あらすじ
とつぜん引退を宣言したリア王は、誰が王位継承にふさわしいか、娘たちの愛情をテストする。しかし結果はすべて、王の希望を打ち砕くものだった。最愛の三女コーディリアにまで裏切られたと思い込んだ王は、疑心暗鬼の果てに、心を深く病み、荒野をさまよう姿となる。戯曲を読む楽しみを追求しつつ、原作の気品と格調、ユーモア、激しい罵詈雑言などが忠実に再現された《安西シェークスピア》の第1弾。
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ここまで悲劇的な終幕が許されて良いものかと衝撃を覚えてしまった……
別に何もかもが運命の悪戯や悪魔的な采配による不幸ではない。それぞれに少しずつ罪が有ったり落ち度が有ったりする。しかし、だからといって罪を悔い改めて己を見つめ直せたかもしれない者や、心優しき者まで犠牲になる終幕は容赦が無さすぎて唖然とさせられる
歴史的には本作が上演される際にはハッピーエンドに改作されたものがお決まりだったらしいけど、それが頷けるくらいに本作からは救いや幸福感は容易には感じ取れない
では、何を本作は訴えてくるかといえば、人間は地獄と紙一重の世界で生きているのだと、それでもより良い人生を得る為に最良の未来へ手を伸ばす事を諦めてはならないのだという点かもしれない
まず、冒頭からして衝撃的
物語が始まってすぐにリア王が娘達へ領地の分割を行うのだけれど、その際におべっかを口にするゴネリルやリーガンに良い顔をして、偽りのない言葉を口下手ながら発したコーディリアを勘当してしまうという衝撃
道徳的な作品であれば、偽りを口にした長女・次女にいずれ天罰が下り、真実を口にしたコーディリアに幸福が訪れるものだろうけど、本作では三者等しく不遇の死を遂げる。それどころか、真実を見抜けなかったリア王とて長女・次女から放逐され非業の死へと突き進む事になるのだから理解を超えている
面白く映ったのはリア王や三姉妹に対する作中人物に対する評価かな
心にも無い偽りを口にしてリア王の好感を勝ち取ったゴネリルとリーガンだけれど、彼女らとて同様に心にも無い偽りを口にするエドマンドによって財力や権威を狙われている。そして、その果ては⋯
と、こちらについては判りやすい構図をしている。この者らに関する構成は最早道徳的と言ってすら良い。そのせいか、作中でも彼女らの死について冷淡な反応が取られているほど
対して、リア王に対する作中評価の変遷は本当に面白い
冒頭の引退宣言やコーディリアに纏わる言動はケントなどから猛批判され、娘達の館に逗留した際の横暴さなど真っ当に非難されている。これらの展開はリア王が道徳的に考えれば討ち果たされるべき悪と見る事が出来る
だというのに、娘に裏切られたリア王が荒野を彷徨う段になって評価は一変するね。実父に対してあのような非道を行うべきではないとか、忠臣としてお助けせねばとか
裏切れたショックにより狂気へと陥る老王の姿は確かに哀れに映る。此処まで来ると己の行いにより罰を受けていると感じ取る事すら難しい
そして、リア王への評価がそのように落ち着いてしまったからこそ、彼へ偽りのない愛情を向けていたコーディリアとの再会は希望溢れたものと感じられ、その分だけ二人に訪れた非業の死に対する衝撃が計り知れないものとなる
救われて欲しい者が救われず、報われて欲しい者が報われない。鑑賞者や読者の期待を裏切り残酷な結末へとひた走る本作の展開を納得できるものと感じる事は難しい
けれど、これによって本作を唾棄すべきもの、または認められるべきではない作品とも捉えられないのも事実。何故なら本作は真摯に絶望へと突き進んでいたのであって、読者の予想を裏切るべく衝撃的な結末を突如用意した訳では無いだろうから
本作は実社会に存在する地獄を真っ当に写し取ったのであって、作品そのものが誰かを裏切ってなど居ないとも言える。現実でも人が容易に陥る地獄を作中に用意し、罪の有る者も無い者も等しく地獄へと落ちてしまったというだけ
ただし、登場人物残らず地獄行きに成ったら、本作を見ても何の感慨も得られない。それ故に用意されているのが生き残った三人の共通項。忠心を持つ三人が生き残った者の責務として、また若い衆として何をなさねばならないのか
