高橋健二のレビュー一覧
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「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない」
この一文は、
『デミアン』という作品を象徴する言葉だと感じた。
物語は、
主人公シンクレールが旧約聖書の
「カインとアベル」の解釈や、
善と悪を併せ持つ存在「アプラクサス」
といった象徴的な思想に触れながら、
自分自身とは何者なのかを問い続け、
精神的に成長していく姿を描いている。
読み始めは少し難解に感じたものの、
物語が進むにつれて、
その難しさが作品の魅力へと変わっていった。
特に印象的だったのは、
「善」と「悪」を単純に切り分けるのではなく、
人間はその両方を抱えながら生きていく存在なのだという視点である。
自分の中にある光だけでなく、
影までも受け入れて初めて、
本当の意味で自分自身になれる。
そのメッセージが全編を通して流れているように感じた。
また、
読んでいる最中には、
心理学者カール・ユングの
「シンクロニシティ」や「集合的無意識」
を思わせる場面が何度もあり、
夢や象徴、
偶然とは思えない出来事が一つの意味を持って結びついていく感覚に強く惹かれた。
ユング心理学に興味を持ち始めた今だからこそ、
この作品をより深く味わえた気がする。
『デミアン』という小説は、
「自分らしく生きるとは何か」「本当の自己とは何か」という問いを読者自身に投げかけてくる作品だったと感じる。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ「トーマの心臓」からの流れで読んでみた。
前半は読むのが結構苦しかった。
町からたった一人神学校を受験するということで、その合否はもちろん、一挙手一投足が周りの人に監視されてるような状況が辛すぎる。
神学校時代もハイルナーぐらいしか親しい友達ができなくて、勉強に押し潰されるような毎日は苦しそうだった。
ただ、もっと生徒間での足の引っ張り合いみたいのがあると思っていたらそういうのはほとんどなかったので、それはよかった。
自分はどちらかと言うと高学歴に入る部類だけど、もちろん町一番の天才でもなかったし、親をはじめとする大人たちからそんなに重いプレッシャーを受けたとは感じていないので、それが本当に幸福なことだと思った。
つい最近子どもの教育について実生活で話題に上がったのでいろいろと考えさせられることがあった。
大人として一回は本作を読んでおくべきですねぇ。
個人的には神学校を脱出してから、第6章からが面白かったかな。
学校から解放されてからの方が、自然とか周りのものの美しさを思う存分噛み締めているように感じた。
特にりんごを絞る場面は臨場感があって、すぐにでもりんごジュースを飲みたいと思わせる魔力があった。
読んだ日にすぐ買った。もちろん果汁100%。
恋模様もよかった。
挫折して、当初の計画通りの人生じゃなくなってもいいじゃん、これも幸せじゃないか、と思い始めた矢先に、そんな…!!
結末は知らなかったのでびっくりしてしまった。
でもなんか不思議と後味悪い感じではなかったな。 -
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ネタバレ青少年の危うさ。地元の田園風景や学校の周りの自然描写はみずみずしくて、牧歌的で、読んでいてヨーロッパの田舎に憧れる気持ちになった。
けど中身はなかなか沈鬱な感じ。自叙伝っぽい要素も多いとのことで、ヘッセさんかなり根に持ってらっしゃるんだろうなと想いを馳せながら読んだ。
地元の時点で、そもそも事件後の休暇中は魚釣りやりたいって本人が言ってるのに、休暇を勉強に費やさせるなよ...。牧師さんや校長のようなタイプの人たちは、それが本当に本人のためだと盲信してるからタチが悪い。
進学後については、これまでの無理や我慢がたたったのもあるだろうし、自身の能力の限界にぶちあたったのもあるだろうし、これまでの禁欲的な努力によって築き上げてきた価値観に対して、ハイルナーの叙情的な世界の一端に触れたことで根底からひっくり返されたこともあるのだろう。
いずれ、自分の子供に対しては、能力を伸ばしてやりたい気持ちは持ちつつも、本人のピュアなこころに無理強いをさせないようにしたいと思う。けど本人の気持ちは本人にしかわからない。対話していこう。 -
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友達の教え子(高校生)からの推薦図書です
なるほど、高校生に刺さりそうな内容ではあったけれど、
自分が高校生の頃はヘッセなんてちっとも知らなかったな…と反省
大人と子供のあわいに生じるもやもやした気持ちを
すごく丁寧に描写されていて、これは学生時代に読みたかったな、と感じました
「学校の教師は自分の組に、ひとりの天才を持つより、住人の折り紙つきのとんまを持ちたがるものである」なんて斜に構えた高校生時代の自分なら大歓喜するような一文でしょう笑
また、自然の描写も素晴らしく、ヨーロッパの田舎の生活なんて一ミリも知らないのに、どこか懐かしく、匂いまで感じるような文章がよかったです
リンゴジュース絞りの場面は、ページの向こうからりんごのさわやかなにおいが立ち上ってくるかのようでした
ヘッセ自身も自殺願望があったことを別の本で知っており、今回この作品を読んで、主人公ハンスにはそうしたヘッセの人生の多くが投影されているのだろうな、とも感じました。鬱屈した気持ち、憂鬱な気持ちの描写がうますぎます笑
