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さんすいじんけいりんもんどう
中江兆民は民主主義の基礎を築いた人
歴史で〜をやった人+名前だけ覚えるみたいなクソみたいな勉強してたなと思う。中江兆民の書いた本読んでなかったらこんな魅力的で素敵な人だって知らなかったもん。〜をやった+名前を知ってても知ってるとは限らないというのはこの事だね。
中江兆民(なかえ ちょうみん)
(1847年12月8日 - 1901年12月13日)は、日本の思想家であり、「東洋のルソー」と呼ばれた人物です。明治時代に活躍し、近代日本における民主主義思想の先駆者として知られています。彼は西洋哲学、特にジャン=ジャック・ルソーの思想を日本に紹介し、それを基盤として独自の政治・社会思想を展開しました。
三酔人経綸問答 (光文社古典新訳文庫)
by 中江 兆民、鶴ヶ谷 真一
つまるところ、何とかいうその遠い先祖が、戦場で軍旗を奪い、敵の大将を斬って手柄をたてたために、爵位をさずかり土地をたまわり、以来、子孫が今日まで受けついできたということなのです。その子孫は、才覚も学識もなく、ただ祖先の朽ち果てた骨がなお墓のなかで放つくすんだ七光をたのみに、何もせず何の能もなく、しかも豊かな俸給を受け、美酒を飲み、やわらかな肉を食らい、のほほんと日を送る、あの貴族と称する一種特殊な物体です。ああ、一国にこのような物体が数十、数百も存在するとあっては、立憲制をもうけ、千万、百万の 生霊 が自由の権利を手に入れたところで、そもそも平等という大義を欠いているために、自由の権利とはいっても本物ではありません。なぜなら、われわれ 人民 が朝夕、汗水たらしてわずかに手にするもののいくらかを税金として納めるのが義務だとはいえ、行政の事務をとり行なう公務員を養うならまだしも、何もせず何の能もない物体を養わなければならないとは。これが真の自由であるはずがない。
腕には 緋鯉、背には 青龍 の彫り物、もろ肌ぬいでどんとあぐらをかき、得意満面でいるのは、ご存じ破れ長屋の大将。八つぁん、熊さんではもの足りず、緋鯉の八つぁん、青龍の熊さんと呼べば、大喜び。公侯の爵位もこれと同じで、形のない彫り物ではないですか。
『そうか。 吾れ之を解せり!。やつらのは形のある彫り物なのだ。だから野蛮で、家は破れ長屋ときている。こちらのは形のない彫り物だ。だから文明で、お屋敷ずまいなのだ。まあ名前に爵位をつけて呼べば、いくらか緋鯉の八つぁん、青龍の熊さんに似てはくるが……』。爵位をもつ人は国に貢献をしたとでもいうのですか。その地位なら、それくらいの貢献はあたりまえ。さらに俸給さえもらっている。並々ならぬ大貢献をしたというが、それなら、報奨金をもらってほめられるだろうに、今どきはやらない彫り物をして、親にさずかった身体を傷つけて喜んでいるとは」( 欄外にいわく。 八公、熊公のために大気炎を吐く)
「だいたい近年のヨーロッパの状況を考えますと、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアの四カ国がもっとも強く、いずれも文学にすぐれ、学術をきわめ、農業、工業、商業が盛んにして物資は豊富、陸には数千万の強い兵がいならび、海には数千 隻 の戦艦がつらなり、その強大堅固な軍備は、うずくまる龍がにらみをきかせ、かたわらの虎がとびかかろうとするようで、その盛んなことは前例をみないほどです。さてこのような強力な国力をうみだし、莫大な財力を築いた要因は何でしょうか。要因はさまざまあるとしても、要するに自由という原理がこの一大建築の基礎をなしたのです。
たとえばイギリスの繁栄と強大は、代々のすぐれた王にさかのぼれるとしても、一躍、多大の力をふるって奮闘したのは、チャールズ一世のときに自由の波濤がどうと湧き起こり、古い弊害である堤防を突きくずして、有名な権利の請願の実現をみたのでした。