悲惨な物語であるからこそ、狂気とは全く異なる感情がラストに残された事に想いを馳せてしまう、そんな受け止め方の難しい名作でした
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冒頭から忠臣の命をもかけた直言に心揺さぶられる。
シェイクスピア四大悲劇の「リア王」
深い悲しみが全編を通して時折胸を突く。
その度に読書が止まる。
時代を経て生き残ったまさに素晴らしい作品。
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シェイクスピアといえば、泣く子も黙る世界最高峰の文学者の一人だが、「リア王」はその中でも四大悲劇の一つとして名高い。残りの三つはいうまでもなく、「ハムレット」「オセロウ」「マクベス」だ。
「リア王」は4大悲劇の最後を飾る作品で、黒澤明監督の「乱」では、日本の戦国時代を舞台に映画化された。
ストーリーは単純といえば単純だけれども、実際読んでみるとかなり複雑。シェイクスピアの作品はいずれも有名だからあらすじはなんとなく知っているような気がするけれども、いざ読んでみるとかなり込み入っていて波瀾万丈で、それがまたおもしろい。
この光文社古典新訳文庫の目的は、古典を現代の言葉で翻訳し直そうというものだから、「リア王」の翻訳も、もちろん読みやすい。読みやすすぎて、せっかくの「リア王」なんだからもうすこし格調高く、凝った文章でもいいんじゃないだろうかと言いたくなるぐらい読みやすい。原作のシェイスピアがもともと面白いんだから、そんなに読みやすかったら読み始めた途端、途中で止まらなくなるのはいうまでもない。
だが正直なところ、個人的な趣味でいえば、この安西訳よりも、最初に読んだ福田恒存訳の方が好みだ。当時はまだ、文章が難しすぎて内容をよく理解できていなかったかもしれないが。
両者の訳がどれだけ違うかというと、
(安西訳)
必要? 必要だと? ええい、必要など持ち出すな! どんなに卑しい乞食であろうと、いかに下らぬ者であっても、必要以上の物は必ず身につけておる。人間から必要以外の物をことごとく奪ってみろ、人間の命は獣同然。
(二幕四場)
(福田訳)
おお、必要を言うな! 如何に賤しい乞食でも、その取るに足らぬ持物の中に、何か余計な物を持っている。
自然が必要とする以外の物を禁じてみるがよい、人間の暮しは畜生同然のみじめなものとなろう。
うむ。あまり違わないような、違っているような。
ついでに、岩波文庫に収められている斎籐勇訳。
(斎籐勇訳)
おい、要不要の議論はいらん。極度に窮している乞食ですら、
極端につまらない物ながら何か余計な物を有っている。
人間が本来必要とする以上は授けられないとすれば、
人の一生がつまらないことは鳥獣と同然だ。
三つを較べてみると、個人的な印象としては、スピード感があるけれどもやや平易に流れすぎる安西訳、格調があってスピード感もある福田訳(でも漢字が多すぎ)、真面目に訳している風だけどおもしろみのない斎籐訳、というところかな。これだけで判断するのは大胆すぎるが。
こう見てくると、シェイクピアの原文はどうなっているか知りたくなる。
原文は、
O, reason not the need! Our basest beggars
Are in the poorest thing superfluous.
Allow not nature more than nature needs -
Man's life is cheap as beast's.
うむ。これは歯が立たない。上の飜訳あるから、かろうじて意味がとれるけれども。
ただ、斎籐訳は、原作の行にあわせて訳そうとしたものであることがわかる。そういうことをしてはたして意味があるかどうかはわからないけれども。(原書を勉強する学生には便利かも)
なかなかおもしろいので、もう少し比較を続ける。
上はリア王のセリフだったが、次はケントの言葉。
(安西訳)
悲惨のうちにあらざれば、奇蹟にあうこともあらずという。
(二幕二場)
(福田訳)
奇蹟に出遭うは窮しし者のみ。
(斎籐訳)
禍いを蒙らずには
奇蹟を見ることがまあない。
(Shakespeare)
Nothing almost sees miracles
But misery.
