自分が今なぜこういう生き方にたどり着いたのかを解説してくれるような本だった。
本書は、「暇と退屈」とはなんなのか、「暇と退屈」とどのように付き合えばよいのか、つまり人間はどのように生きていけばよいのかについて考えるものである。
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結論として、著者は2つの論を提示している。
一つは、人間らしい生き方とは、ハイデガーが定義した「退屈の第二形式」のように退屈から逃れようとするのではなく、退屈の中にいながらも多少の楽しさを味わい生きることであって、
それを洗練させていくためには「消費」ではなく「浪費・贅沢」がヒントになるということ。
消費とは物ではなく物を通して観念を味わうということであり、終わりがない。
浪費とはそのもの自体を味わうということである。
現代は消費の誘惑にあふれている。例えば、僕の好きな漫画や映画も「みんな読んでる/人気No.1」の文字で飾られている。それはもともとは「それだけ面白い」というアピールだったのかもしれないが、今やそれ自体が「みんな読んでるのみ読まないの?」「人気No.1なのに知らないの?」という煽りとして本質になってしまっている気がする。
消費にからめとられずに、浪費を楽しむためには、物を味わう技術や知識が必要であるという。
漫画や映画の本当の楽しさや味わい深さを知っている人は、「みんな読んでるかどうか」に惑わされることは少ないだろう。もし惑わされたとしても、それが本当に価値あるものなのかどうかを、少なくとも知識と技術がない人よりも客観的に判断できると思われる。
つまり、文化や芸術などを楽しみ、そのために学ぶことこそ、暇と退屈との付き合い方であると語っている。
(これだけ書くと非常にありふれた論に行きついたように思ってしまうが、理解が足りないことと語る言葉が足りない自分の責任で、もっと胸に来る何かがあったんだ)
「満足したいのに、満足をもとめて消費すればするほど、満足が遠のく。そこに退屈が現れる。
これこそが現代の消費社会によって引き起こされる退屈の姿であり、本書ではこれを疎外と呼んだ。
いかにしてこの状態を脱したらよいだろうか?消費行動においては人は物を受け取らない。
だから消費が延々と続く。ならば、物を受け取れるようになるしかない。
物を受け取ること、それこそが贅沢への道を開く。」
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また、増補版に寄せたあとがきの注釈には、ある人曰く、依存症に陥った人の回復方法こそ「第二形式の退屈」になじんでいくことであると書かれていた。
依存症に陥る人は第一形式の退屈と第三形式の退屈のサーキットを生きている(仕事と空虚の繰り返しの中に生きていて、空虚からポルノやスマホ依存で逃避していた自分はまさにそうだった)ので、「第二形式の退屈」の「ボチボチ楽しいし、ボチボチ退屈である人生」に馴染んでいく必要があるということらしい。
これは目から鱗だった。やっぱり自分の人生の困難を乗り越えるためには、何かに追い立てられることなく、ただただその時間やその一つの本や品目に向き合う読書や料理が必要だったんだと気付くことができた。
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次の理論では、そうはいっても心の奥底から響いてくる「退屈だ」という声についても言及している。
それは人間ならどうしようもない本能の声であり、その遊びや楽しみでは到底逃れられない強い声から逃れるために、人は動物のように何かにとらわれることを目指すともいう。
それ自体は仕方のないことであり、自然なことであると語るが、それが「決断」から生まれるものであってはならないという。
「決断する」ことはほかの何ものをも排除すると決めることであるから、奴隷になるのも同じことであるという。
個人的には、あまりピンとこなかった。
たしかに、例えば人生を仕事に捧げると決断して起業する人は、仕事以外に対して心が閉ざされがちであり、人生を100%仕事で埋めることは物理的に出来ない以上、結局退屈を訴える声に包まれてしまうという意味であるなら理解はできる。
ただ、その人にとってはそれが僕たちの読書や映画鑑賞や食事であり、「時間の浪費」のようなものなのかもしれないと思ったりもする。
同時に、ほとんどの仕事人(ワーカホリックたち)は「楽しさ」の先に仕事に打ち込む人生を見出したというより、空虚な人生を埋める手段として「仕事」を選択している印象があるし、その先に幸せがなさそうである感覚は何となく理解できるけれど。
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増補版に寄せたあとがきとして、「傷と運命」という文章が添えられている。
難解な内容も含まれているので、すべてが理解できたわけではないが、ザックリ解説すると次のような内容だった。
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・そもそも退屈とはなぜ発生するのか
・人間は考えることを避ける生き物である。
毎日町の中に新しい物を見つけて驚いていては心が持たないように、心を守るために様々なことに慣れて記号化することで慣れ/習慣を形作っていく
・生きるために行う「興奮を排除する営み」によって事件のなさ、興奮のなさ=「退屈」が生み出しされてしまうのはなぜなのか
・「退屈」とは「痛みの記憶」を思い出すことなのではないか
・様々な刺激の中を生きてきて、様々な傷を負うのが人間であるが、それらもほとんどが習慣の中で癒されていくものであるが、一部の傷は癒されずに記憶の中にとどまっている。
・刺激という「傷」から逃れるために生み出した「退屈」が、過去の「傷」を掘り起こしてしまうのではないか。
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とてもハッとさせられた。「傷」とはいわゆる嫌な記憶だけではなく、自分が消化しきれていない思い出や考え事のようなものも含むと思うのだけれど、それがせりあがってくるから退屈の苦しさを感じるのかもしれないと気付いた。
他にもいろいろと気づきを得ることができたけれど、まだまだ理解できていないところだらけだし、忘れてしまっているところも多々あると思うので、國分先生の他の本とともに「暇と退屈の倫理学」を一生をかけて味わっていきたいと思う。
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心に残った部分
・退屈の反対は楽しさではなく、興奮である
・「幸いなるかな、快楽を求めることのできる人。彼らは事件をもとめることがないだろう。」
・「仮に『ガレージの職工になった医者の息子』がそういうこぼれ落ちた人間なのだとしても、彼はいかなる劣等感も感じる必要などない。当たり前だ。」
・第一形式のような退屈を感じている人は『時間を無駄にしたくない』という強迫観念にとらわれているのである。仕事に対して真面目なように見えるが、それは大いなる『俗物性』への転落ですらある。
・『第二形式においては心の底から楽しいわけではない。たしかにぼんやりと退屈してはいる。だが、楽しいこともある。そこにもハイデッガーの言う「自己喪失」はあるのかもしれない。だが大切なのは、第二形式では自分に向き合う余裕があるということだ。』
P.S. (こっちでは漫画しか載せてなかったけど、読書アプリの『ビブリア』と共に本の感想も載せていくことにする)