またフランスでも、ルイ十四世のときに早くも強大な軍備を誇り、華麗な文芸を開花させて一世を 風靡 したとはいえ、それは専制国家という穴倉のなかにむらがり咲いた 黴 の花にすぎず、ほんとうに隆盛を確かなものにしたのは、あの一七八九年の大革命という偉業の成果にほかなりません。
またドイツでも、十八世紀に勇猛なプロイセン王フレデリック[フリードリヒ]二世が、武力で近隣諸国を圧倒して以来、次第に強大になってきたとはいえ、フランス革命の思想がいまだ移入されないうちは、国は分裂してばらけた 薪 のようでしたが、ナポレオン一世が共和国の指揮官となり、革命の旗をなびかせてウィーンやベルリンに遠征するに及んで、初めてドイツ国民は自由の空気を呼吸して友愛の 滋液 を飲みくだし、以来、情勢は一変、風俗は一新し、着々とこんにちの隆盛に至ったのです。
人間社会のあらゆる事業は、たとえば酒のようなもので、 自由とはちょうど酵母のようなものです。ワインでもビールでも、その素材がどれほどよくても、もし酵母というものがなければ、せっかくの素材もみな樽の底に沈殿して、アルコールの醸造されることはない。専制国家の事物はどれも酵母のない酒のようなもので、みな樽の底の沈殿物です。ためしに専制国家の文芸に目を通してごらんなさい。なかには見るべきものがあるにしても、こと細かに見るならば、千年たっても変化なく、万の作品を見ても同じようで、変化発展がみられない。作者の見聞する現象はどれも樽の底の沈殿物にすぎず、作者もまた沈殿した精神でそれを描写するだけ。変化発展がないのも当然です」( 欄外にいわく。漢学先生、何か言い分は)
「ことによると、こう言う人がいるかもしれません。『国が富んで強いのは、財貨が豊富なためである。財貨が豊富なのは、学問が精緻なためである。なぜなら、物理学や化学、動物学や植物学、数学などの成果を取り入れて産業に応用することで、時間を節約し、体力をむだにせず、大量のすぐれた製品を生産できることは、手作業でこつこつ作るよりはるかに効率的である。これこそ国が富んで強い要因ではないか。国が富んで強ければ、すぐれた兵をもち、堅牢な戦艦をそなえ、争乱がおこれば敵国のすきをついて出兵し、 僻地 を開拓して耕地に変え、遠くアジア、アフリカの地を領有し、移民を送りこんで市場を設け、その地の産物を安く買い、自国の製品を高く売って莫大な利益を得る。工業がいよいよ盛んになり、販路がいよいよ拡大すれば、陸軍、海軍とも軍備はますます強大になってゆくのは自然の勢いである。国が富んで強いのは、自由の制度のためではないのだ』と。
ああ、これこそ、一を知って二を知らない者の言うことです。人間の行なう事業というのはどれも関連しあい、原因と結果は複雑にからまりあっているとはいえ、これを細かく考えれば、そこには真の原因があるのです。国が栄えて豊かなのは、学問の精緻なことが原因であり、学問の精緻なのは国が栄えて豊かなことが原因であり、このふたつは互いに原因となり結果となるのは言うまでもありません。しかしそもそも学問が精緻になることができたのは、要するに人々が知識に目ざめたためです。いったん知識に目ざめれば、学術の面で目がひらかれるだけでなく、社会制度の面でも目をひらかれるようになるのは、理の当然です。このためどの国…
その後、十八世紀になると、フランス人ディドロ(9)、コンドルセ( 10) などは、とくに人間社会にこの進歩の法則がとぎれることなく働いていることを発見したのでした。フランス人ラマルク( 11) が登場し、動物・植物学を研究し、初めて 種 というものが世代を通して変化して、けっして固定したものではないという説をとなえたのです。以来、ドイツのゲーテ、フランスのジョフロワ( 12) などが、みなラマルクの説を発展させ、しだいに精密なものにしていった。英国人ダーウィンに至って、その広い学識と深い洞察によって、また実証方法も精緻になったため、生物が親から子へと代々変化をとげながら形成されてゆくという法則を発見し、とくにわれわれ人類の祖先の出どころをつきとめ、その隠された意味を解明するに及んで、あのラマルク以来、学者のうかがうばかりであった進化という至上の原理を初めて世界に公表するに至ったのです。いまや、宇宙に存在するあらゆるもの、日、月、星や、海、山、川。動物、植物、昆虫に、社会や、人事や、制度に、文芸。どれもこの進化という法則に支配され、少しずつ確実に前進してゆくことは、誰も疑うことはできません。この点をもっと詳しく論じることにしましょう」
