ただ今、富安陽子さんの作品を読み続けて、不思議な物語の魅力を知りたい期間中です。
「盆まねき」とは、『八月のお盆の三日間にみんなでご先祖さまの供養をする行事』のことで、既にご存知の方にとっては、あまり得るものは無いと思われるかもしれないが、本書に関しては富安さん自身の実話が重なることによって、改めてお盆について考えてみようという気持ちにさせてくれるのではないかと思った、本書は『野間児童文芸賞』受賞作品である(2011年)。
毎年、主人公「なっちゃん」(小三)の家族は、母の父にあたる「ヒデじいちゃん」の家で盆まねきをするのが通例となっており、これまでは帰省ならではのイベントや遊びを楽しみとしていたなっちゃんであったが、この年ばかりは三日間を通して特別な体験をすることとなり、そこには物語の持つ力が連鎖することによって起きた奇跡とも思えるような出来事があったことに、私は大きな感動を覚え、それは素朴でほのぼのとした中に滲みを帯びた美しさもある、高橋和枝さんの絵の存在がまた大きいのだと思う。
盆まねきの進行と共に、不思議で面白い話をなっちゃんに話すのが祖父母や曾祖父母世代の方々であることには、その話の場面だけ文字のフォントが変わることや、語り口が当時の年代の口調になることで、より臨場感が増したこともあり、物語が語り継がれていく素晴らしさを実感したのだが、なっちゃんにとっては「ほんとのわけないよ。うそっこのお話だよね?」という心境を抱いていて、それは本書で「ナメクジナメタロウ」の話をしたヒデじいちゃんが、『ホラふき山のおじいちゃん』と呼ばれていることからも明らかなように思われた。
しかし、そこには不思議な物語で読み手を楽しませたいという、富安さん自身の思いの丈が潜まれているようにも感じられたのだ。
『うそと、ホラは、すこうしちがう。
人をだますのが、うそ。
人をたのしますのが、ホラ。
ほんとでもいい。ほんとじゃなくてもいい。たのしかったら大成功。
それがホラなんだよ。』
そして、そんな不思議な話の魅力と共に本書で教えてくれたのが、盆まねきを通して強く実感した『人の存在とは?』なのだと思い、それは見える見えないといったものを超越した神秘的なものであることが、富安さんの物語に近づいた印象も抱かせるのだが、本書の場合、世界中で起こっている決して消えることの無い思いが投影されているだけに、シリアスな読後感となり、それは富安さん自身の家族の物語であるからと共に、世界中で同じような思いを抱えた家族の物語でもあるからだと感じたことによって、盆まねきという行事にのせていたのが、人が人を忘れない思いだったことを実感したからである。