堀辰雄のレビュー一覧
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同名のアニメですっかり有名になってしまった『風立ちぬ』でなく、「かげろうの日記」とその続篇「ほととぎす」を採ったのは、大胆な新訳が売りの日本文学全集という編者の意図するところだろう。解説で全集を編む方針を丸谷才一の提唱するモダニズムの原理に負うていることを明かしている。丸谷のいうモダニズム文学とは、
1 伝統を重視しながらも
2 大胆な実験を試み
3 都会的でしゃれている
ということだが、堀辰雄の「かげろうの日記」は、「蜻蛉日記」の現代語訳ではなく歴とした小説である。言葉遣いこそ王朝物語にふさわしい雅やかな雅文体をなぞっているが、主人公の女性心理はまぎれもなく近代人のそれであり、自意識が強く、内向的で、引っ込み思案なところのある女のエゴが一人称の語りの中にまるごと投げ出されている。色好みの貴公子に愛されながら、相手の不人情な仕打ちにプライドを傷つけられ、すねてみたり、逃げ出してみたりせずにはいられない女心が十二単を着せられ、堀辰雄好みのもの寂びた曠野の風景の中にたたずんでいる。まさに、丸谷流のモダニズム文学ではないか。
「深淵」「世界の終り」「廃市」の三篇のなかでは、やはり「廃市」をとりたい。いかにも福永武彦らしい、透明な叙情性に溢れた佳篇である。白秋の故郷、筑後柳川を思わせる掘割に区切られた水都は、水によって外部と切り離されることで、他の町とだけでなく、時の流れからも切り離され、端唄、小唄、義太夫といった芸ごとに堪能な町の名士たちによっていまだに華やかなりし頃の名残りをとどめている。水路を行く船に舞台を組み、囃子方を乗せ、歌舞伎の一場面を演じてみせる祭りの場面など、ヴェネツィアのカルナバルの夢幻的な宴を髣髴させる。
眠りの中に閉じ込められたような街に主人公はすっかり魅了されてしまうが、時空から隔絶した人工的な水上都市は、周囲の都市ではすっかり失われてしまった文化にどっぷり浸かっていることを羞じも嘆きもしない点で頽廃のきわみにあるのかもしれない。仮寓先の旧家の当主とその妻、妻の妹の間にある公然の秘密が、無邪気な仮寓者の振舞いによって明らかにされてゆく。互いを思いやる愛情が、かえってことをややこしくし、もつれあった愛情は悲劇的な結末を迎えることに。ヨーロッパ世紀末的な頽廃を日本の地方都市に移植し、ウォーター・ヒヤシンスのごとき儚げな花を咲かせた「廃市」は、私小説好きな日本の土壌の中では稀な西欧的なロマネスクと成り果せている。
中村真一郎からは「雲のゆき来」一篇だが、これがすごい。江戸時代の名僧で漢詩や和歌に秀でた元政上人に始まる該博な知識を披瀝した随筆風の小説は、友人からかかってきた一本の電話で様相が一変する。友人が引き合わせたのは、ドイツ系ユダヤ人の父と中国人の母を持つ新進女優の楊嬢だった。母を捨てた父を憎む女優は、「舞踏会の手帖」よろしく父の愛した五人の女性に会うために京都を訪れる。止むを得ず同道することになった「私」は、ドン・ジュアニスムを嫌悪する女優と行く先々で議論する羽目になる。リルケやフロイトを引き合いに出し、父を憎む心理の虚妄を突く「私」の前に遂に女優は号泣する。ヨーロッパでの再会を期して分かれた二人だったが、待っていたのは女優から「私」にあてた手紙だった。
博引傍証とペダントリーに満ち満ちた衒学的小説とも見える「雲のゆき来」だが、作家に言わせれば、こんなものはペダントリーの裡には入らない、と馬鹿にされるのがオチだろう。まず、元政と彼が影響を受けた詩人の漢詩が白文で何篇も引用されるので、漢詩漢文の素養がなければ端から相手にされない。そこへ持ってきて、文学から文学を作るブッキッシュな作家を認めようせず、作家の個人的体験の露骨な告白とやらを後生大事に下僕的リアリズムを信奉する批評家たちに対する鬱憤が炸裂する。私小説に慣れた日本の文壇から見たら、なんという形式的な小説作法か、と呆れられるような作為的な構造を持つ小説。おまけに、作者を思わせる男と若い女が、ひとつベッドに腰をかけ酒を飲みながら、恋に落ちたり、寝たりすることなく、リルケの女性遍歴と元政の遊女との恋愛事情を女優の父の女出入りの多さに絡めて論じ、男と女の愛について延々と夜を徹して語り合わせるなど、読み手の下意識を徹底的に愚弄してみせる。
分かり合うことの難しい人間関係のなかで、どのように相手を理解し、関係を構築してゆくか、というのが主題だとすれば、それを語るのになんという手間の掛け方よ、と嘆じたくなるが、その手間隙をかけるところにこそ、文学や芸術の持つ面白みがある、というのが作家の信じていることなのであって、豪徳寺の桜見物にはじまり、京都は深草詣で、果てはヴェネツィア映画祭に至るまで足を運ばせるのもそこにこそ分かり合える者同士の愉しみがあるからなのだ。言い換えるなら、こんなまわりくどい小悦は御免だという読者には無縁の小説である。そういう意味で、新しく編まれた日本文学全集の前途を占う試金石のような巻といえる。評者のように懐かしい思いで読む読者は別として、日本文学ってこんなに面白かったのかと目を輝かせる新しい読者が得られるように偏に願うものである。 -