そのうえ、専制制度を脱して立憲制になったとき、人というものは初めて独立した人格となることができるのです。どうしてでしょう。人間として必要ないくつかの権利があります。政治に参加する権利、財産を私有する権利、自由に事業を選んで営む権利、ある宗教を信じたり、または信じなかったりする権利、そのほかに言論の権利、出版の権利、共通の目的のために団体を結成する結社の権利など、これらは人間であればかならず兼ねそなえなければならない権利であり、これらを兼ねそなえて初めて人間たるに 価するといえるのです。
そのうえこの種の国では、官僚として生きることが尊ばれ、民間に生きることはさげすまれている。現に官僚の一員となり官吏となった者は言うまでもなく、民間にあって一事業にたずさわる者であっても、規模をひろげて事業を拡大しようと思うなら、かならず官僚の援助を借りなければならないのです。農業、工業、商業、そのほかどんな職業をいとなむ者であっても、その田畑の広く、その店の大きく、その工場の立派で、その使用人の多い者は、陰に陽にかならず天子の私的な恩恵をこうむり、甘い汁を吸っていることを忘れてはなりません。
「文学者や芸術家でさえこのざまだとすれば、ふつうの官吏や役人だったらいったいどういうことになっているのか。昔の人はこんなことを言っている。『表立っては朝廷に官職を受け、裏ではひそかに屋敷を訪れて恩をありがたがる。夜は 憐 みをこい、昼は人に威張り散らす』。これこそまさに、こうした者たちの実情を語る言葉といえるでしょう。人間ならば自分に誇りと慎みを持ち、へりくだったりしないのが、男子たるものの節操ではありませんか。今の官吏や役人のありさまを観察してごらんなさい。はたして自分に誇りと慎みを持つだけの気概がありますか。男子たるものの節操がありますか。もし自分に誇りと慎みを持ち、男子たるものの節操があれば、一日も官職にあることはできないでしょう。朝に正々堂々と批判の声を上げれば、夕べにはお払い箱になるだけのこと。給与がなければ、家族を養うこともできない。自分も家族も凍死や餓死する道を選ぶよりは、むしろうなだれて口をつぐみ、妻子と楽しく、新鮮なものを食べて暖かく快適な暮らしをするほうがよい。これは誰にも明らかな理屈というものでしょう。どうして馬鹿正直に大声をはりあげ、今どきはやらない人物をまねる必要がありますか……。こんな声が聞こえてきます。『君は以前にはどこかの役所にいて何かの職にあり、その後、ある官庁にあってある役職についていたというではないか。官僚の世界に長く身を置いていたわけだ。どうして君はいつまでもいこじで青臭いのかねえ……』
いや、しかしそうではないのです。言いたいことを言い、したいことをして、思いどおりのびのびとふるまうのは、男子たるものの本性です。ところが、初めは我慢に我慢を重ねて自分をおさえ、気軽な言動を慎んで長い歳月を送るうちに、意識せずに巧みに媚びへつらうようになってはいても、生まれつきそなわる人間性というものはそう簡単になくなるものではない。そこで、もし心おきなくのびのびできる境遇になれば、うって変わって傲慢な態度をとり、それまでの卑屈な生き方の補いをする。これは人間性に根ざした自然の勢いでしょう。ですから西洋人はこう言っています。『自由な国の人はおだやかで品位があり、人と争うことをせず、専制国の人は傲慢になる』と。これは 欺くことのない真実です。
