玉村豊男のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ名前はもちろん知っていたのだけど、内容がこういうものだとは知らず、読みやすくて驚きでした。
(とはいえ、料理という括りで児童書の横の"母親コーナー"に置いてあるのはどうなのか…笑)
翻訳の後に訳者解説が入っていたり、削除・編集が多いということで、どうかなと思っていましたが、おそらくそのおかげでだいぶ読みやすくなっており、結果的に本作を読んで良かったなと!
以下好きだったところ and 笑ったところ
第1章「感覚について」はこの一文で締めくくられるのだが、感覚器官の話をしていたと思ったら二人はあっというまにベッドインしてしまった。(p.28)
最初の解説がこのテンションで本当に笑った
この後、「さて、ベッドインした二人だが、私が不思議に思うのは、この二人はベッドインする前にまずメシをくい、それからいったん眠るのである。で、目が覚めてから八尾らセックスを開始する。そんな手順が、あるのだろうか。この方面についてはとくに浅学菲才な私などは、そんな悠長なことをしていていいのか、という疑問が浮かぶ。(p.29)」
という文章が続いたりと、w w w wと笑っていた。
だいぶ後に、当時はお腹いっぱいのまま運動すると死ぬと思われていたから、まず寝る、と書かれていたことがわかるのですが
「トリュフは、積極的な催淫剤とまでは言えないが、時と場合によっては、ご婦人方をより優しく従順にし、殿方をいっそう魅力的にする効果がある」(p.121)
デザートの時間は、宮廷や貴族による富と権力の表現として発達してきたフランス料理にとって、小麦粉やクリームといった旧来の食材が、砂糖、ショコラ、バニラ…など新大陸からの到来物によってこの上なく豊かに変身するさまを見届けることで、しかもそれらが異国的なコーヒーの香りとともに供されることで、山の頂上から下界を見下ろしながら、ヨーロッパの文明はついに新大陸を含む世界を手中に収めたのだという、大いなる満足感に浸る時間なのである。(p.155)
たとえば昨日でも今日でも、いつでもいいから3組の友人同士が集い、羊の煮物と腎臓の焼いたのをたらふく食い、オルレアンかメドックの切れのよいワインで喉を潤し、気の置けない親密な会話を楽しみながら一晩を過ごせば、誰もこれ以上おいしい料理が世の中にあるとも、これより腕のよい料理人がこの世にいるとも思わないに違いない。
それに対して、いくら料理が上等であっても、どれほど設えが贅沢であっても、ワインがまずく、食卓を囲むのが適当にかき集められたいい加減な会食者で、悲しい顔をしたのが混じっていたり、あわただしく時間に追われて食べたりするのでは、食卓の快楽など味わえるはずがないのである。(p.209) -
Posted by ブクログ
本書は料理を構造として捉え直す本だ。
ソースの話から始まる。
料理を少しかじっている身としては、ここは素直に腑に落ちた。肉を焼いたあとのフライパンに残る油脂を、酒や出汁でのばす。その違いが無数のバリエーションを生むだけだという。
そして煮込みも同じだ。最初にリソレし、液体に漬ける。
焼くことは火との距離の問題。揚げ物も衣の付き方で分類できる。
つまり料理はどんどん分解されていく。そして因数分解した最後に「火・空気(生)・水・油」という四面体が提示される。焼くのか、生か、煮るのか、揚げるのか。料理は意外なほど整理できる。
理屈は分かったし、ほとんどの料理がこの枠に収まることも理解できた。
ただ、冒頭のアルジェリアの煮込みの話が頭に残る。
味は再現できても、あの野生的な空気までは再現できなかったという。
筆者も、構造は再現できるが体験は再現できないことを強調している。
ここで一つ、問いが浮かぶ。この構造化はどこへ向かうのだろうか。
もし料理がここまで分解できるなら、次は精度を上げる話になる。
食べる環境、音、光。空間や雰囲気まで含めてモデル化できると考えるのは、自然な流れだ。
その先にあるのは、最適化であり、自動化であり、AIによる設計ではないか。
それは悪いことではない。むしろ技術としては必然なのかもしれない。
一方で、料理は栄養摂取を超えた行為でもあることを、あらためて考えさせられる。
誰とどこで食べるか。その時間そのものを味わうこと。
そこには、生物学的な必要性を超えた人間的なよろこびがある。
もしそうだとすれば、料理はすべてを解き明かし、再現可能にする対象なのだろうか。
料理は、少し説明しきれないままでいてほしい
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Posted by ブクログ
目次はメニュー状態。ズラリと並ぶ料理は馴染みのあるものから想像つかないものまで様々で、眺めているだけでワクワク。
玉村さんは、調理方法って無数にあるように見えるけど、ザックリ分ければどれも「料理の四面体」の方程式にあてはまると言います。
底辺の三角形は「空気」「水」「油」そして四面体の頂点は「火」。
例えば、水から火へ伸びる線が「煮る」ことになり、その距離が調理時間になります。
世界中どこでも、調理としてやってる事は大差ないのに、食材や文化の違いでこれだけ多様に進化した事にため息。
四面体の方程式はサササと読みましたが、世界中の料理はじっくりと、想像の中で味わいながら楽しみました。お腹すくー!
