桑原武夫のレビュー一覧
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お、おもしれぇ〜…!150年以上前の作品だからもっとお堅いのかなと思って面白さはあんまり求めてなかったけど、なにせミシュレ自身がバスティーユのたった9年後に生まれて周りに革命経験者がゴロゴロ居る時代に育ってるもんだから臨場感がすごい
でも最初のミシュレの説明にも何回も書いてあったけど、まあ俯瞰した本であるかというとそうではない
フランスのこと愛しすぎて、全世界からフランスが愛されてるというのを何回も言っちゃうの可愛い
ただ、生きた描写であるが故、土地の名前や人の名前が「お馴染みの」みたいな感じで特に説明もなくポンポン出てくるので、WikipediaとGoogleマップを見ながら読んでたの結構疲れたな笑
人物や出来事を整理するために、notionでフランス革命についてまとめ始めました。
下巻も楽しみ! -
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本書に掲載された最終講義について一言ずつ。
桑原武夫…仏文学者以上に隲蔵さんの子息、というイメージが強い。垣根を越えた研究という事では共同研究も論語の著作も同じなのかも知れない。
貝塚茂樹…大学者一族の一角、湯川秀樹は弟。東洋史学者の模範的な最終講義だと思う。
清水幾太郎…60年安保前後で言論が大きく変わった、という印象の人だが、コントに興味を持つ面白い講義だった。
遠山啓…存じ上げない方だったが、数学論がほんのちょっと分かった気がした。
芦原義信…ゲシュタルト心理学から都市空間を観るのは面白い。
家永三郎…教科書検定裁判の人、として子供の頃から名前は知っていた。大人になってから読んだ戦争責任は興味深かった。
猪木正道…独裁とは、その独裁を必要としないような状態を作る為の非常手段である、か。
梅棹忠夫…民博の父。関西のアカデミズムを代表する1人。
江頭淳…慶応と奥さんが大好きな人だったんだな、と思う。奥さんを亡くして生きる糧を見失ったのか。
木田元…ハイデガーがほんのちょっと分かった気がした。メルロ=ポンティという響きが何か好き。
加藤周一…在校生だったのに何故この最終講義の存在を知らなかったんだろう…
中嶋峰雄…この方も存じ上げなかった。文明の衝突論を批判しているが、ここに来て又衝突論の有用性が唱えられている。難しい。
日野原重明…おじいちゃんアイドル、というイメージが強すぎたが、後生に残る医学者なんだよな。
ジュンク堂書店大阪本店にて購入。 -
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文学の面白さは、慰みもののそれとは異なり、人生的な面白さである。
作者の誠実ないとなみによって生まれた作品中の人生を、読者がひとごとならず思うこと、つまりこれにインタレストをもって能動的に協力することである。
作品とは完了された経験なのである。それでは読者は、その経験を再経験して、インタレストをもつことによって、何を得るか? それはすぐさま行動に爆発するようなものではないが、行動をはらんだ心的態度であり、それはわれわれの行動を規制する力をもっている。
読者が文学によって、人間についての知識を獲得することは、いうまでもないが、その知識は実感に即した、実質のある知識である。そして、そうした知識の裏づけがなければ、理論的知識は空理におわるおそれがある。
人生を充実した、よりよきものとするためには、理性と知識のみでは足りず、さらに人生に感動しうる心が不可欠である。ところで文学こそ、そうしたものを養成するのに最も力のあるものである。
すぐれた文学とは、われわれを感動させ、その感動を経験したあとでは、われわれが自分を何か変革されたものとして感ぜすにはおられないような文学作品だ、といってよい。
そうした作品の経験を再経験することによって、われわれは心の中においてではあるが、豊かで深い人生を新たに経験したことになる。それは一つの冒険といってよい。
つまりわれわれを変革するもの、それがすぐれた文学なのである。 -