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ジブリ映画『風立ちぬ』公開記念読書第二弾。表題作の「風立ちぬ」を始め、「美しい村」など五編が収録されている。
「美しい村」(1933)
初夏の軽井沢に滞在した主人公の体験が綴られる。四部構成で、それぞれ順番に発表されている。作者の実体験を元にして順次書かれているので、作者の予想しなかった方向に話が進んでいった。前半では、まだ人気の少ない軽井沢の自然が丁寧に描写されている。日本の高原地帯の自然描写の美しさでは右に出る者がいない堀辰雄の才能が存分に発揮されているが、全体的に憂鬱な空気に包まれている。後半では、絵描きの少女と偶然知り合いになり、俄かに雰囲気が明るくなり始める。この少女こそ、後の「風立ちぬ」の節子のモデルになった人物。つまり、この作品は「風立ちぬ」の前日譚と言える。かの作品誕生の裏に、このような流れがあったとは何とも不思議だ。
「麦藁帽子」(1932)
作者の若かりし頃の初恋の思い出がモデルになったと思われる話。十五歳の夏休み、海辺に逗留している友人家に遊びに行った主人公が、幼馴染の少女を意識し始める。物語の最後の関東大震災で被災したシーンが印象的であるが、本書収録の他の作品では震災について触れられていないところからすると、映画の『風立ちぬ』でフィーチャーされる関東大震災のシーンは本作がモデルの可能性がある。この話、中学の頃に文章題の問題で読んだことがあることを、読んでいる途中に唐突に思い出した。
「旅の絵」(1933)
神戸を訪れ、古ぼけた外国風のホテルに滞在した主人公の短い旅行記。港町である故に、昭和の時代から多くの外国人が居住していた神戸は、異国を旅しているかのような錯覚を主人公に起こさせる。この不思議な雰囲気を主人公と共に味わいたい。どうでもいい感想だが、同じ港町である神戸と横浜は地名も結構被っていると思った。山手、元町、外国人墓地などなど。
「鳥料理」(1934)
主人公が自分の見ていた夢を思い出し、詩のように写生する。上述した「旅の絵」の内容も少し関わってくる。本書の作品の中でも一風変わった、エドガー・アラン・ポーのような幻想的な描写が特徴的。少女を葡萄酒にするって、どんな深層心理が作用してるんだろう。
「風立ちぬ」(1936)
(レビュー途中) -
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堀辰雄文学忌、辰雄忌
1938年
十七歳の少年は、寄宿舎生活の中で、薔薇色の頬をもつ美しい同室者と出会う。
友情と憧憬はやがて境界をもち、少年はその限界に触れる。
儚さと切なさを、少年のような文体で、文学へと昇華。
堀自身、旧制第一高等学校の寄宿舎で青春を過ごし、自ら、あるいは友人の経験や感情を深く作品に映し込んだのではないでしょうか。
主人公は、脊椎カリエスを病む美少年に心を寄せながらも、次第に女性への関心へと移っていく。
「友情から愛への通過儀礼」が描かれ、やがて『風立ちぬ』へと続く成熟の愛へと。
イラストを手がける粟木こぼねさんは、「物語の一瞬を切り取る」絵を描く人だという。
けれど『燃ゆる頬』の世界では、絵の中に物語が宿るかのように。
紙の上に描かれた光と影が繊細に息づき、
少年たちの胸の鼓動が、聞こえるかのよう。
淡い頬の紅、少し俯いたまなざし、触れそうで触れない距離。
それは友情とも恋とも名づけがたく、
BLの入り口としての妄想へと繋がる。
…のは個人的感想。 -
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ネタバレ「子供たちは鼠のように遊んだ」という冒頭のフレーズが淫靡で、即惹かれた。
始終薄暗いイラストが、その妖しさを常に漂わせている。暗がりで男の子たちが禁じられた遊びを繰り広げていく様は、彫刻の女性像の出現によって、更に罪悪感を増してゆく。
亡くなった母親への寂しさを慰めるために、仲間に嘘をついてまで隠れ家を独り占めしようとする悲しさも、何だか理解できる。
艶めかしい壊れた彫刻が、母親の面影と重なり、接吻をしてしまうのは、どこか近親相姦めいたものがあって、ドキドキさせられた。
堀辰雄という作家は初めて知ったが、妖艶な世界観が醸し出されていて気に入った。他の作品もチェックしてみたい。 -
Posted by ブクログ
初めての堀辰雄。
少し読んでみて、なんだか翻訳本を読んでいるかのような印象を受ける。
