松岡和子のレビュー一覧
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昨年『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』というテレビドラマが放送されたが、同作のタイトルは本作に出てくる有名なセリフに由来する。そんな本作を読んでみて思ったのは、すごく「演劇的」であるということ。戯曲であるから当たり前といえば当たり前なのかもしれないが、小説ではありえないような展開、あるいは戯曲ならではというような表現が頻出する。ロザリンドが男装するくだりなんていかにもそうで、たんなる文字情報としてみてもあまりおもしろくはないし、正直そんなに簡単に騙せるものかと思ってしまう。でも戯曲として、演劇として読むからこそ、ロザリンド役の俳優がそのまま男性として演じる様子が思い浮かぶし、そうなると騙せる騙せないとツッコむのは野暮になるだろう。俳優は「そう演じている」という設定であればそのように納得するしかない。本作もこのようにまるで演劇のような読みかたができるかどうかで、あるいは評価が変わるかもしれない。
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面白かった。河合隼雄先生の本はよく読んでいたけど、この本で先生の知識の広大さ深さを初めて知った気がする。
シェイクスピア作品というだけでもいろいろ深いのに、河合先生が一刀両断に解釈するのが痛快。
心理学系の本より自由に語っている気がする。
この本を読むために「リチャード三世」(超簡易版)を読んだけど、演劇も見たいな。
p163
「自分自身になるのは死ぬ時ですよ」
「永遠の少年はね、自分自身でありたいなんて安易に思うわけですよ」
p179
「次男は特に権力への意志が強くなると、アドラーは言っています。それから劣等感」
p188
「大体、善人というのは反省しない。これが一番怖いです。(中略)つまり反省しないと他の面が出て来ない」
p217
「裏切りによってしか自立できない」
p218
「裏切られたと思うときは、その相手の人間とのあり方を考え直すのが本当なんですよね。」
p219
「強迫神経症の人というのは、心のものすごく深い所が動いている。そういう深い所と、日常の自分が接触するのは怖い事なんですよ。それこそ、人を殺しかねない恐怖や衝撃」
p222
「自分のネガティブな欲望は、全部女性のせいにする」
p227
「癖というのは個人の儀式なんです。例えば論戦だと、自分が通常使っていないエネルギーを流し込まないといけない。すると儀式が必要になる」
p249
「目がくらむほど豊富な知識と経験、そして明敏な洞察力」 -
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ネタバレシェイクスピアの描く人間模様は 時代を超えてドキッとさせられるところばかりですが、このお話はユダヤ人差別、白人至上主義がいやらしいほど!
ですが、そこは目をつぶってまずはお話の面白さを楽しみました
ヴェニスの商人アントーニオは、財産の全てをいくつもの商船に投資中。
そこへ親友パサーニオがベルモントのポーシャという美しく素晴らしい女性に求婚するため、金を貸してほしいとやってくる。ポーシャは父親からの遺産を相続し、あまたの権力者たちが求婚にやってくる。彼らと渡り合うには財がいるというのだ。
とにかく友情にかけて愛情深いアントーニオは、今は財産は船の上、ひとまず自分の信用のもと、ユダヤ人金貸しのシャイロックから金を借りることにする。保障人がアントーニオと聞いたシャイロックは、これまで受けてきた屈辱を今こそ晴らそうと、違約金代わりにアントーニオの肉1ポンドを切り取ることを条件に貸すという。
ベルモントではポーシャが 亡き父の遺言により金、銀、鉛の箱を求婚者達に選ばせていた。見事正しい箱を選んだパサーニオがポーシャと結ばれる!
ところがヴェニスでは、アントーニオの船がのこらず難破したという噂が流れ、シャイロックはアントーニオの肉1ポンドのために裁判を起こす。
ここにやってくるのがなんと男装し、若き法学者に扮したポーシャ!
