シェイクスピアといえば、泣く子も黙る世界最高峰の文学者の一人だが、「リア王」はその中でも四大悲劇の一つとして名高い。残りの三つはいうまでもなく、「ハムレット」「オセロウ」「マクベス」だ。
「リア王」は4大悲劇の最後を飾る作品で、黒澤明監督の「乱」では、日本の戦国時代を舞台に映画化された。
ストー
...続きを読むリーは単純といえば単純だけれども、実際読んでみるとかなり複雑。シェイクスピアの作品はいずれも有名だからあらすじはなんとなく知っているような気がするけれども、いざ読んでみるとかなり込み入っていて波瀾万丈で、それがまたおもしろい。
この光文社古典新訳文庫の目的は、古典を現代の言葉で翻訳し直そうというものだから、「リア王」の翻訳も、もちろん読みやすい。読みやすすぎて、せっかくの「リア王」なんだからもうすこし格調高く、凝った文章でもいいんじゃないだろうかと言いたくなるぐらい読みやすい。原作のシェイスピアがもともと面白いんだから、そんなに読みやすかったら読み始めた途端、途中で止まらなくなるのはいうまでもない。
だが正直なところ、個人的な趣味でいえば、この安西訳よりも、最初に読んだ福田恒存訳の方が好みだ。当時はまだ、文章が難しすぎて内容をよく理解できていなかったかもしれないが。
両者の訳がどれだけ違うかというと、
(安西訳)
必要? 必要だと? ええい、必要など持ち出すな! どんなに卑しい乞食であろうと、いかに下らぬ者であっても、必要以上の物は必ず身につけておる。人間から必要以外の物をことごとく奪ってみろ、人間の命は獣同然。
(二幕四場)
(福田訳)
おお、必要を言うな! 如何に賤しい乞食でも、その取るに足らぬ持物の中に、何か余計な物を持っている。
自然が必要とする以外の物を禁じてみるがよい、人間の暮しは畜生同然のみじめなものとなろう。
うむ。あまり違わないような、違っているような。
ついでに、岩波文庫に収められている斎籐勇訳。
(斎籐勇訳)
おい、要不要の議論はいらん。極度に窮している乞食ですら、
極端につまらない物ながら何か余計な物を有っている。
人間が本来必要とする以上は授けられないとすれば、
人の一生がつまらないことは鳥獣と同然だ。
三つを較べてみると、個人的な印象としては、スピード感があるけれどもやや平易に流れすぎる安西訳、格調があってスピード感もある福田訳(でも漢字が多すぎ)、真面目に訳している風だけどおもしろみのない斎籐訳、というところかな。これだけで判断するのは大胆すぎるが。
こう見てくると、シェイクピアの原文はどうなっているか知りたくなる。
原文は、
O, reason not the need! Our basest beggars
Are in the poorest thing superfluous.
Allow not nature more than nature needs -
Man's life is cheap as beast's.
うむ。これは歯が立たない。上の飜訳あるから、かろうじて意味がとれるけれども。
ただ、斎籐訳は、原作の行にあわせて訳そうとしたものであることがわかる。そういうことをしてはたして意味があるかどうかはわからないけれども。(原書を勉強する学生には便利かも)
なかなかおもしろいので、もう少し比較を続ける。
上はリア王のセリフだったが、次はケントの言葉。
(安西訳)
悲惨のうちにあらざれば、奇蹟にあうこともあらずという。
(二幕二場)
(福田訳)
奇蹟に出遭うは窮しし者のみ。
(斎籐訳)
禍いを蒙らずには
奇蹟を見ることがまあない。
(Shakespeare)
Nothing almost sees miracles
But misery.
(先生! シェイクス君の英語は意味分かんないんですけど! 校長先生はシェイクス君はスゴイっていってますけど、ホントですかあ)
最後はエドガーのセリフ。
(安西訳)
忍耐を忘れたのかい? この世に来るのも引っ込むのも、人間の勝手にゃならぬ。時の熟すのを待つしかないんだ。
(五幕二場)
(福田訳)
人間、忍耐が肝腎、己れの都合でこの世を去る訳には行かない、こいつは出て来た時と同じ理窟さ、万事、木の実の熟して落ちるが如し。
(斎籐訳)
人間はこの世に出て来るのと同様、
世を去る時を辛抱して待っていなければなりません。
機の熟することが何よりもです。
(Shakespeare)
Men must endure
Their going hence even as their coming hither;
Ripeness is all.
シェイクスピアの原作は、散文ではなくて、韻文だった。通常の文章とは違うので、われわれには分かりにくい。
ただ、普通の英米人にとっても、わかりにくいのは同じではないかと思うのだが、どうだろうか。
学校でわれわれは古文とか漢文とか習うけれども、彼らの場合も、そういう勉強を通じて、古典作品が読めるようになっているのではないだろうか。
ということは、ひょっとしたら、われわれが学校でいくら習っても枕草子や源氏物語を個人的に読もうという気になれないのと同じで、一部の愛好者を除いては、シェイクスピアを実際読んでいる人は少ないのかもしれない。いくら日本の代表的文化だといっても、歌舞伎を実際見た日本人が少ないのと同様、シェイクスピアの劇も、むこうの人にはあまりなじみのないものかもしれない。
ただし英語の場合は、日本語に較べると、年数の経過による単語の綴りや意味の変化が少ないようなので、日本人が自国の古典に接するときよりも、まだ近づきやすいのかもしれないが。
シェイクスピアの作品は、残酷なときは非常に残酷で、五六年前にアンソニー・ホプキンス主演で公開された「タイタス」は、現代のホラー映画も仰天というぐらい恐怖と暴力に満ちた作品だった。
そんな彼の悲劇だから、人が死ぬこと死ぬこと。
こんな人間まで死んでしまうのかというぐらい登場人物が死んでしまう。タランティーノ監督も真っ青だ。これほど人を殺してしまうんだから、作品が悲劇と呼ばれてしまうのも当然だろう。死に方の安易なところは、ほとんど喜劇としか思えないところもあるが。だから、昔の映画やドラマなんかでもよく、登場人物が最後にばたばた死んでしまって、そんな御都合主義はないだろうと思うことがあるが、あれは作り手の想像力の欠如とか、番組を時間内で終わらせるための手抜きとかではなく、シェイクスピア以来の伝統ある作劇方法らしいのだ。
ただ違うところは、シェイクスピアの場合は、そこに至るまでの内容が非常に濃すぎて、それぞれの登場人物が担っている重荷の重さで、最後には物語世界そのものが吹き飛んでしまう、それが登場人物達の死となって結末するというところで、それでこそようやく観客は、この濃密な世界から解放されて、劇場の席を立って家路につける。そうでもしない限りかれの作品世界は観客の精神を縛って閉じこめたままにしてしまう、それほど強力で魅力的な世界なのだということだろう。