高橋健二のレビュー一覧
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初めて見た作品だったので。とはいうものの、『車輪の下』に次ぐ出版数を誇るとか。
なんて愛おしい存在なんだろう。ただ与え続けるという役割を与えられた、このクヌルプという存在は。
彼は自分を探したいだの、世界が見たいだの、そんな目的をもって旅人をやっているのではない。旅こそ彼の目的であり、望まれたことだ。だから、憧れはできても彼のように旅人に誰もかれもなれはしない。まさに在り難い。迎える人はきっとそれゆえに嬉しいのだろう。
トリックスター的存在、いわば、非日常を体現したものの物語。けれど、非日常が生きるのは日常の中。本当に彼は一体誰なんだろう。風の又三郎のように、一陣の風のように、さっと吹いてさっとどこかへ過ぎ去ってしまう。
そして、そんな存在にも探究のまなざしを忘れないヘッセの愛を感じる。彼のまなざしは、子ども心を忘れない無邪気な童話的なところがある一方で、ただひたすら「考える」そのことをし続ける、力強い一途なまなざしがある。 -
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20世紀ドイツを代表する小説家・詩人ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)の作品、1927年。時に作家五十歳、第一次大戦敗戦後のワイマール体制下で1923年にはヒトラーがミュンヘン・クーデタ未遂で投獄された情況下、作家自身の自己省察と同時代批判とを本作品で試みた。なお同年の1927年にはにハイデガー『存在と時間』が刊行されている。
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「荒野のおおかみ」ことハリー・ハラーは、ヘッセ自身を表わしていると云われる(そのイニシャルは作者と同じH.H.である)。彼は、ゲーテとモーツァルトを愛し、学芸に則ち書物と古典音楽とに、その観念に、沈潜する。「精神」の人である、「文化」の人である、「考える」人である、「憧れ」を抱く人である、「一次元よけいに持つ」人である、時代の「少数者」である。そうやって・またそういう自己意識で以て、自己の存在を支えてきた人である。そして、観念に沈潜する者は、往々にして「極端」な人である、不可避的に破滅に向かわずには在り得ない「極端」の人である。「世界外」の人である。「対自的」な人である。「不幸」の人である。「夜」の人である。「夢想」の人である。「倦怠」の人である。「破滅」の人である。「運命」の人である。「英雄的孤独」の人である。「全体的」たらんとする人である。端的に云えば、「死」の人である。
では彼らと対照される「市民=ブルジョア」とは何にか。即物的な功利主義に骨まで浸かった非-精神性。他者との関係性が虚栄と欺瞞の化かし合いかさもなくば享楽と狂騒と官能の交換の為でしかない俗物性。社会通念・公衆道徳、則ちおよそ日常的な平穏さなるものにべったりと同一化しでかつこの日常への屈従状態に対して疑問を抱かないでいられる空虚な自己。こうした堕生態にある「市民」は、破滅に到る極端に陥らない「中庸」を、欺瞞的にも自らの徳であると云う。彼らは徹頭徹尾「世界内」の人である。「即自的」な人である。「太平楽」の人である。「朝」の人である。「規律」の人である。「活動」の人である。「安穏」の人である。「日常」の人である。「匿名的群衆」の人である。「断片化」されている人である。端的に云えば、彼らは「実生活」の人である。
「もちろん大多数の人間は泳ごうとしません! 地面に生まれついて、水に生まれついていません。それからもちろん彼らは考えることを欲しません。生活するようにつくられていて、考えるようにつくられていません! そうです、考える人・・・は、・・・、まさしく地面を水ととりかえたものであって、いつかはおぼれるでしょう」