(先生! シェイクス君の英語は意味分かんないんですけど! 校長先生はシェイクス君はスゴイっていってますけど、ホントですかあ)
最後はエドガーのセリフ。
(安西訳)
忍耐を忘れたのかい? この世に来るのも引っ込むのも、人間の勝手にゃならぬ。時の熟すのを待つしかないんだ。
(五幕二場)
(福田訳)
人間、忍耐が肝腎、己れの都合でこの世を去る訳には行かない、こいつは出て来た時と同じ理窟さ、万事、木の実の熟して落ちるが如し。
(斎籐訳)
人間はこの世に出て来るのと同様、
世を去る時を辛抱して待っていなければなりません。
機の熟することが何よりもです。
(Shakespeare)
Men must endure
Their going hence even as their coming hither;
Ripeness is all.
シェイクスピアの原作は、散文ではなくて、韻文だった。通常の文章とは違うので、われわれには分かりにくい。
ただ、普通の英米人にとっても、わかりにくいのは同じではないかと思うのだが、どうだろうか。
学校でわれわれは古文とか漢文とか習うけれども、彼らの場合も、そういう勉強を通じて、古典作品が読めるようになっているのではないだろうか。
ということは、ひょっとしたら、われわれが学校でいくら習っても枕草子や源氏物語を個人的に読もうという気になれないのと同じで、一部の愛好者を除いては、シェイクスピアを実際読んでいる人は少ないのかもしれない。いくら日本の代表的文化だといっても、歌舞伎を実際見た日本人が少ないのと同様、シェイクスピアの劇も、むこうの人にはあまりなじみのないものかもしれない。
ただし英語の場合は、日本語に較べると、年数の経過による単語の綴りや意味の変化が少ないようなので、日本人が自国の古典に接するときよりも、まだ近づきやすいのかもしれないが。
シェイクスピアの作品は、残酷なときは非常に残酷で、五六年前にアンソニー・ホプキンス主演で公開された「タイタス」は、現代のホラー映画も仰天というぐらい恐怖と暴力に満ちた作品だった。
そんな彼の悲劇だから、人が死ぬこと死ぬこと。
こんな人間まで死んでしまうのかというぐらい登場人物が死んでしまう。タランティーノ監督も真っ青だ。これほど人を殺してしまうんだから、作品が悲劇と呼ばれてしまうのも当然だろう。死に方の安易なところは、ほとんど喜劇としか思えないところもあるが。だから、昔の映画やドラマなんかでもよく、登場人物が最後にばたばた死んでしまって、そんな御都合主義はないだろうと思うことがあるが、あれは作り手の想像力の欠如とか、番組を時間内で終わらせるための手抜きとかではなく、シェイクスピア以来の伝統ある作劇方法らしいのだ。
ただ違うところは、シェイクスピアの場合は、そこに至るまでの内容が非常に濃すぎて、それぞれの登場人物が担っている重荷の重さで、最後には物語世界そのものが吹き飛んでしまう、それが登場人物達の死となって結末するというところで、それでこそようやく観客は、この濃密な世界から解放されて、劇場の席を立って家路につける。そうでもしない限りかれの作品世界は観客の精神を縛って閉じこめたままにしてしまう、それほど強力で魅力的な世界なのだということだろう。
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人生は不条理まみれ。
そして、予測外の事態まみれ。
ふとした「相手をうかがい知る行為」を
行ったがゆえに起きてしまった悲劇…
確かにその行動は極端で
やりすぎだったことでしょう。
でも人は、たがが外れてしまえば
その楽に手に入る欲に
安易に飛びついてくるのです。
安易にね。
最後が悲劇のきわみです。
一番の良心すら
消えてしまう、その場面が。
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良識と思慮にかけた王様と、狡猾で身持の軽い長女次女。そして不器用で天然の入った三女。
この親子の中で誰に感情移入するかに寄って、善悪が入れ替わってしまう作品だと思う。最初は王様のあまりの放埒ぶりに、長女次女の方に利があるように見える。しかし正しさを身につけると人は残酷になってしまうもので、王様への仕打ちは悪役のすることに変わってしまう。
最終的に親子の誰も幸せになれなかったできなかったけれど、彼らの誰もが問題を抱えていたので、どうにも同情しきれない。むしろ振り回されたあげくに、両目を失い死に絶えた家臣の方に、落涙を禁じえない。忠誠心溢れる彼の物語はサブプロットでもメインを喰うほど輝いている。