中でも一番気になるのはなんといっても冒頭の「アルジェリア式羊肉シチュー」
ぜひぜひ現地の、砂漠近くのオアシスの木陰、小川のほとりで食べてみたい! -
Posted by ブクログ
世界中を旅して、その土地の料理を食してきた著者が「料理の一般原理」を明らかにすることを目指した著作。
1980年刊行。
著者曰く、「地球上にはあらゆる国家・民族・文化が存在するが、こと料理の方法においては、そう違いはない」
これを裏付けるように、いくつかの実体験を紹介する。
著者が若い頃、アルジェリアの道端で現地の青年に「羊肉シチュー」を作ってもらった。
彼は肉を煮る前に、表面を強火で焦げ目が付くぐらい炙った。これはフランス料理でいうところの「リフレ」という技術であり、彼がフランス人から習ったわけではないだろうから、現地でも同様の手法があるということだ。
アルジェリアの野生味溢れる「アルジェリア式羊肉シチュー」と、フランスの高級レストランで提供される上品で洗練された「コトゥレット・ド・ムトン・ポンパドゥール」の間にあるのは薄皮一枚ほどの差でしかないということだ。
このように世界のあらゆる料理を分解し、比較して、その共通項を見つけていく試みが追体験できる。
一方で、国や文化によって好まれる手法は異なり、位置付けも違う。
例えば、「揚げる」「炒める」を表すのが「fly」の一語である英語に比べて、中国語には遥かに多くのボキャブラリーがある。
炸 ザ たっぷりの油で揚げる。
炒 チャオ 炒める
爆 パオ とくに熱い油を使って手早く炒める
煎 ヂエヌ 油をもっと少なくして材料の両面を煎り焼く
貼 ティエ 材料の片面だけを鍋に貼り付くようにして焦げ目がつくほどパリッと焼く
烙 ラオ 油気なしに煎る
これは中国人が油脂料理において豊富なレパートリーを持っていることの証左に他ならない。
一方で、中国人は「ロースト」をまったくしない。
他にも、「cooking」の原語がラテン語の「coquere(火熱を加える)」という意味であるように、欧米人にとっての料理とは加熱することであるが、日本人のコックで一番偉いのは「板前」、つまり、まな板の前に立っていかに魚を切るか?を決めることができる人だ。
このように、文化によって現れる違いが興味深い。
また、「ステーキ」は、火源からの距離によって「グリル」「ロースト」「燻製」と呼び方が変わっていくという話も面白かった。
この意味では「干物」も「ステーキ」である。火源との距離が1.5億キロメートルほど離れているに過ぎない。
(因みに、直火をフライパンで受けると、それは「ソテー」になる)
本書における著者の結論は、頂点を「火」、底の3点を「空気」、「水」、「油」とした「料理の四面体」モデルで料理の一般的原理を示すことができるということだ。
火と空気が介在する料理が「焼きものライン」、火と水が介在する料理が「煮物ライン」、火と油が介在する料理が「揚げもののライン」となる。
そして、それぞれのラインにおいて、火の頂点に近ければ近いほど、三要素の介在の度合いは少ない。空気のラインで火の頂点に最も近いところは炎が肉を直接舐めるような直火焼きだといえる。
反対に、火が全く関知しない底面を「ナマモノの世界」と呼ぶことができる。
この世界のすべての料理は、この四面体のどこかに必ず置くことができる。
そして、ひとつの材料は、四面体を移動することでレパートリーを増やしていくことができる。