それゆえに彼ハリー・ハラーは、時代の圧倒的多数者であるところの「市民=ブルジョア」の世界に、自らの存在余地をもたない。「市民」の世界とは、「株式会社に吸いつくされて、支離滅裂な地球のまっただ中で、人間世界といわゆる文化が虚偽に包まれた野卑なブリキ製の年の市のけばけばしさで、どこに行っても、きざな男のように歯をむき出して私たちに笑いかける」世界である。一度でも自己の内面に沈潜しその深淵の底無しに戦慄してしまった者にとって、卑小な日常的「市民」世界は自らの存在をそこに安置しておくには絶対的に奥行きを欠いたものである。内面の深淵とは、内面の深淵の果て無き果てのその彼方であるがゆえに。であればこそ、孤独なる時代沈潜者は、「市民」世界に於いて何者かで在ることが不可能である。ハリー・ハラーが偶然に手にした白昼夢のようなパンフレット『荒野のおおかみについての論文』から、いくつか引用する。
「こういう人々はみな、その行為や作品をなんと呼ぼうとも、実際はまったく生活を持たない。彼らの生活は存在ではなく、形を持たない。彼らは、他の人たちが裁判官であり、医者であり、くつ屋であり、教師であるような仕方では、英雄でも芸術家でも思想家でもなく、彼らの生活は永遠な苦悩にみちた動乱であり、岩に砕ける波である。そういう生活の混沌の上に輝く、あのまれな体験や行為や思想や作品の中に、意味を見いだす用意がないとすれば、たちまち彼らの生活は不幸に痛ましく分裂し、おそろしく無意味になる」
「事務所、役所、執務室、それは彼にとって死のようにいとわしかった」
「・・・、「自殺者」は、個体化は罪であるという感情に襲われた人間なのである。人生の目的は自己の完成や表現ではなくて、自己の解体、母への復帰、神への復帰、全体への復帰だと思っているような人間である。・・・。彼らは生の中にではなく、死の中に救済者を見るのだから。自己を投げ出し、捨て去り、消えうせて、はじめに帰る用意ができているのだから」
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彼ハリー・ハラーは、或るブルジョアから会食に招かれた際に不体裁を働き、ついに「市民」世界に則ち世界そのものに堪らず、自殺を決意する。さて、反時代的沈潜者は二様に分けられる。則ち、天才とそれ以外と。
天才は、自己の内なる深淵を現実へと外化し、以て「市民」世界に裂目の戦慄を走らせることができる者の謂いである。尤も、それは現実化された途端に「市民」世界が自らを保持しようとして吐き出すあらゆる欺瞞に塗れることが運命づけられている。これは悲劇であるが、天才の悲劇である。豪奢な敗北である。
それ以外の者はどうか。彼らは、自己の内なる深淵へ無際限の否定運動――それは、対自的である彼らゆえに、必然的に自己否定に到らずにはいない――とともに下降し、終ぞ何らの具体的な形を与え得ない。「市民」世界からすれば、何とも無害な無用者である。彼らには英雄的・運命的・悲劇的に没落していくことすら許されず、ただただ「市民」世界という地獄と内面世界という深淵とのあいだに宙吊りにされたまま、振り子のように両極を右往左往する。「市民」世界の片隅で、一層強張った内面に於いて尽きること無く否定を繰り出しながら底着くことなく何処までも沈潜していくか、その内面の重みに耐えられなくなるかである。
では、ハリー・ハラーを含む、天才以外の反時代的沈潜者は如何したものか。ブルジョア教授の家を飛び出して惨めに街を彷徨していたハリー・ハラーは、ジャズが荒れ狂うダンスホールでヘルミーネと出逢う(これは作者の名ヘルマンの女性形である)。娼婦ヘルミーネは、ハリー・ハラーの苦悩にいとも容易く云い放つ。
「いつもむずかしい複雑なことをやってきたくせに、簡単なことは全然習わなかったの? 時間も興味もなかったの?・・・。でも、人生を思う存分ためしてみたが、何も見つからなかったとでもいうようなふりをなさるのは、いけないわ!」
こうして彼女やその友人のマリアやパブロから、十代の若者なら誰でも知っていることを、ハリー・ハラーは学ぶことになる。ダンスを、ダンスホールで女の子に声をかけることを、恋することを、ジャズを楽しむことを、ばかになることを、満足することを、笑うことを、そんなふうに平凡であることを、則ち生きることを。
「笑うことを学ばねばなりません。さて、すべて高級なユーモアは、自分自身をもはや真剣にとらないことから始まるのです」
「真剣にとるに値することを真剣にとることを学びたまえ! ほかのことは笑いたまえ!」
こうして「精神の人」ハリー・ハラーは、【生き直す】ことになるだろう。自殺・発狂・薬物・無差別殺傷を拒むなら、これ以外に、無いのだろうか。「精神」との均衡、ジョルジュ・ルカーチの云う節制 Haltung が、実際に如何に為されていくかは、この小説では描かれていない。しかし、そんなこととは無関係に、ともかくも、【生き直さ】れねばならない。【生き直さ】なければいけない。