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超資産家の老人が「もうそろそろ資産をすべて譲渡し、子どもたちに面倒を見てもらおうと思う。そのために子どもの君達が資産を譲る対象にふさわしいかテストします。資産を譲るから私は私で好き勝手に生活させてもらう」、と言ったら現代のリア王ができあがりますよね、たぶん。(家族全員が死ぬかどうかは別にして)それは別にして、読んでいると劇を見てみたくなります。
マクベスは魔女、ハムレットは親父の亡霊という、ふつう現代社会にはない想像しにくく、言ってみれば突然に悲劇がふって湧いてきます。しかし、リア王は身から出た錆というか、自分自身のふるまいが原因で悲劇が始まります。ふつうに現代社会にも似たような話が起こり得る話で、子どもの心情もかなり理解しやすい話だと思います。王様は「老いては子に従え」の真逆を突っ走っており、老後を悠々自適に暮らしていこうと、王の尊厳を保持してわがままに生きていけるような「余計な一手」を指してしまったがために、子どもにそっぽを向かれます。(というか自分も子供らも死ぬことになります)ほんと、自分も気を付けないと~。
Posted by ブクログ
言うまでもなくシェークスピアの名作。
王が突然引退を決め、その後継として、3人の娘に対し自分への愛情をテストする。
しかし、王の期待はもろくも崩れ去り、気がふれてしまった王は全てを失い、絶望の中、森をさまよう。
愛情と憎悪、忠誠と謀反、期待と絶望、栄華と零落。まさに悲劇。
訳も、実際に話しているような言葉。話しかける相手も括弧書きで示されていて、読む一役となる。
Posted by ブクログ
衝撃のクライマックス!ってやつですか。
読者は思いっきり放り出される感じですな。
途方にくれます。
面白かったっす。
戯曲とか全然読んだことなかったから最初は抵抗があったけど、よかったよかった。
それにしてもこの作品が関が原の戦いの時代に書かれたってのが信じられないぐらい新しい。
それが訳者の力量なのか、それとも作品自体の力なのかは分かりませんが。
解題も勉強になったし、よし、次もシェイクスピアでいきますか。
Posted by ブクログ
舞台の予習として読んだ。
セリフのみで台本のような書かれ方。
最初は登場人物を覚えるので必死だったが割とすぐ覚えられる。
変装しただけで見抜けないものか!?みたいなのはあるがそれを加味しても面白かった。
程よいむごさ。割とみんなの気持ちがわかる。
無条件に親を大切にするという時代の先を行きすぎたゴネリルとリーガン、時代に取り残されたコーディリア
舞台が楽しみ。
Posted by ブクログ
子ども向けに書かれたのを読んだきりだったが、こんなに壮絶な内容だったとは音読するのは憚られるセリフの数々…よくまぁ、これほど悪口雑言、罵詈讒謗の限りを尽くせたもんだ
おおもとの物語はハッピーエンドらしい…なんで変えたんだろう
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原文のシェイクスピア独特のリズム感が伝わってくる。
NTL(映画)の予習のために読んだけど、これが英語で俳優がセリフを喋ったらどんな感じになるんだろうと想像しながら読んで楽しかった。
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勧善懲悪のハッピーエンドだった原案を、シェイクスピアはこの滑稽なほどの悲劇に改変した。
本当の悲劇に「悪役」はいない。「悪役」はフィクションの中に閉じ込められた存在だが、劇中で猛威を振るう「この世の不条理」は、現実世界との向き合い方に暗い覚悟を迫ってくる。
Posted by ブクログ
登場人物全員が不幸。死んでいった者達はそれぞれの思いや欲望を叶えられずに命を落とした。生き残った者達は大事な人たちの死を目の当たりにすることで不幸を背負い込むことになった。
道化は唯一の例外と取れる。しかし、彼は彼以外の登場人物とは異なる世界に生きている。道化にとっては彼らの野心や欲望などにちっとも興味はないのだろう。
登場するほぼ全員に襲いかかる悲劇。しかし、この人間社会を俯瞰して捉えれば、なんてくだらないことのために命を犠牲にしているのだろうという滑稽さに包まれている気がしてしまう。
Posted by ブクログ
福田さんも安西さんも実際に演劇にするために訳されているので、なんかいい。劇にすることを前提にしていない脚本はなんだかリズムがつかめない。
シェイクスピアさんの全集を買おうかと思ったけど、買うならちょっと古いかもしれないけど福田恆存さんのになるかなぁ〜?