と、こんな感じでいろいろ詰め込まれたストーリーなのですが、これが舞台となるときっと観客をひと時たりとも飽きさせないのでしょう
ユダヤ人の祖先は卑しい商売と言われる金貸ししかできなかったという歴史も垣間見ることができる、今となっては文学的な側面が大きい作品でもあるのです。
それもドタバタコメディですからね!すごいな
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ネタバレ『リア王』は子どもの頃、お子様向けの読み物で読んだ記憶がある。三姉妹の父であるリア王が、一番優しいはずの末娘の言葉に怒り、追い出してしまう、その悲劇の顛末。…あたりは割とよくある昔話にも似たストーリーで、微かに記憶に残ってた。だが、シェークスピアのこの原作(翻訳であることは大前提として)はさらにグロスター家の父と息子たちも登場。元になった史実はあるみたいだけど、それにも増して、シェークスピアならでは(イメージです)の皮肉や性的なジョークも散りばめてある作品だった。
自分の財産を娘二人に分け与えた後、それぞれのところに代わりばんこに寄宿し世話になろうというのは、今も(というか今なら尚更?)トラブルの元。案の定、長女の元を追われ、次女からも疎まれることになる。
この作品を読んだきっかけは、この松岡和子さん翻訳の脚本で演じられる舞台を見に行くことになっていたから。(以下、舞台の感想も混じります。)結局、始まるまでに全部は読み終えられなかった。演じられた作品は大胆な演出で現代的というか前衛的なものになってた。シェークスピアの昔風の舞台をイメージしながら読んでたもので、前半戸惑ってしまったことは否めない。むしろ読んでなかった方が先入観なく見られたかもしれないという反省はした。ただ、登場人物を整理しながら読んでいたので、そこの理解はスムーズだったかも⁇予め元の戯曲を読んでいるのは悪いことではないと思うけど、そこからどんな演出がされるかはわからないから、なかなか諸刃の剣というところはある。聴力が落ちてきている年代なもんで、何を言ってるか、読んでた方が安心できるけど…。(俳優さんによって、聞き取りやすい方とそうでない方がいらっしゃったのは否めない…)
まぁ、パンフの情報くらいで、あんまり予備知識を入れない方が、今回においては良かったかな~。
読まずに見ていた最後、次々に人が死んでいく。心のどこかで救われる結末を期待していた自分に気付いた。そういえば『リア王』は四大悲劇の一つだった。
見終わってラストを読んだ。これがああなったのか…。やっぱり大胆な演出だ。正直、お金と時間があれば、もう一度見たい。というか、見落としてるところがたくさんある気がした。 -
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ネタバレハムレットの孤独と悲劇が胸に苦しく残る。
とにかく、ハムレットがずっと一人ぼっちなのが気になった。父親の亡霊から復讐をとげろと命じられるのも辛いし、母親はその場の空気に流されやすくハムレットのことをあまり考えていないように見える。叔父のクローディアスはハムレットの暗殺を命じ、学友とされるローゼンクランツとギルデンスターンも、友とは名ばかりであっさり暗殺の命を実行にうつそうとする。孤独は深まり続け、最終的には唯一の友であるホレイショーの制止も振り切って悲劇の試合に身を投じていく。
「前兆なんか気にしてはいられない。雀一羽落ちるにも天の摂理が働いている。いま来るなら、あとには来ない。あとで来ないなら、いま来るだろう。いま来なくても、いずれは来る。覚悟がすべてだ。生き残した人生のことなど誰に何が分かる。」
と述べて復讐の実行を決断し行動にうつしたハムレット。その結果により死を迎えてはじめて、ホレイショーとも、レアティーズとも、フォーティンブラスとも距離が近づいていると感じられるのが皮肉だなあ。
途中まで、ハムレットは正気でありつつ狂ったふりをしていると解釈して読んでいたけど、読み終わって改めて振り返ると、「正気でありつつ狂ったふりをしていると思い込む形で狂っている」のでは?という気がしてきている。謎めいた光をはなつ黒い宝石のような作品だった。いつか舞台も観てみたいなあ。 -
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大昔に読んでいたが、再読。国王引退に際して国を三つに分割して娘たち(長女と次女に関しては娘婿)に渡すことを決意したリア王。渡す前に「親への愛を語れ」と娘たちに大喜利させるが、姉たちの歯が浮くようなおべんちゃらが使えない程に率直かつ純真だった末娘のコーディリアを勘当、国外追放とする。
リア王は長女ゴネリル、次女リーガンの家を行ったり来たりの余生を考えていたものの、リア王親衛隊も含めた素行の悪さ・態度の大きさもあって、2人に邪険にされ、台風の中追い出され、狂っていく。