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本作執筆にあたり、ヘッセ自身も担ってきた「ドイツ的精神」なるものの歴史的現実に於ける存在意義は如何なるものであったのか、第一次大戦を惹き起こし・敗北し・そしてまた来るべき戦争へと向かいつつあるドイツの知識人として、徹底した自己批判を為そうという意志がその根底にあったと思われる。
「われわれ精神的な人間はみな現実を家とせず、現実をうとんじ、敵視した。だから、われわれドイツの現実においても、歴史においても、政治においても、世論においても、精神の役割はひどくみじめなものであった。・・・。将軍たちや重工業家たちの言うことはまったくもっともだった。つまり、われわれ「精神的な人間」からは、何も生じやしない。われわれは、いてもいなくてもいい、現実にうとい、無責任な、才気に富むおしゃべりの集まりにすぎないというのだ」 -
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ヘッセの小説は「車輪の下」以来2冊目になりますが、ヘッセの小説はとにかく美しい情景描写と、繊細な心理描写が心に残る。
ヘッセの小説は読んでいると、なんだか甘美で、幻想的な気分になるのです。
まず「青春は美わし」の方は久しぶりに故郷に帰ってきた青年が、淡い初恋を抱いていた少女が美しく成長している姿を目にしてドキドキしたり、妹の友人の少女が家に泊まりにきてドキドキしたりする胸キュンな内容になっております。都会から田舎に帰ってきたので、田舎の情景の美しさや家族の優しさなどをしみじみと感じる主人公の目線もとても美しく描かれています。
「ラテン語学校生」の方は都会に下宿している青年が、下宿先の女中と仲良くなり、よその家の年上の女中に一目惚れしちゃう、という物語。主人公の純粋さが時々読んでいて「こいつはバカか」と思ってしまう部分もあるんだけど、それも含めてとてもいい。まさに、青春のバカさ加減が出ている。個人的にはこっちの小説の方がおもしろかった。下宿先の女中にかわいがってもらう主人公のかわいさが、読んでいてとても初々しくて、好感が持てる。そして、初恋らしくバッサリとふられちゃう感じもいい
初恋はそうでなくてはいけませんね。両方とも青春の甘酸っぱさをとっても美しく、みずみずしく、素晴らしい小説でした。読み終わった後は心が洗われたようにキラキラします。 -
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今さらながら、「名作と呼ばれる作品を、少しでも読もう!」と考えています。
そこで、ドイツ人のノーベル賞受賞作家、ヘルマン・ヘッセのこの作品を、読んでみることにしました。
主人公は、禁欲的に学問の世界に打ち込み、それゆえに人生に思い悩んでいる、中年男性。
ある日、暗く思い悩む彼の前に、魅力的な若い女性が現れます。
その女性と行動を共にし、現代的な娯楽に触れるにつれて・・・という展開。
人間の中にある「二面性」による苦悩、娯楽というものの意義、歴史とはどのように作られていくのか・・・などなど、多くの根源的な問題が、この物語の中に込められていると思います。
後半の、不思議な世界が次々と展開していくくだりは、僕が慣れ親しんでいる村上春樹の小説などに脈々と受け継がれている、文学的な表現なのだろうなあとも感じました。
1927年発表ということなので、日本の年号では昭和が始まったころの作品です。
当時の風俗の描写等、現在からは想像しづらい部分もあり、また、難解な表現もあるため、作者の意図のかなりの部分が、僕には消化しきれていないかもしれません。
それでも、人間の根幹課題について多くの示唆を与えてもらえたという意味で、感銘を得た一冊でした。
やはり、名作というものは読んでおくべきですね。
これからも自分に向いていそうな作品を選んで、読んでいきたいと思います。 -
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たぶん高校生くらいのときに読んで、いま再読。
ナルスチ(知)とゴルトムント(愛)という対称関係は、ほかに「霊と肉」「理論と芸術」という対比にもなっていて、もともとけっこうヘッセの小説ってこういう対比がキッパリしていると思うのだけれど、本作においてはよりキッパリして実に小説らしい。