でも、まずはハムレット、オセロー、マクベス、リア王を福田さんの訳で読もうかな。あと、あらし。その他はぼちぼち読んでいこうかな。
安西さんの訳は読みやすい。実際の台詞にもとづいているからのようだ。そうそう、シェイクスピアさんの年譜や作品史を読んで、バカダミアンさんの重松さんを思い出した。まさに、博多のシェイクスピア!
Mahalo
Posted by ブクログ
『老いた王・リアは引退を宣言し、三人の愛娘に王座を明け渡そうとしていた。しかし、その結果は彼の心を打ち砕く。失意の果てに、老王は嵐の荒野をさまよう。一方、リアの臣下の次男・エドマンドは権力を求めてある画策を練る。策略と裏切りが交錯し、そして悲劇が訪れる……』
戯曲なので、地の文は一切なく、会話だけで進みます。堂々と謳い上げられた台詞のインパクトが凄まじいです。会話の節々に悪意と野心がにじみ出ていて、その毒を噛みしめるほどに物語にのめり込んでいくのを感じました。
グロスター伯がもう哀れすぎて……泣くかと思った。
Posted by ブクログ
理性あるが故の悲しみというか狂気は時代や環境が違っても変わらないものだなぁと自分と環境を省みてなんとも暗い心持ちになってしまった(..;)嵐の中の独白や地獄の裁判のシーンはきっと原語で読んだらもっと凄いんだろうな。
Posted by ブクログ
リア王が世界を呪う場面がすごいなぁ。全体的に、張りつめて、積み上げて、一気に崩れる。
非常に現代語で読みやすい、わかりやすい。それだけに何でリア王こんな老害なん?とか、二人の王女はケチくさい。とか、わかりやすく感想が出てくる。エドガーとグロスター親子のエピソードが泣きそうになる。
舞台とかでも見てみたいなぁ。
Posted by ブクログ
この作品、KiKi はこれが何度目の読書か、正直なところよく覚えていません。 もちろん原典も学生時代には読んだし、福田恆存の訳本(当時のスタンダード)でも読んだし、当時注目を集め始めていた小田島雄志の訳本でも読んでいます。 もっとも今回の読書でそれらを比較検討できるほどには記憶に残っているわけじゃないんですけどね(苦笑)
ただ漠然と覚えているのは「福田訳」がかなり詩的だったのに対し「小田島訳」はかなり口語調になっていたことと、それと比較しても今回の「安西訳」はそれに輪をかけて言葉としてひっかかるところがなかったこと・・・・・ぐらいでしょうか?? スンナリと目や耳に入ってくるというのはある意味では「わかりやすさ」に通じて素晴らしいことだと感じるのも事実なんですけど、逆に言えば特に読書の場合、「あれ?」と思って読み返して咀嚼するというプロセスがなくなってしまうため、その分読み飛ばしてしまうリスクがあるなぁと感じました。
シェイクスピアが書く言葉には物事を2面からとらえる言葉とか2つの事象・概念を並べて語る言葉がよく出てくるんだけど(例えば有名なところでは「きれいはきたない、きたないはきれい」というような)こういう言葉って「あれ?」と躓き、何度も読み返して咀嚼するプロセスがあるからこそ何を言わんとしているのかが伝わってくるとか記憶に残るというようなところがあると思うんですよね。 でも、少なくとも今回の読書で KiKi はこれに類するような「あれ?と思って読み返してみる」という行為をほとんどしなかったなぁ・・・・と。
これを既にストーリーを知っている物語ゆえ・・・・と捉えるべきか、読み方が雑になった・・・・・と捉えるべきか微妙なところだなぁ・・・・・と感じました。
さて、それはさておき、読後感です。 今感じている読後感が今回の読書だけによるものなのか、はたまた学生時代に感じていたものそのまんまなのかは自分でもよくわからないし、今となっては学生時代にこの物語から何を感じていたのか?はよく覚えていません(苦笑)
この物語、シェイクスピアの4大悲劇の筆頭として語られることが多いんですけど、個人的にはこちらの物語よりも「マクベス」や「オセロー」の方が好きだったりします。 それは恐らくリア王の狂気よりもマクベスやオセローの狂気(というよりは錯乱と言うべきか?)の方が KiKi には理解しやすいし、特に「マクベス」あたりはコンパクトな纏まり具合という点からしてみても、素晴らしいとしか言いようがないと感じられるからです。 リア王ってどことなく因果応報な感じもするし、途中でグロスター伯と二人の息子の話まででてきちゃって悲惨さと言えばリア王その人の悲劇よりもグロスター伯の悲劇(リアを助けようとして迫害を受け、両目をつぶされたうえで追放される)の方が悲劇的に過ぎる部分もあるように感じちゃうし・・・・・。
