の前の食卓の上にあること・・・・・・は、まさに奇跡だとは思えないでしょうか。
(中略)
食卓の上の食べものだけではありません。
(中略)
友人や仲間といっしょに食卓を囲んでいるとき、私はときどき不思議な感慨にとらわれることがあります。
この何人かの人間は、どうしていまここにいるのだろう。
(中略)
私を含めて、いまここにいる人たちが、次にまた同じメンバーで集まれるという保証はどこにもありません。このうちの誰かが、近いうちに病気になるかもしれないし、ひょっとしたら明日死ぬかもしれないし、遠くへ行ってしまうかもしれないし、仲違いして二度と会わないようになってしまう可能性だってないではない。
そう思うと、きょうの会食は、唯一無二、空前絶後の出来事ではないか。
その上に、この会食の上にある食べものや飲みものは・・・・・・。
(中略)
これらのモノたちが地球上のある一点に集まって一堂に会することは、何億年の地球の歴史の中で、初めての、そして最後の機会であることは、誰も否定できません。
----------------------<引用 ココマデ>----------------------
昔よくばあちゃんに叱られた。
「アンタお米はお百姓さんが一生懸命つくんやき。88回も手間がかかっとるんよ。やけん(だから)残したらいかん。バチあたるよ」
ああ、ばあちゃん。今わかったよ。
※この文章は2011/3/29にmixi日記に挙げたものです。
2012年6月、この本のことを考えることが多かったので、ちょっと思い出してアップすることにしました。 -
Posted by ブクログ
・パリジャンの日常食。ウフ・マヨネーズとステック・フリット
>スモーガスボード(バイキング料理)というのは、自分で料理の量と種類を自由に選ぶことができる、というだけで、実質的には、きわめて整然と時系列で進行する、西洋式のフルコースなのです。
>アナーキーな日本人の行動に対して、フランス人なんか悲しいほど律儀です。彼らは、すべての料理が最初から並んでいる弁当箱のようなトレイを与えられても、ひとつひとつの料理を時系列のポジションに置き換えて、順番どおりに時間差で食べるのです。
>十六世紀になるまでは、インドのカレーも朝鮮半島のキムチも、いまのように辛くはなかったのです。同じように、イタリア料理にはトマトがなく、ドイツ料理にもジャガイモはありませんでした。
>「今夜はカレーにする? ハンバーグにする? それともスパゲッティにする?」
と、毎日の夕食を三つの異なる外国の食文化から選ぶ民族は、いまだかつて地球上に存在したことがありません。
>地球上で、菜食で生きることが可能な植生をもつ地域は限られます。宗教が先か風土が先かは別として、南インドがその数少ない地域のひとつであることはたしかです。