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ここまで徹頭徹尾正しいことが書かれていると感じる本も珍しい。だがそれは、一度知ったら誰にでもわかるような普遍的なこと、「地球には酸素があって我々はそれを吸いながら生きている」というレベルのことを、書いているからにすぎない。ここに書かれているのはそれくらい当たり前のことなのだが、自分の知らない分野のことになるとそれくらいのこともわからないものなのだから、入門書というのはそういうことを丁寧に書いてあるようなものであらなければならない。この本は本当に丁寧に「文学」を説明する親切さにおいて、良書である。文学を書く人も積極的に読む人もここがスタート地点となって、さまざまな場所へ行ってゆく。型を破ろうとここに書かれている「当たり前」を否定しようが革新しようが、まずその当たり前を知らなければ、単なる型なしでしかない。我々はこのスタート地点から文学について考え、そして書かなければならない。
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13年4月7日日経朝刊の「リーダーの本棚」のコーナーで、SMBC日興証券副会長の渡辺英二さんの座右の著として紹介されており読んでみた。
本自体はだいぶ昔の本なのだが、とても面白く読むことができた。
文学を読むということは、それを通して新しい経験をすることであり、本当の文学はハイキングではなく初登頂のようなもの、というような表現があったが、きっとその通りだと思う。ただ、それが書かれた時代では初登頂であっても、そこから歴史を経るとどうなるのか、文学はそれでも生き残ったものなのだろうが、その辺り疑問が残る。
日本には文学が育ちづらいというが、では海外文学を鑑賞するのに翻訳でいいのか、といった点にも触れられていて、好感が持てた。
私自身、文学というものはあまり読んだことがないが、これを読んで、『アンナ・カレーニナ』を読んでみたくなった。巻末の必読書リストも読んでいきたくなる。
[more]
(目次)
第一章 なぜ文学は人生に必要か
第二章 すぐれた文学とはどういうものか
第三章 大衆文学について
第四章 文学は何を、どう読めばいいか
第五章 『アンナ・カレーニナ』読書会 -
中江兆民 三酔人経綸問答
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中江兆民 三酔人経綸問答
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中江兆民「三酔人経綸問答」青110-1 岩波文庫
本著はもともと漢文で書かれており、前半は現代語訳文、後半は原文といった構成になっています。
民主制を訴える洋学紳士、侵略主義を唱える豪傑君。血気盛んな二人の成年は、政治と哲学の師である南海先生のもとを訪れる。盃を交わし、両者の熱い弁論は平行線を辿る。酒も回ってきた頃合いに、南海先生が口を開く…。
互いに足らぬところ、行き過ぎた部分を指摘し、両者の思想は違えど、実はその根源は同じであると諭す。しかし、あくまで道理を示すまでにとどめ、特定の政治目標へ導くことはしない。
その南海先生のスタンスこそ、まさに本著の目的でもある。
南海先生は政治の本質についてこうも述べている。
「政治の本質とはなにか。国民の意向にしたがい、国民の知的水準にちょうど見合いつつ、平穏な楽しみを維持させ、福祉の利益を得させることです。」
まさに両者に欠けている部分でもあり、これは今にも通ずるのではないでしょうか。
非常に面白い一冊でした。 -
中江兆民 三酔人経綸問答
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中江兆民 三酔人経綸問答
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ネタバレ日本にルソーを紹介した民主主義者・中江兆民の著。1887年出版。 現代語訳だけ読んだ。
進歩的理想主義者「洋学紳士」と保守的軍国主義者「豪傑君」がそれぞれリベラリストとナショナリストの立場から国家論を展開。中道的リアリストの「南海先生」が聞き手に回るという内容。 三人とも酒を呑みながらしゃべる。
洋学紳士も豪傑君も極論。どちらも理解できる部分があるし、いやそれは違うだろ、という部分もある。最後に二人をいさめつつ議論をまとめ上げるリアリスト・南海先生のくだりのカタルシスが素晴らしい。
「政治の本質とはなにか。国民の意向にしたがい、国民の知的水準にちょうど見あいつつ、平穏な楽しみを維持させ、福祉の利益を得させることです。」(南海先生、p97)