立憲制は悪くはないが、民主制は良い。立憲制は春であり、きびしい霜や雪の気配がすっかり消えたわけではありません。民主制は夏であり、霜や雪はもう気配もないのです。中国の言葉を借りれば、立憲は賢者であり、民主は聖人です。インドの言葉を借りれば、民主は如来であり、立憲は菩薩です。立憲は尊ぶべきものであり、民主は愛すべきものです。立憲は旅館であり、遅かれ早かれいつかは立ち去らなければなりません。立ち去らないのは、足の弱い人か、足の不自由な人です。民主は自らの住居です。ああ、長い旅行から帰り、わが家に落ち着いた人は、どれほどほっとすることでしょう」( 欄外にいわく。自ら答えて笑って言う、漢文のカスだ)
イギリスもまた文明人であり、教養人にして、富の蓄積を好みます。ことによると、彼らがアジア、アフリカで乱暴をはたらくのは、じつはロシアの粗暴に思い悩んだやむをえない結果なのかもしれません……イギリス、フランス、ロシア、ドイツの諸君、きみたちは自分の子どもたちのなかから、くれぐれも豪傑という怪物を出さないように。不幸にもその豪傑が出てきたときには、けっしてその言うことをきいてはいけない。
豪傑の客はつづけて、「失礼しました。すぐ本論に入りましょう。現在、世界中の国々が争って武力を重視し、すべて学問の発見や成果は軍事利用され、軍備はますます精密になっています。たとえば物理学、化学、数学などの学問は、銃砲の精度を上げ、要塞を堅固にし、農業、工業、商業などは、軍事費を供給し、食糧を提供する。つまりあらゆる事業がみなそこに注ぎこまれ、軍事政策に協力しないものはない。これによって、百万の兵士と数百、数千隻の艦隊が、ひとたび号令が発せられれば、期限に遅れず、命令にそむかず、ただちに敵の都城をめざして進軍し、敵地の港に押し寄せるのです。
しかしイギリス、フランス、ドイツ、ロシアの諸国がこんにち豊かで強大なのは、一朝一夕のことではなく、その原因はきわめて多様であり、その手段もまたさまざまです。たとえば賢明な国王が統治して善政を行なったこともあり、傑出した宰相が君主を補佐して内政、外政に力をふるったこともあり、名将が武勲をたて、大学者が高遠な学説を唱え、工芸家が精妙な作品を作った、ということもある。たとえてみれば、平和のときには、蓄えに努めてよくひたしておき、戦時には、これを 濾してかきまわす。恵みの雨にうるおし、晴天の日にさらす。あるときはけわしい谷を過ぎて平らな野にかかり、または激流を過ぎて穏やかな流れに入り、あるいは右に左に、またゆるやかに急に、無数のつらさ苦しみを経て、ようやく今日の文明の段階に到達したのです。このためにどれだけの年月と知力と工夫、さらに生命と物資を費やしたことでしょう」( 欄外にいわく。何らかの実際的な経済政策が、将来ここから生まれるにちがいない)
新しがりやの人たちはこれと反対に、すべて古めかしいものは腐りきって一種の臭気をおびているように思い、遅れまいとひたすら新しさを求めている。そこまで極端にならない人たちにしても、つぶさに分ければ、これら二つのどちらかに入ることになるようです。要するに、古いもの好きと新しがりやの二者は、このような国民のなかで、まったく相いれない二つの元素なのです。
これら二つの元素は、かんたんに分析はできないが、年齢と土地柄によって判断すると、ほぼ分類することができます。ためしに実例について調べてごらんなさい。年齢三十以上の人物は、ほとんどみな古いもの好きであり、三十以下の人物は、ほとんどみな新しがりやです。三十以上の人物で、すすんで新しいものを取り入れて、しかも心から好きになるような人もいるが、これをよく観察してみると、いつのまにか昔を懐かしがる気持ちが起こって、その力はおとろえない。三十以下の人物では、昔を懐かしむ父親の教育に影響されるところがないとはいえないが、その言動をみれば、自然に新しがりやの元素が含まれ、古いもの好きの元素と両立しなくなります。