KiKi はね、リア王って恐らく暴君と言ってもいいほどの専制君主だったと思うんですよね。 で、権力の座にある間は彼の言葉が絶対で、臣下も娘も決して彼の言葉に異を唱えるようなことはなかったし、仮に唱えたとしてもそれをすぐに打ち消さざるを得ないような空気を漂わせた人物だったんだろうと思うんですよ。 で、恐らくそんな暴君でありつつも彼なりの方法で3人の娘たちを愛してはいたんだと思うんです。
老境に達してそろそろその「絶対性」にも疲れてきちゃっていた王様は、後世の憂いを絶つためにも彼の領土・権力を3人の娘たちに等分に分配し、「みんなで仲良く」治めて欲しいな~んていう夢みたいなことを思い描き、さらには「絶対君主としての責任は放棄(彼としては委譲)するけれど、王という称号と名誉だけは手元に残す」な~んていう都合のいいことを画策したのがあの冒頭の「愛情テスト」の場面。 まだ権力を手元に置いた状態での「愛情テスト」に上の二人の娘は耳触りの良い言葉で答え、どこか抜けたところのある末娘はそんな姉たちの上っ面に反感を抱きます。
この悲劇の根本にあるのは、リア王が絶対だと考えていたある種の「価値観」を娘たちの誰一人として共有していないことにあり、その価値観が権力と密接に結びついていたことを肝心のリア王自身が理解していなかったことにあると KiKi は思うんですよ。 ・・・・・と同時に、この物語の背景にある時代が恐らくは結構群雄割拠な時代だったんじゃないかと思うんです。 リア王に勘当されたコーディリアはフランス王に嫁ぐわけだけど、これだってその裏にあるのはどんな思惑やら・・・・・。 だいたいにおいてイギリスとフランスが仲が良かったな~んていう話はほとんど聞いたことがないし・・・・・。
恐らく本来ならフランスをはじめとする外敵と対峙するためにも王権を3分割するな~んていうのは当時の国家君主としては間違った判断だったんじゃないかと KiKi は思うんです。 でもリアはそんなことさえ考えられず自分の安逸な老後のため(& 姉妹仲良くという夢想のため)に冒頭の「愛のテスト」に臨む段階では「きれいに三等分すること」を心の中で決めていた節があるように感じられます。
コーディリアが勘当されることにより三等分だったはずのものが二等分されたことにより、少しはマシではあったかもしれないけれど、もともとあった力を半分ずつに分けられてしまったうえに、引退老人が100人からなる軍隊を言ってみれば自分の遊興のために(そして万が一の時には戦力として)手放さないという状況が2人の娘にとっては面白いはずもなく、彼女たちはリアから戦力を奪ったうえで追放します。
2人の姉妹が極悪非道・冷血人間のように見えなくもないけれど、だいたいにおいて「姉妹仲良く分割統治」な~んていうのが理想(夢物語)に過ぎないわけで、彼女たちがリアを説得しようとする言葉の中にもある種の真実が含まれているところが目を引きます。
そしてそんな父親の苦境を知ったコーディリアは善意からフランス軍を率いてドーヴァーに上陸するわけだけど、この段階での彼女はリアの娘である以上にフランス王妃なわけです。 これはブリテン側にしてみれば侵略と呼んでもいいような振る舞いでもあるわけで、ここでもコーディリアのやっていることはどこか間が抜けています。 そうであるだけにリアの長女、ゴネリルの夫であるオルバニー公は心の中ではリアに対する娘(≒自分の妻)の仕打ちを許せないと思いつつも戦に赴かないわけにはいきません。 こうしてブリテン側が勝利することによりコーディリア & リアは捕えられ、その後あれこれあって、結局みんな死んじゃった・・・・・と。
考えてみるとこの物語、絶対権力者が陥ったある種の時代錯誤・傲慢さの為せる業とも見えるわけで、そこにこそ悲劇性があるように KiKi には感じられました。 狂人となったリアが嵐の中で彷徨う姿は確かに悲劇的だけど、道化の存在やらグロスター伯に迫害された長男、エドガーとの出会い等々があり、悲劇的でありつつもどこか喜劇的なように感じられました。