修道院にはいったゴルトムントは高い精神と信仰心をあわせもつナルチスに惹かれ、彼をめざして勉強にはげむ。しかしナルチスはゴルトムントとの間の埋められぬ境界に気付き、むしろお互い正反対の性質を持つがゆえに重大な存在であることを説く。
まだ若くたびたび混乱をおこし強情を張るゴルトムントと、彼に対し忍耐をもって理解を促すナルチス。ふたりの道を分かつことになると知りながら、ゴルトムントへの愛ゆえに彼の進むべき道を説くナルチス。そしてもたらされるふたりの和解――こういう友情を、ヘッセはほんとうに美しく描く。
ゴルトムントは母なる道を歩む。母とは彼のうちにある幼少の記憶であり、官能と感性であり、また生と死がはげしく相剋するこの広い世界である。
ここまでがだいたい第一部。
ゴルトムントは旅に出る。そこで出会う女たちと浮気な愛を重ね、そして彼が決して手に入れることのできない騎士の娘リディアと出会う。
後に出会うユダヤ娘レベッカとともに、彼はこのリディアを想起する。彼女たちは彼が本当に求めて手に入れられなかった愛を体現しており、それは秩序や信仰が支配する世界―同時にナルチスの住まうところでもある―であり、ゴルトムントが彼の道を歩みつづけるかぎり交わることのないもう一方の確かな道だ。
(書きながら。こういうところ、深いなあ…)
ゴルトムントはヴィクトルという旅人を打ち殺し、立ち寄った教会でそのことを懺悔する。彼は教会のマリア像に感動して、それを作ったニクラウス親方に師事する。
そこで彼は彼の人生にひとつの意味を持たせるもの、すなわち芸術を発見するに至る。
ナルチスを象ったヨハネ像を作り終え、ゴルトムントが明朗に芸術について語る場面はぼくにとって心地いい。この小説にとっての「春」がこの場面だろうと思う。
第二部の終盤が「春」ならば、ペストの村々を放浪する第三部の序盤はさながら「冬」だろう。そしてぼくには、ここから物語の勢いが急に失速するように思える。その印象はラストのナルチスとの再会と対話の場面をもってしても盛り返せてない、とぼくには感じられる。
その決定的な別れ道がどこにあったかといえば難しいが、第二部の終盤でふたたび旅に出ることに決める内的独白がどうもくさいと思う。
p.275「彼が従わなければならないのは、芸術ではなくて、母の呼び声であった」「指をなおいっそう器用にすることが、何の役にたちえたろう?(略)名誉と名声、金と安定した生活とには達するが、同時に、あの神秘を開く唯一のよすがである内的な感覚を枯渇させ萎縮させるに至る」
たしかにゴルトムントは感性の人であり同時に放浪癖を生れもっているように描かれているけれど、ここの論理はどうにも甘い気がする。その証拠に、というわけではなが、ゴルトムントは第三部の旅にすっかり飽いてるようにぼくには思えるのだ。もっといえば作者のむら気が出てきてしまったというか。
ゴルトムントとナルチスの再会後の対話だっていまいちだよなあ。熱がないというか、比較するのはおかしいけどドストエフスキー並のドライブ感を期待してしまって裏切られたような感じではある。
よって☆ひとつ減じよう…かとおもったけど、移り気な愛、より堅固な愛、そして官能や芸術についてなど、やはり考えさせられる文章がとても多かったので満点つけたろ。 -
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ネタバレ再読。主人公クーンと女の子が夜の山から橇で滑り降りる場面が印象深く残っている。クーンは橇滑りの事故がもとで片足びっこになり、しかしそのおかげもあって音楽で生計をたてていくことを志す。
クーンの女性関係はけっきょく描かれないままだが、それゆえにかムオトやゲルトルートと交わす友情の場面はとてもうつくしい。
ムオトの激しさと明るさへの憧れ。そしてクーンの作曲したオペラを介してゲルトルートとふたりで過ごす時間の鮮やかさ。
青年は自己の願望のために生命までも放棄する。逆に老人は他人のために自己を犠牲にする。青年よりも老年がすばらしいというテーゼ。
しかしながら青年が老人になるためには、それこそ死にもの狂いで苦しみをなめつくさねばならない。
たとえばローエ先生の教えにしたがってクーンは母を愛そうと誓うが、この試みは挫折する。そしてある種の悟りというか、諦観に達する。