ことによると、こういう人がいるかもしれません。『三十以上の人物といっても、いちはやく英語やフランス語の本を勉強したり、翻訳書をいろいろ読んだり、ひたすら時代の動静にかかわり、例の自由、平等、権利、責任などの本質をきわめ、若者にひけをとらない新しい生き方をしようと考える人たちも少なくありません。いちがいに年齢によって区別するのはどうでしょうか』。これはまことにその通りで、高い才能と卓越した見識を持っている者について、通常一般の判断基準をあてはめるべきではないでしょう。しかし、その他一般の人々については、年齢にとらわれないという人はごく限られています」( 欄外にいわく。高い才能と卓越した見識を持っている者が、はたして世間にいるだろうか……いるともいるとも)
またその妻が学問や芸術を話題にしたり、時事問題を論じたりするのを聞くと、さもエラそうに、『女は三度の飯さえつくっておればよろしい。女だてらにそんなことを言い散らして、世間の人に笑われるのがおちだ』などと言ったりするのは、中国の故事にある、『めんどりがときをつくるのは、家が落ちぶれる前兆。妻が口出しするのは、家の破滅のもと』という古来の戒めが念頭にあるわけではまったくなく、単に、若いころから女性がそのようなことを話題にするのを耳にしたことがなかったからなのです。
「自由民権」の思想家として知られる中江兆民(一八四七~一九〇一)は、われわれに三つの不朽の著作を残している。一つは「東洋のルソー」と呼ばれる理由となった、ジャンジャック・ルソー『社会契約論』( Du Contrat social, 1762)の兆民による漢文訳『民約 訳解』(一八八二~一八八三)であり、二つは、三人の男が酒を飲みながら政治議論に熱中する本書、『 三酔人経綸問答』(一八八七)である。そして三つは、 癌 によって余命一年半を宣告されて書きはじめられた「 生前 の 遺稿」『一年 有半』(一九〇一)。これらの著作は、兆民の人と思想──その統一性と多面性──をよく示すだろう。
難解をもって鳴るルソーの『社会契約論』と数年にわたって対話し、翻訳するという知的な格闘を通じて、兆民は自らの思想の骨格をつくりあげた。政治思想家・中江兆民の誕生である。兆民の基本的な考え方の多くは『民約訳解』に由来するといっていいだろう。
一方、『一年有半』が示すのは、兆民の文人・哲学者としての側面である。その内容は 多岐 にわたり、自らの病の描写あり、同時代人への寸評あり、芸術談あり、また 殊に日本および日本人への痛烈で根本的な批判がある。その批判の中心には、日本人の「いま・ここ」を重視する世界観──現世に超越的・彼岸 的な価値観でなく、 此岸 的なそれ──の意識化があって、それに関連して日本人に欠けているのは「考える」ことと指摘して、その必要性を強調していた。兆民のことばとして、おそらく最もよく知られたものの一つ、「わが日本 古 より今に至るまで哲学なし」もこの書にみえる。
翻訳者・教育者・仏学者・漢学者・政治思想家・新聞人・文人・哲学者などといった、兆民のほとんどすべての側面を示すだろう。『三酔人─』執筆に至るまでの兆民の知識・経験・思考を集大成し総動員しながら、自分の置かれた日本国の状況──対内的には「自由民権」の伸張、対外的には日本国の独立維持──を、自分のことばで分析し、あるべき方向性を提示して見せた書物、それが『三酔人─』である。
兆民には『三酔人─』のほかにも問答体の文章がある。「国会問答」(一八八一年『東洋自由新聞』)、先にみた「論外交(外交を論ず)」(一八八二年『自由新聞』)、「国会論」(一八八八年『東雲新聞』)、「選挙人目ざまし」(一八九〇年)。兆民には対話的な論の進め方を好む傾向があるようだ。
先述のとおり、洋学紳士と豪傑は、 結論は正反対 であるが、どちらも一方の極端まで行くという意味では、 考え方は同じ(極左と極右は相通ず)。両者ともに自らの考え方を「急進的」に実行に移すことを主張し、両者を批判する南海先生は民主化に向けてできることから「漸進的」に実行することを主張する。