少し検索するとフランス文学との融合という文言を見付け、納得。
作中にも、フランスの文学作品の名が幾つも登場する。
本作の一文が長いのが気になったが、慣れてくれば、風景描写がとても美しい。
美しいと思った箇所に付箋紙を立てていたらキリがなくなった程。
小説というよりも、長い詩を読んでいるかのような印象を受けた。
『美しい村』
冒頭に"ファウスト第二部"が引用されていたり、作中では感動を交響曲に例えていたり、読んでいると音楽が流れだす作品だ。
本編前も序章ではなく"序曲"であるし、背表紙にもある通り"音楽的に構成されている"。
ここはK村(軽井沢村)。
傷心の主人公(私)は、過去の恋愛事件を小説にしようとK村へやって来る。
けれども初夏のK村の心地好さに、自分は何故あんなにも苦しんでいたのだろうとさえ思えてくる。
そこで1人の少女に心惹かれるのだが、彼女との初めての出会いのシーンも美しい。
主人公は、
「一輪の向日葵が咲きでもしたかのように、何だか思いがけないようなものが、まぶしいほど、日にきらきらとかがやき出したように思えた」
「やっと其処に、黄いろい麦藁帽子をかぶった、背の高い、痩せすぎな、一人の少女が立っているのだということを認めることが出来た」
そして、
「私の知らぬ間に、そこいら一面には、夏らしい匂いが漂い出しているのだった」
と、夏の訪れを知る。
少女への恋心と、軽井沢の美しい自然から、いつしか主人公の過去の恋愛の痛みも癒えてゆく。
さて、印象的に幾度も出てくるサナトリウム。
次の『風立ちぬ』では富士見高原療養所繋が中心的な舞台となる。
『風立ちぬ』
ジブリの「風立ちぬ」は映画館で観たが、本書はその題材となったもの。
「風立ちぬ、いざ生きめやも」は、フランスの詩人ポール・ヴァレリーの詩から引用されている。
"生きめやも"は、"生きなければならぬ"。
美しくて繊細なストーリーだった。
「こういう山のサナトリウムの生活などは、普通の人々がもう行き止まりだと信じているところから始まっているような、特殊な人間性をおのずから帯びてくるものだ」
との一文が印象深かった。
この物語は、その、人々が行き止まりだと信じている先の物語だ。
結核を患っている節子はその命の短さを予感しているが、その純粋で一途な様は儚くも美しい。
主人公(私)は節子に寄り添い、共にサナトリウムで過ごす。
そんな二人は、死を意識すればこそ、替えがたい愛しい日々を重ねてゆく。
「……その少し早い呼吸、私の手をとっているそのしなやかな手、その微笑、それからまたときどき取り交わす平凡な会話、ーーそう云ったものを若し取り除いてしまうとしたら、あとには何も残らないような単一な日々だけれどもーー我々の人生なんぞというものは要素的には実はこれだけなのだ」
健康な私自身の胸にも響く言葉だった。
さらに、こう続く。
「そして、こんなささやかなものだけで私達がこれほどまで満足していられるのは、ただ私がそれをこの女と共にしているからなのだ、と云うことを私は確信していた」
ささやかな日常こそが幸福だと確信できるのは、そこに本当の愛が存在するからだ。
節子が弱っていく様は痛々しいけれど、堀辰雄は美しく昇華しているように感じた。
それでも普段は"彼女"と書かれる"私目線の節子"が、"病人"という三人称で書かれる部分が出てきて、読者である私も、節子の死が近いことを意識する。
節子の隣に居る主人公の複雑な思いが、丁寧に、幾度も表現を変えて描かれる。
二人きりで高原で過ごせる幸せのひととき。
けれどその暮らしは、節子の病がもたらした限りあるひとときであり、先に待っているのは節子の死。
「私達のいくぶん死の味のする生の幸福は……」
「私は彼女と心臓の鼓動さえ共にした」
「……こうして病人と共に愉しむように味わっている生の快楽」
「おれ達がこうしてお互いに与えあっているこの幸福」
「あのときの幸福に似た、しかしもっともっと胸のしめつけられるような見知らない感動」
まだまだ沢山の思いが、作中に溢れている。
その後、主人公は1人K村を訪れ、節子との思い出に浸る。
外国人らに"幸福の谷"と呼ばれているらしき場所も、彼には"死のかげの谷"と言った方が似合いそうだと思える。
けれど冬という季節が見せる景色、節子との思い出、ドイツ人の神父からの言葉などから、
彼の心に変化が現れる。
節子の思い出が寄り添ってくるのを待っていた彼が、
リルケのレクイエムを口ずさむ。
「帰っていらっしゃるな。そうしてもしお前に我慢できたら、
死者達の間に死んでお出。死者にもたんと仕事はある。
けれども私に助力はしておくれ、お前の気を散らさない程度で、
屢々遠くのものが私に助力をしてくれるようにーー私の裡で。」
きっと彼が彼女の亡霊を手放し死を受け止め、此岸と彼岸にラインを引いた瞬間だ。
"風立ちぬ、いざ生きめやも"。