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舞台劇にもなる有名作。雑誌でなぜ上映が多いのかの記事もあり、初めてのシェイクスピア。
26/5/22
本でもスラスラと読めた。劇場版はなぜ人気があるのか。人の心の在り方。観劇の機会があるかな。5/28
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授業の一環で読んだ。リア王がとにかくプライドが高く傲慢で、多分認知症なんだろうなと思う場面(すぐ癇癪を起こしたり、訳のわからない言葉を言い出したり)が多かったけど、それでいても自己中で救えないと思った。
コーデリアは一見優しい女の子のように見えるけど、嘘をつけないからって愛を語らないのは何だか薄情に感じたし、そもそもの原因は彼女にあるように感じた笑
また、事あるごとにリアやエドマンドなど、登場人物が星や女神、ヘカテなど様々な物に祈っていたのが印象的。1600年?くらいに書かれたはずだけど、エドマンドが星座や占いについて批判的な意見を言っているのに驚いた。みんながみんな盲信的ではなかったのだな、と思った。
エドマンドに関しては、嫡出子であったとしても別に父親の愛情はしっかりあるように感じるのにどうしてそこまで憎めるのだろう、彼は完全な悪にように思った。
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シェイクスピアの言わずとも知れた悲劇の名作。良いテンポとユーモアのある表現が心地良い。
コアメッセージとしては「権力は持ち続けろ」「だれかに依存する状況は絶対に避けろ」というところか。
リア王は物分かりの良い風を装って、気前よく娘たちに自らの権力を分け与えた。自分と自分の兵隊を養う財産も放棄して、娘に交代で面倒を見てもらう悠々自適な老後を夢見たのだ。しかし娘たちは養い続けなければならない父親に嫌気が差して、彼を追い出してしまう。リア王は裏切られたショックに発狂し、廃人となってしまう。
あらすじとして悲劇だが、トリガーは王の愚かさにある。例え自分が王であり、頼るのが例え実の娘でも、ずっと依存し続けることはできないのだ。マキャベリは恐れによって人を統治しろと言った。「恩」などまたたくまに風化するものだと。その通りだと思う。権力は手放したら返ってくることはないのだ。
これが400年前に書かれたものだというのがまた面白い。人間の愚かさとは普遍的で不変的なものなのだ。
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◎感想
「リア王」、シェイクスピアの4大悲劇の一つとして有名なこの話を一度読んでみたいと思っていた。一つにはシェイクスピアの作品、古典として有名だからという理由もあるが、もう一つには、この光文社新訳古典文庫というシリーズを創刊した編集者の本 を読んだからという理由もある。今ではこの光文社新訳古典文庫は200冊以上のシリーズとなっており、「リア王」はその創刊時の8冊のうちの一つだ。その本を読んだ時に、編集者の思い入れの強いものという印象があり、いつか読んでみたいなと思っていた。
自分は古典を読むうえで一つ意識していることがあり、それはなぜ現代においてもそれを読むのか?という事だ。今に通じる何かがあればいいなと思いながら読んでいて思ったのは、相続と介護、特に年老いた親を誰が面倒みるのかという介護の問題から話が動いていくという事だ。
・相続と介護
長女も次女も相続の際には、言葉を尽くし、父への愛を語るが、実際には厄介者としてその費用の負担を抑えるように謀る。コーディリアは言葉ではなく、その行動で示すものだと考えているがそれは伝わらない。リアは分かりやすく愛を示してくれるものを期待していたのか、癇癪をおこす。相続を原動力にするのは臣下グロスターの私生児エドマンドも同じだ。彼は自分が己の力のみで今の自分を形成しているという感覚がとても強い。生まれが賤しいとされるものでも自身の力で、計略によって成り上がろうとする。