大人になってから読むのもいいけれど、学生にこそ読んでほしいと思います!(明るい気持ちには全くならないけれど) -
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再読/ヘルマンヘッセは1946年ノーベル文学賞受賞。20世紀前半のドイツ文学を代表する作家である。1962年85歳没。1906年『車輪の下』は日本で最も有名なヘッセ作品であり、周囲の期待を一身に背負った少年の希望と挫折を描いた小説である。このお話しのラストが予想の斜め上をいく、突然の幕引きに驚いた。
受験戦争で精神的に疲弊した若者たちが世にあふれ、状況を改善しようと2002年度から「ゆとり教育」が実施された。結果は学力低下と学校外での学習格差が問題視されることになり、2010年度で終了する運びとなる。受験戦争を勝ち抜くことは手段にすぎず、目的を見失えば人生は味気ない。 -
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ネタバレ老齢と青春の対比を不具の主人公クーンと名望な音楽家ムオトがゲルトルートを愛し合う構図で友情を育みながら表している。
しかしクーンも心底老齢のような性格をしている訳ではなく、もともとはムオトのような傲慢で自信家なエゴイストだったが不具になったことで自信を失い内省的で控えめにならざるを得なかっただけなため、ゲルトルートの幸福を思い引き下がるも内心は自害を試みるなど外面と内面の乖離がおこってておもしろい。結局、女性をぶつようなムオトにゲルトルートは惹かれてしまい結婚した。クーンに自己投影してたので急に寝盗られて脳破壊された。しかしムオトとゲルトルートは熱狂的になった時だけ合うのであり、通常の落ち着いた老齢らしき愛を育むことはできなかった。ゲルトルートはノイローゼになり、それを受けてムオトも女とゲルトルートを禁止されてその分をお酒に依存していた。そして最後にムオトとクーンのゲルトルートに対する愛情と二者間の友情を確かめ合って、2人でゲルトルートの肖像画を見たあとに死ぬ。
誠実な人間の目の元に置かれていたら何も悪いことはできないだろう、相反する性格は最初は惹かれ合うが長くは続かないだろう、青春時代に熱狂的だった人が老齢になった時自分の命が消えることを察し後世に何かを残すべく緩慢な幸福を楽しめる。
情景描写、心情描写、人物描写、読んでるだけで幸福を感じる。
ヘッセ、車輪の下も、デミアンも、荒野のおおかみも、死にオチ多いし比較的真面目な人間が大胆で情熱的な人間に連れられて感情を揺らされる構図が多いな。でも今まで読んだこの3つは、導く役は神格化されて安定していた。なのに春の嵐だけは不安定だった。それに、デミアンと荒野のおおかみは幻想的な世界観と現実が入り交じったマジックリアリズムのようになるが、春の嵐ではその幻惑が音楽という現実で表されてたな -
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20世紀ドイツの作家ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)の小説。1915年。
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主人公クヌルプが昔の友人知人から尋ねられたように、私も「かつてのあなたがなぜいまは」と不躾な糾問に答えを濁して振り払ったことが何度もある。もちろんクヌルプのように落魄するほど振り切った生き方ができるわけもなく、傍から見れば私の生活もそこそこの形にはなっているのかもしれないが、それでも「ここは本当に自分の場所だろうか」「自分にはどこか別の場所があるのではないか」という「ここではない」不全感にずっと憑きまとわれて今日まで来ている。そしてそれを、臆病さだとか完璧主義だとか不寛容だとか、自分のパーソナリティに帰責させてしまっている。クヌルプは出会った人々に彼への親愛の感情を惹き起こしたが、クヌルプの「神」に代わって、何によって、いかにして、私は肯定されるのか。そもそも、何かによって肯定されなければならないのか。いまは否定されているのか。なぜ? 何によって?
「神」は「あるがままのおまえ」(p151)と言うが、無際限の自問自答の中でそんな核のようなものは残りそうにないし、「神」もいない。「神」がいない以上、自分で自分を肯定するしかないのだろうが、そもそもそれは一体どういうことなのか。生の肯定とはなんだろうか。生の否定とはなんだろうか。
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「神さまの声はだんだんかすかになり、あるときは母の声のように、あるときはヘンリエッテの声のように、あるときはリーザベトのやさしいおだやかな声のようにひびいた。」(p153)
この一節に触れて、自分の臆病さがこれまで犯してきた過ち、傷つけてきた人たちのことが、その人たちが示した悲しさや嬉しさが、日々の怠惰ゆえに眼を逸らしてきたせいでもうそのほとんどが朧な記憶でしかない顔たちが、呼び起こされてくる。そして呼び起こされるいままさに、零れ落ちていく。欠けていくばかりの記憶の中で、それらをこれからどんなふうに束ねて生きていけばいいのか。記憶がその場限りのものになっていくと、芯の通った生き方も何もあったものではないのではないか。
「ふたりの人間のあいだには、たとえどんなに密接に結ばれていても、いつも深淵が口を開いていること、それを越えうるのは愛だけで、その愛もたえず急場しのぎの橋をかけることによってかろうじてそれを越えうるのだということ」(p76)
せめてこのことは肝に銘じておく。