「いまは私は、他人の運命に向かって手を伸ばすのは愚かな危険なことだと考えた。(略)今日なお私は、自分の生活と他人の生活とをなんらか意識的に形づくる能力が人間にあるということを強く疑っている。金や名誉や勲章を獲得することはできる。しかし、幸福または不幸を獲得することは、自分のためにも他人のためにも、できないことだ。」
クーンが捉えられていたのは実存主義的な悩みだった。キリストや仏陀のいうように、「この世界はまちがっているし虚しい」。しかしその倦怠や迷妄を越えて差し込む光がたしかにあり、クーンにとってそれはゲルトルートや音楽だったにちがいない。
ゲルトルートのような高貴でうつくしい女性がみずからを破壊しかねないムオトのような男に惹かれること――それはまぎれもなく悲劇的なことであるが、それをどうこうする力は実は誰にもないのだ。
前に読んだときよりも、より多くのものを汲み取ることができるようになったと思う。感謝。 -
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あらゆる能力に秀で、誰からも愛された少年クヌルプが失恋にうちひしがれ、才能を持て余すさすらいの人生を送る。『シッダールタ』にもつながる魂の救済の物語。
「きみは聖書に注文をつけすぎるよ。何が真実であるか、いったい人生ってものはどういうふうにできているか。そういうことはめいめい自分で考えだすほかはないんだ。本から学ぶことはできない。これがぼくの意見だ」(p33)
「だが、それをぼくひとりで楽しんだわけじゃない。たいていの場合、仲間か、若い娘か、子どもが居合わせて、それをおもしろがってくれ、ぼくによくお礼を言ったものだ。それでいいことにしよう。それで満足しよう」(p89)
引用は控えるが、最期の描写が美しい。とにかく美しい。 -
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生活の芸術家、クヌルプの3の物語を描いた作品。「早春」「クヌルプの思いで」「最期」と題された思いでの中に、クヌルプという人間の豊かさが溢れている。
中でも好きな場面が、「最期」でクヌルプが故郷に帰り、その少年時代を懐古するところだ。少し抜粋したい。
「どの屋根にどのネコがいるか知らないことはなかった。どの庭でもその果実を食べてみなかったことはなかった。どの木でも、登ってみなかったのはなかった。そのこずえに緑色の夢の巣を彼が営まなかった木はなかった。この一片の世界は彼のものであり、このうえなく深い親密さでなじみ愛したものであった。ここでは低木の一つ一つ、庭の生がきの一つ一つが、彼にとって重大さを意味を歴史を持っていた。」(109p)
クヌルプは初恋が失敗しそれ以来、持っていた才能をただ旅を楽しむだけ、時折クヌルプが訪れる旧友を楽しませるだけに使った。非凡さを持ちながらしかしまともにはなれなかったクヌルプは、それでも最期の神との対話で救われた。彼らしく生きたのだの。 -
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二カ月ほど前、我が家に猫がやってきた。母が道端で鳴いていた黒い子猫を拾って来たのだ。その頃は目も開いておらず、当然餌も自力では食べられないため、注射器にミルクを入れて飲ませなければならなかった。時が経ち、日に日に成長した猫だったが、自分たち家族は彼のために様々な気を遣い、世話を焼かなければならなかった。その割に本人は飄々として自由気ままに過ごし、気の向いたままふらついて行く。呆れることもしばしばあったが、しかしそのぶん家族間の空気は和み、癒され、以前に比べて笑顔も増えた。すべて彼のおかげである。
さて、この話の主人公クヌルプは、まさにこの猫のような人間である。
自由気ままに放浪し、旅先の知り合いに世話を焼いてもらう。しかし、その憎めない性格ゆえに、訪ねる先々で倦厭されるどころか歓迎される。
ヘッセと言えば「車輪の下」「デミアン」など重苦しい作品が代表作としてあげられるが、本作はそうではない。作者お得意の自然の描写はやはり美しく、主人公はアウトサイダーの人間ではあるが、優しい童話のような雰囲気さえ感じられる作品だった。ただその核にある物は決して軽々しいものではない。やはりそこには前述したふたつの代表作に通じる真理があるのだ。
このことは訳者により巻末で詳しく述べられている。