「紳士君、紳士君、思想は種子です、脳髄は畑です。(中略)今日、人々の脳髄のなかに、帝王、貴族の草花が根をはびこらせているまっ最中、ただあなたの脳髄にだけ一つぶの民主の種子が発芽したからとて、それによってさっそく民主の豊かな収穫を得ようなどというのは、心得ちがいではありませんか。」(南海先生、pp99-100)
南海先生の言が中江兆民の考えていたことだとすれば、明治時代としては、おそらく最も先進的な政治思想にふれていた中江兆民が、意外なほど現実的で、かつ、百年先の未来を見据えてコツコツと啓蒙するしようと決心していたのだなと感じた。
かくして、「とりあえず立憲制度、上下両院を置いて下院は選挙による、海外の法律を参照しながら良いところは取り入れる、外交は平和友好を原則とする、言論・出版の規制は少しずつ取り払う」という南海先生の凡庸な結論に、洋学紳士も豪傑君も肩透かしを食らうのであったw
「今日では、子供でも下男でもそれくらいのことは知っています」(p109)
まあしかし、明治にすでに進歩的な国家のビジョンを作り上げた思想家がいたのに、日本は随分と遠回りをしてきたものだなぁ。 -
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『フランス革命史』抄訳の第二分冊。ルイ16世の処刑から、ロベスピエールの処刑(テルミドールのクーデタ)までを扱う。革命の指導者たちが、革命裁判や暗殺によって次々に命を落としていくさまが克明に描かれてゆく。マラーやダントン亡きあと、一時的に全権力をロベスピエールが掌握したが、それも1年と持たない。ミシュレはテロルを対外情勢や国内情勢が要請した不可避のものとして描き出す――これはのちにフュレが「状況の論理」と呼んだものだろう――が、それでもロベスピエールの負の側面を描き出すことを忘れなかった。しかし、ミシュレが「フランス革命」の歴史をテルミドールのクーデタ、したがってロベスピエールの処刑によって閉じていることは印象的である。テロルという負の側面はあったにせよ、テロルのあとに来るのが軍人政治の時代、ナポレオンの時代であることを示唆しながら、ミシュレは「革命」の歴史を閉じた。ここに、革命の主役は人民であるというミシュレの基本的な理念が反映されている。
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著名なフランス革命史の抄訳。上巻では、全国三部会招集からヴァルミーの勝利および共和国宣言までが扱われる。トクヴィルが『旧体制と大革命』で、革命とは距離を取りながら行政システムの連続性を浮彫りにし、革命が革命以前から始まっていたと考えたとすれば、ミシュレが強調するのは革命による「人民」の革命的変化であり、人々が突如情念に突き動かされ、共和国樹立へと邁進していく姿である。その限りで、「共和派」の歴史叙述と言われるに相応しい内容である。ミシュレにおいては、革命当時から国外では非難轟々であった人民の直接行動でさえ、革命の友愛精神の現れであり、ジャコバン派の支配も状況による不可避の選択である。歴史が共和政を最終目的としているという確信が、革命時の様々な残虐行為でさえも、共和政に向かうプロセスの一部として許容されることになる。
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いささか古いが、文学の中核的な意義は存分に語られていると思う。最後に読書会をもってくることも構成的に素晴らしい。その意義がしっかり伝わる。それにしても日本の私小説に対して本当に腹立たしいのだろうな。
・理性の増強と知性の増加に、人生へのインタレスト、感動する心、常に新しい経験を作り出す構想力が必要。
・現実の人間は哲学者の区分をこえて全的に生きることを具体的に示すのが文学。
・文学者の偉大さとは、彼がその胸の中にいかに多くの人間を生かしうるかによって定まる。
・すぐれた文学:生産的、変革的、現実的。通俗文学:再生産的、温存的、観念的。
・新聞に小説を載せるのは日本だけではないか。
・普遍的な客観性を通らない個性はない。 -
中江兆民 三酔人経綸問答
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ある日洋学紳士君と豪傑君が南海先生のところを訪ね、3人で酒を交わしながら、緊迫する世界情勢の中で日本という東洋の小国がいかに進んでいくべきか、その外交上の指針を鼎談形式で語るという体裁の作品。洋学紳士君は進歩史観に基づき、武力を排除して民主主義・自由・平等を押し広めていくべきという考え、つまり左翼的である一方、豪傑君は"弱い大国(恐らく中国)"を支配して日本を大国化する、つまり右翼的な考えを持つ。南海先生は侵略は防衛する時に限るべきだと、これは中道路線というべきか。