50年近く前に書かれた本ではあるので、特有の文体の癖による多少の読み辛さはあるものの、内容はまったく色褪せない。料理というものがいかに成熟した技術であるかをよく表している。
非常に興味深い内容の良書だった。 -
Posted by ブクログ
おいしさは、五感だけで感じるものじゃないかも。
このごろ「実用的でない料理本」というのが好きで。料理が自分のライフスタイルや思想に与える影響、原始から続く料理という運動が、どんな歴史をたどって、世界にどんな影響を与えたか等に興味があり、色々本を漁るうちに『料理の四面体』と出会いました。
この本を読んでも、包丁さばきがうまくなるわけでも、火加減の調整が適切になったり、盛り付けセンスが磨かれるわけでもありません。実用的な料理指南書やレシピ集ではないですが、「料理は単純な原理で成り立っていながら、無限の可能性がある」というメッセージを伝えてくれます。
他方で得た知見がまったく無関係の分野と結びついたりする、そんな瞬間こそが私の生きる喜びのひとつ。料理で得た経験がマラソンに活きることや、農業のノウハウが油絵に活きること、暗算がロッククライミングにいきることもあるかもしれないと思うだけで人生は楽しい。だから自分の生活に直接役に立ちそうにない本の方がワクワクします。
本書ではまず世界のあらゆる料理が紹介されます。フィレンツェのビステッカとか、コトゥレット・ド・ムトンとか、いかにも美食家が好みそう料理名が頻出する上にとても文学的な表現もあり、グルメ評論アレルギーがある人にとっては、著者がうっとり自己陶酔しつつ書いたように感じて鼻につくかもしれません。
最初こそ気取ったグルメエッセイのような印象でしたが、少しずつ確実に、私たちは著者が導き出したある一つの論理に一歩一歩と近づいていきます。高級フレンチも、アルジェリアの野外で野蛮に作られたシチューも並列に語り、目玉焼きもスクランブルエッグもオムレツも「卵の油いため」という点で同じ料理だとする大胆さをもって、紙上・世界グルメツアーは展開していきます。スープとシチュー、果てはサラダと刺身の境界線もぼやかせる力技にクラクラしながら読み進めていくと、最終章でついにモノリスにたどり着きます。
それがタイトルの「料理の四面体」です。
食材⇆媒介(水、空気、油)⇆火
という関係性を暴き出したのです。料理の工程を分解し、四面体(三角錐)の立体チャートにあらわす。頂点に火、底面の三点は空気、水、油。この世にある料理をその四面体チャート状の座標ですべてあらわすことで、調理の原理を解き明かしたものです。
逆に言えば火を使い、水、空気、油をどの程度か媒介させれば、それはもう「料理」と言いきれてしまうというコペルニクス的転回が起こるのです(生食は除く)。世界中に料理は数多あるけれど、調理の本質は基本的に変わらないという驚き、そしてチャート上にまだ誰も見つけてない一点の座標、つまりまったく新しいレシピが隠されているかもしれないといったロマンも感じます。
こういった本を読むたびに思うのは、おいしさというのは、五感からのみ感じるものではなくて、その調理の工程などに思いを馳せることからも感じるのかもしれないと思います。その食材の生産地の風土のことを想像したり、生産者の顔を思い浮かべたりすること(野菜コーナーに農家の名前と写真が添えられていますよね)、伝統を感じること、思い出と結びつけることなど、五感以外の「気持ちのおいしさ」があるのだろうと。