当時どういった感覚でリア王の言動が捉えられていたのか分からないが、現代の感覚からすると親としては完全なる失格とは思う。しかし、権力の頂点に立つ人間がその権力を手放すことが如何に難しいかという視点で考えれば、今にも通じる話だ。加えて、ここには老化によって世界が閉ざされていく悲しみがあり、自らの愚かさゆえに全てを失っていく悲劇があった。
忠臣ケントがカッコいい。リア王に追い出されても(その際のセリフがいい。「ケントより謹んでお別れのご挨拶を。新しい国へ行っても古い流儀で生きてゆきます」)変装して舞い戻り、狂った老王にも付き従う。当世風に考えれば、ケントにフォーカスを当てたスピンオフ作品がきっと作られるだろう。
訳者によるあとがきに、女性嫌悪のイメージが横溢していると書いてあり、まさにその通りだと感じた。息子ではなく、娘しか持てなかったということも、王としては何か思う所があったのだろう。また、道化とコーディリアは同じ場に登場しないこともあって、この二役は同じ役者が演じたとする説もあるとも知り、それも興味深い。
ということで、準備万端な状態でショーン・ホームズ×段田安則「リア王」を観に行ったのだが、自分が全くといっていいほどこの戯曲を読めていなかったことを思い知らされるのであった。 -
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とても読みやすく、物語の流れも分かりやすい。シェイクスピアといえば多くの登場人物に、複雑な人間模様……という感じだが、その源流こそ見えども登場人物たちの動きが(他のシェイクスピア作品と比較して)認識に容易いな、という印象。
主人公ハムレットは、父王を殺し、父王の妻(ハムレットにとっての母、そして女王)と再婚して王冠を手にした叔父(父王の兄弟)に復讐を企てる、という物語。
ハムレットといえば「狂乱」という言葉がついて回る。ハムレットは父王の亡霊に暗殺の真実を伝えられて復讐を決意するが、周囲の目を欺くためか自身は狂乱を演じる。果たしてハムレットはその言葉通りに狂気を演じていたのか、はたまた本当に狂っていたのか、という議論が起こったりするが、側から見れば演じられた狂気も本当の狂気も大差のないものだと思う。
この物語において、父王の死や女王の再婚についてハムレットただひとりだけが騒ぎ、その行為を糾弾し、復讐のために行動する。この様相は側から見ると狂気そのものであるように思えるし、ハムレットとハムレット以外の人物たちの思考や行動について不思議にも思った。
この疑問については中野春夫氏の『「不思議の国」のハムレット』を読むとうんと納得できた。曰く、ハムレットとハムレット以外の人物たちは違う価値観と常識のもと物語の中に存在しているという。ハムレットが上演された時代の背景もふまえて、ハムレットを除いた登場人物たちが持つ常識に対して、観客たちが持つ常識とそこから生じる思考の代弁者がハムレットである、という。
しかしハムレットに関する研究論文の全てに目を通そうとすると本編を読む時間がない、という言葉にある通り、この解釈を得た状態で再びハムレットという物語をまた見つめ直すと解釈の余地が生まれ、さらに違った疑問を持つのではないかと思う。舞台で演じられるハムレットもいつか見てみたい。 -
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・松岡和子「すべての季節のシェイクスピ ア」(ちくま文庫)を読んだ。まづ書いておかねばと思ふのは、「文庫版あとがき」のちくま文庫版=松岡版シェークスピア全集誕生に至る、言はば裏話である。これを一言で言へば何と運の良い人だとでもなる。とにかく次から次へと運に恵まれて文庫版の全集が誕生した。具体的にはかうである。この人はテネ シー・ウィリアムズから始まつてゐるらしい。初めはさうした現代劇に関はつたり訳したりしてゐたのだが、ある日、串田和美や東京グローブ座からシエークスピア翻訳の依頼が来る。続いて蜷川幸雄を紹介されたことから「ハムレット」訳 の依頼が来る。ここで筑摩書房に訳した3冊だけでも出してもらへないかと尋ねると、「いっそ全集にしましょうというちくま文庫からの有り難い申し出」 (346〜347頁)があり、続いて装幀の安野光雅にも関係ができ、更には蜷川からシェークスピア全公演の訳は松岡でと言はれる。「運命としか思へない。」(347頁)かくして全集となつたのである。もちろんここに至るまでには現代劇の訳業や、演劇評論等で培つてきた人間関係が大きく物を言つてゐるであらうことは想像に難くない。それ以上に多くの訳業が優れてゐたからこそ、依頼も次々とやつてきたのであらう。こんな運命によつて誕生した松岡訳シェークスピア、小田嶋訳はおもしろいが、それ以上に松岡訳はおもしろいとも言はれる。ほとんど読んでゐない人間には分からないことである。しかし、そんな人がどのやうにシェークスピアを考へているのかには興味があると思つて読んだのが本書であつた。