p100の南海先生の言葉に、「事業はいつも現在において、結果という形で姿をあらわすが、思想はいつも過去において、原因という形をとる」「世界各国の事跡は、世界各国の思想の結果です」と、こんなことを言っている。考えてみると果たして今の時代、国の進むべきビジョンというのがあるのだろうか?思想といったものはあるのだろうか?それとも自分が知らないどこかには存在しているのだろうか?思想無き今、南海先生の言葉を借りるなら、事業をなすにもその原因たるものがないということであり、目先の利益にフラフラとしていつの間にかあらぬところに漂着してしまいはしないのだろうか。
南海先生はそしてまた、「p109 いやしくも国家百年の大計を論ずるようなばあいには、奇抜を看板にし、新しさを売物にして痛快がるというようなことが、どうしてできましょうか」とも。特にここ最近、奇抜さ、大胆さこそがかっこいいという風潮が蔓延しているような気がする。知力より体力や筋力というか、慎重さより大胆さというか。恐らく明治の時代にも似たような空気があったのでは?決断力は必要だ。時に豪傑さも必要だ。だがそれらは、正確な言葉の運用、理性、そして勢いに任せて一つの思想を絶対視しないというバランス感覚、これらの存在が前提だろう。 -
中江兆民 三酔人経綸問答
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中江兆民 三酔人経綸問答
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ネタバレ<紹介>
本書は自由主義的進歩思想、絶対平和観を有した洋学紳士君、帝国主義的国権論者の豪傑君、現実主義の南海先生、三人が対話によって世界の潮流、日本の政治を語るものである。洋学紳士君、豪傑君はどちらもラディカリストであり、それを南海先生がたしなめる形になっている。南海先生は決して自らの主張を述べるでもなく、喋る機会自体が少ないが、先生の言葉一つ一つは比喩を用いながら、思想や政治の本質について核心的な事を述べており興味深い。
<感想>
解説にあるように、三者のうちどれが中江兆民の思想に一番近いのかははっきりしないが、私は洋学紳士君に対する思い入れが大きいように思える。洋学紳士君は西欧の歴史の理から自由民主制こそが最上の制度であり「進化の理法」だという。そして富国強兵など弱小国は望めないから、学術的に秀でることで「無形の道義」を体現すべきだという。この洋学紳士君の「進化の理法」に対する批判に本書でもっとも力が入れられているように感じた(p94~)。
先生曰く、人間が先導することが出来ない「進化の神」は、畢竟跡づけに過ぎない。その「神」の進む道は曲がりくねり、前後し決して直線コースを採らなず、人間が予見出来るものではない。さらに、世界中には至る所に多様多愛な「進化の神」がおり、西欧型が唯一ではない。だから直ちに何を採用すべきか分からないけれど、一つ確かなことは「進化の神」が共通して憎むものがあるということである。そしてそれは「その時、その場合においてけっして行ない得ないことを行なうとすること」である。
続けて言う、政治の本質とは国民の意向に添い、国民の知的水準に合う制度を採用し、福祉の利益を達成することであると。事業、歴史は常に「過去の思想を発現」である。「進化の神」としての歴史は「人々の思想が合体して、一つの円をかたちづくるもの」である。であるからこそ、人々の脳髄に思想を植え、それを一度過去のものにしない限り、良い事業は出来ないのだ。
社会契約論を翻訳し、東洋のルソーと呼ばれ藩閥政治には批判的であった中江兆民だが、本書を読んで感じるのは、兆民自身がフランス型の社会契約論に根ざした「民権の回復」(草の根の革命的民主化)を求めているとは到底思えないことだ。それよりも「恩賜の民権」(上からの自由化、民主化)を重視し、君主や宰相が「人民の知的水準」に注意を払いながら、自由の規制を解くことが望ましいと考えている(p98~)。そしてその漸次自由化の間に人民が行なうことは「これ(恩賜の民権)をちゃんと守り、大切にあつかって、道徳という霊気、学問という滋養液で養ってやる」ことである。そうすれば時勢が進み歴史が展開するとき、肥え、背が高くなり「回復の民権」と肩を並べることが出来る、それこそ「進化の理法」であると考えている。