・欲望と正義
長女、次女、エドマンドは己の欲望の為に何らかの謀をたくらむ一方で、ケント、エドガーは忠義の為に、コーディリアは父への愛の為にという形で自分の欲望ではない理由で動いていく。前者は欲望の為に後者は正義の為にともいえるのかもしれないが、もし一国民として見たとしたら、後者のほうが国のトップにいてほしいと思うが、ドラマとして見る分には前者に魅力を感じたりもする。
・劇としての機能
この欲望と正義のコントラストの激しさが、セリフにも登場人物たちの急激な変化にも現れていると思う。一方で、登場人物とそのセリフがほとんどのため、読んでいる途中でどういう場面か、その人物たちの関係性が分からなくなることもあった。それは舞台であれば、服装や小道具、舞台上の演出で補われるものが無いからというのもあったと思う。
逆にそうした視覚的な情報を補う「地の文」に支えられて、普段の小説を読むときには、その世界に没頭できるという効果もあるのだなと改めて思った。だからこそ一番の魅力はセリフに尽きると思う。特に訳者の安西徹雄は自身で劇団を主宰し、何度も舞台上で発声してきたものだからだ。
読んだ感想をまとめてみて思ったのは、全体としてこの物語が悲劇であるということにあまり自分自身としてはピンと来ない感じになったところだ。結果的に、この王国としては良かったのではないだろうかというところで、唯一コーディリアは何の悪意もなかったのに殺されてしまったという理不尽さは悲劇かもしれないが、ろくでもない奴は皆死ぬという形になっていて、良かったのではないかなと思う。
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シェイクスピア初めて読んでみたけど、やはり面白い。他の作品も読んでみたいが、原典でも読んでみたいと思った。 心の描写や言葉選びのセンスといった文学の真髄となる要素が際立っていると感じた
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人に人の心が読めるなんて、そんなお話。
娘の愛情をテストしたリア王。ことばに騙され読み間違える。忠臣を追いやり、荒野をさまよう。家臣は野心に満ちた子の計略に嵌り、二心のない上の子を遠ざける。愛を手段に、この世の富と肩書を求める姉妹。結局、心優しいコーデリアも、自分の間違いに気付いた老王も、死ぬ。悲劇。
ハッピーエンドに直した版があるという。それはそれでいい気持ちになれるかもしれないが、悲劇を観る意味がある。悲しい、悔しい、ひどい、そんな激情に身を委ね、心を揺さぶらせる。その中から見えてくるものがあるはずだ。お涙ちょうだいの安易なものにとどまらず、観客を突き放して、呆然とさせて、ひっかかったまま、いつまでもどこかに残り続ける、そんな悲劇。それは、フィクションの力。
人の心を読もうとしても読めない。疑い始めたら戻れない。かといって、道化を演じても自分は欺けない。『リア王』が語る人間は、決して過去のものではなく、現代だけのものでもない。きっとこの作品は未来にも生き続ける。
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うーん、よく分からなかった……。
リア王の気持ちもよく分からないし、末娘がどうしたいのかもいまいち分からない。
難しいわ〜。
ただ、「三人」の娘という登場人物に対しては思うところあり。
三兄弟のモチーフは物語によく出てくるわけで。
ハリーポッターだって、最後の肝心な神話で三兄弟が出てきた。
三人いると、キャラクターが対比しやすいのか、構造として三人というのが良いのか。
「起承承承転結」で、承を3パターン書くことの面白さを説いている人がいたのを思い出しました。
3は変化の数か。
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「だって、おっちゃん、諺にもいうじゃァねえか、うっかりカッコウの雛を孵したヒバリは、育てた子供に首を食いちぎられるってさ。
こうしてロウソクの灯は消えて、おいらもあんたも、みーんな闇ン中を、ウロウロうろつくことになるってわけよ」