ひこ・田中のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
この本を読んでいるあいだにいろいろな本を読まざるおえなくなったので、時間がかかってしまった。
面白い本です。ひこ・田中さんが語る“子ども”の心理というか、子どもの心に映る世界にいちいち共感しながら読んでしまった。
ここに書かれている“子どもの物語”は多様なものであり、性差も存在しているが、俯瞰して流れている子どもが見つめる“大人の世界”へのまなざしは、今でも自分の中に眠っていたのを思い起こさせてくれた。
素晴らしい。
以下、“子どもの物語”の存在を語る部分一部抜粋”しました。
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自然の驚異や不可思議を、神という人間に模した存在に仕立てて説明したり(ポセイドン・アトラス・天照大神)、集団の中で何らかの影響力を持つことになった人物や出来事の正統性を示すために事実を脚色したり(アーサー王、ロビン・フッド)、共同体の秩序を伝達する教訓(赤ずきん)や、その秩序によって生じるストレスのガス抜き(桃太郎。外部に仮想敵を設定し、英雄がそれを滅ぼして宝を持ち帰る)のために語られます。
ですから、それらの物語は共同体を外敵から守り安定して保つといった役割を担っている大人にこそ必要なもので、子どもは大人の横でそれを聞かせてもらっていただけと考える方が自然です。そのため、子どもにはわからない部分(大人だからわかる部分)が多々あったはずです。仕方なく子どもはその物語から骨格と理解可能部分だけを聞き取って、自分たちなりに辻褄を合わせたり、合わせられなくとも気にせずにそれを楽しんだりする術を身につけたでしょう。
その後、科学の発達や技術の進歩に伴って理屈で理解できる事物が増え、書物の普及によって知識や秩序の伝達が容易かつ簡易になってくると、そうした口承伝達は、大人の共同体を保持するための情報ツールとしての価値を次第に失っていきます。神話はもう現実を語るには不適だと思われてしまったのです。その判断が百パーセント正しかったと現在の私たちは思わないはずですが、価値の転換時にはこうしたことが起こってしまいます。
とはいえ、それはものと違ってゴミ箱に捨てたり燃やしたりできるわけではありませんし、捨て去ってしまうにはあまりに魅力的な物語であるには違いないので、新しい消費者として選ばれたのが、大人の横で興味津々に聞いていた子どもたちです。それらは大人の情報ツールから子どものおもちゃに変わり、長い間子ども部屋に忘れ去られていたのです。
………時代の流れは、子どもに厳しくから子どもに優しくへと変わっていくわけですが、それは同時に子どもが、大人の子ども観によって、より縛られていく過程でもあります。社会の中にある厳しさや不条理な現実は隠蔽され、子どもは子ども時代の安全を保障され代わりに囲われ、監視されていきます。
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Posted by ブクログ
子どもから大人へと言う「成長神話」なき時代が来ていることをあぶり出した労作。
主に日本の子どもたちをめぐる主要なメディアを通して、近代とその後に肉薄している。自分の周りの現象のいくつかに合点がいった。
私は40代男性。いかに自分が成長神話ある時代に育ったかを自覚した。状況がどんなに困難なものであっても、成長を信じて疑うことは無かったのである。
・何者かに名前を与える行為は、それにアイデンティティを持たせる第一歩であり、その責任を任される。(DQ)
・なぜ女子用メディアが後付けになるかは現場の作り手の多くが男だったから。
・彼女たちは戦うだけではなく、自分たちの夢や悩みを実によく語り合う。答えは出なくても、考え続けること。一番大切なのはそのことですから、戦う動機ははっきりしている。世界のためではなく、自分のために。
・この時代、『赤毛のアン』が生き残っていたのも日本だけ。
・子ども向けの新しいメディアや物語は、その正体を大人がつかめない(おもしろさがわからない)ため、恐れから否定的に評価されることが多い。
・アンケート人気至上主義は、作者が終わりを想定できない事態、その主導権を子どもが握ることができる可能性を読者に強く印象づけた。
・王と教皇から、近代は個と個=競争社会を招いた。職人から藝術家へ。誕生日や結婚記念日が大切な日になり、日記を書くようになったのも近代。「私」が誰なのかを示すことが重要なのだ。
・「子どもにはもっと夢を持たせたい!」は子どもの夢ではなく、子どもに託した大人の夢。
・経済力は違いがあるが、情報量は差異が減ってきているのがいま。
・成熟した大人、成熟しない大人、大人にならないままの大人、大人を放棄した人。そうした様々な道筋が、子どもが育とうとする先に見える社会こそ、本当の近代社会だと考えていいのではないか?今はポストモダンなどではなく、モダンはようやくその面立ちを見せつつあるのでは? -
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ちょっとしたきっかけで親と距離を取ろうとする時期がある。それを思春期とか反抗期とか自立心の芽生え期とか色々言い方はあるだろうけど、決して親を嫌ってのことではないと思います。
子ども目線で考えれば至極当然なことで、考え方の相違、感覚的、世代的相違から自分で考え行動する自立へのステップはとても健全なこと。しかし親目線で考えれば、この母親の淋しさはわからないでもないが、親離れ、子離れの適切な時期もあるであろうと思います。
極めて私的感想なのだが、タツキの親父さんの考え方は好きになれない。昭和初期の「男は」、「女は」の感覚は今の世の中通用しないだろうから。男性であれ、女性であれ家事、育児、生活全般にわたりある程度熟せるに越したことはないのではないだろうか? 確かに領分はある、性差、得手不得手もあるだろうが、子どもの自己実現欲求や承認欲求への応援はしたいと思います。 -
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『あした、弁当を作る』
最初は子どもの反抗期の物語かと思った。
でも実際は、ジェンダーバイアスや夫婦関係の歪み、その中で「子どもとしての役割」を強いられる姿が描かれていた。
成長するにつれて違和感を抱き、自分の要望を伝える子ども。
それを「笑顔」でかわそうとする親。その笑顔が時に嘲笑に見え、ゾクッとする怖さを感じさせる。
人が立場を揺さぶられたときの反応は、親子関係であっても目を背けたくなる。
それでも子どもはできる範囲で抵抗し、自立していく。
私自身もかつては子どもで、今は親。きっと数年後に直面するであろう時期に、少し備えるヒントをもらえた気がした。
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Posted by ブクログ
自分で自分の弁当を作りたい、
自分の衣類を洗濯したい、
自立に向けて喜ばしい一歩を踏み出したはずの中学生が、両親の反対を受け、親の庇護という名目で、支配下に置かれ続けようとするお話。
息子といるときは息子に甘えて夫の悪口を言い、夫がいるときは夫に頼り、息子の言動を逐一告げ口する母親。
「わたしはいつもタッちゃんのことだけを考えて生きているのに。生きがいなのに」
ぼくは、母親が世話をするための人形だ。ぼくは支配されている。そして、父親はそうしろとぼくに命令している。
愛情ということばを隠れ蓑にした、ぞっとするような母親の言動と、傲慢かつ威圧的な父親、
その中で揺らぎながらも、自らの意思を貫こうと奮闘し、家族のあり方を受け入れ、前を向こうとする主人公が印象的でした。