・本書には松岡のシェイクスピア観劇体験が綴られてゐると言つても過言ではなからう。とにかく誰某の演出ではといふのが続く。観てない人間にはよく分からないことばかりなのだが、それでも読ませる。例へば「夏の夜の夢」、「内容が 荒唐無稽でファンタジー性が強いため、メタシアター的な枠を設定しないと今日に舞台では成立しにくいという見方があり」(33頁)、「たとえば出口典雄演出による」公演では云々、「木野花演出の舞台も云々」と記した後、RSC版で は「そういう仕掛けなしでズバリと正面突破。」(同前)とくる。「ただし衣装は現代風で、すでに陽気で華やかな音楽のバイブレーションに感染している私達の意識は(中略)難なく眉唾の壁を飛び越えてしまう」(同前)。しかも「ヒポ リタは見るからに不機嫌」(34頁)である。かうして妖精界と人間界で舞台は進んでいく。その間、具体的な演出にも触れてゐるから、観たことがなくとも何か観てゐるやうな気になつてくる。基本的にかういふ書き方である。舞台は観な ければおもしろくない。これはまちがひない。しかし、観てゐない舞台を、このやうな演出を読むことによつて観たやうな気になるといふのもありであらう。これは本当に実に残念なことなのだが、観てゐないものは観てゐないのである。イ ンターネットでさがせば、部分的にでも舞台の様子を知ることができるかもしれ ない。しかし、それをしない私はかうして読んでその気にならうといふのである。本書のほぼ全体はこのやうになつてゐる。実に多くの舞台を観てゐる人だと 思ふ。劇評なども書いてきた人だから当然ではあらう。こんな人が訳したのであ る。実は松岡版シェークスピアを一つだけ観たことがある。「終わりよければすべてよし」、吉田剛太郎演出であつた。ここでは「この作品の本質的な深部を照射するいくつもの鮮やかな解釈が見られた」(290頁)さうである。もちろん 私には分からない。松岡訳を読んで、今一度舞台を思ひ浮かべてみようかと思ふ次第である。 -
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英語の戯曲をどうやって日本語に訳すか。
具体的な分析を通してシェイクスピアの本質に迫ろうとする本。
語られる内容は英語の専門的な話が多く、シェイクスピア初心者には難しいところ、ピンとこないところもありましたが、文章自体はインタビュー形式で読みやすかったです。
リア王の「この世」と「ここ」の違いなど、シェイクスピアの意図をどのように理解して、日本語に訳す作業をどのように行っているかが具体的に書いてあり、面白かったです。この一言にどんな狙いを込めたのか。それによって、観客がセリフから受ける印象はどう変わるか。翻訳とは、それらを分析・想像して答えを導きだしていく作業なのだなと思いました。
ロミオとジュリエットのバルコニーシーンにおけるジェンダー問題の話では、先行する邦訳に配慮した上で、今の時代を生きる翻訳者としての意見を語っており、納得感がありました。演出家のジョン・ケアードとの対話の中で、シェイクスピア劇における翻訳劇の役割の話になっていくところも興味深かったです。翻訳って面白いな!と思わせてくれる本でした。
何より、戯曲の翻訳を行う際の松岡さんの手法が新鮮でした。
稽古場で演出家や役者の解釈を見て聞いて、それを翻訳に反映させるという。
戯曲は普通の英文の翻訳とは違い、セリフとして語られ、演じられるものなのだということ。そして、それをきちんと意識して翻訳すること。これまであまり深く考えずに戯曲を読んでいたということもあり、目からウロコでした。
「なぜト書きが少ないか?」など、シェイクスピア自身が役者であり演出家であり、現場の人であるという前提を理解した上での読み解きもなるほどなと思いました。読点を打つか打たないかの話も面白かった。
松たか子さんや唐沢寿明さんなど、役者が戯曲をどのように読み、解釈し、表現するのかを書いている本でもあって、そのあたりの役者のプロフェッショナルならではの解釈も印象的でした。シンプルに、役者ってすげー!かっこいい!と思える。松岡さんから役者や演出家に対するリスペクトが感じられるのも、文章から伝わってきて心地よかった。
また、「シェイクスピア・コンコーダンス」をはじめ、シェイクスピアに関する豊富な資料があることも初めて知り、こんな資料があるんだ!と興味深かったです。
一般的な読者としても十分面白かったけど、翻訳業を目指す人が読むと、翻訳の面白さ、難しさ、喜び、醍醐味を具体的な手触りをもって感じられると思うのでオススメです。