佐野眞一のレビュー一覧
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戦中戦後に国全体で負わなければいけなかった負担を、沖縄に押し付けてしまった。だから本土の人間として沖縄に謝りに行く、という姿勢で進歩的文化人などによって語られてきた沖縄。本土=加害者、沖縄=被害者。多くの日本人も、この認識をもとに沖縄を捉えてきた。でもすでに戦後70年。戦後沖縄がたどってきた長い歩みを、いまでもこの凝り固まった歴史認識をもとに見ても、本当の沖縄は見えてこないのではないか。
といった問題提起から書かれた本。
悪漢小説のように悪い奴、図太い奴がたくさんでてきる。法になんて従ってられない。生きるか死ぬか、体を張って生きている。被害者というイメージだと弱弱しい、枯れた花みたいで、ここに登場する沖縄人のイメージと合わない。向日葵かな? 違うな。皇帝ダリアかな。他を押し退けて、俺が!、俺が!とグングンくる感じ。
戦後の密貿易での繁栄。富を蓄え頭角を表す財界人。ヤクザの抗争。革新勢力の拡大。警察の汚職。などなど。
法に縛られず、生き方は自分で見つけ出す、という強い意志を感じる。
沖縄本島と奄美の間に「離島差別」というものがあったことは初耳だった。本土から差別されてきた沖縄。差別される辛さを知っているから差別しないというのは、どうやら幻想のようで、蔑まされたら、その憤りを他に向ける。それが奄美などの離島だった。人間の悲しい性とでもいおうか。
本のタイトルの「だれにも書かれたくなかった」という意味がよくわからない。猥雑でパワフルな沖縄戦後史だから?
沖縄をひとくくりにする現知事の発言のおかげで、県民性に興味をもって読み始めたのだが、けっしてひとくくりにできるような県民性じゃないことがわかっただけでも読んでよかった。 -
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先に読んだ宮本の自伝「民俗学の旅」や、佐野眞一の「渋沢家三代」と重複する部分も多かったが、2人と関係した研究者も登場し、当時の歴史やつながりも見えてくる。
宮本は明治40年に山口県の周防大島で生まれた。尋常小学校を卒業後は村に残って百姓をしていたが、叔父にすすめられて大阪に出ることになった。島を出る時に父親が伝えた十か条には、汽車に乗ったら窓から外を見ること、人の服装などに注意して見ること、新しく訪ねたところは高いところに登って見ること、時間があったら歩いてみることなど、その後の常一の活動の基盤となったと想像できる内容が盛り込まれている。大阪では、逓信講習所でモールス信号を学び、卒業後は高麗橋郵便局で働いたが、その間に市内を歩いて知った被差別部落に興味を持ち、足繁く通っている。仲間が相次いで肺結核で倒れるのを目にして郵便局を辞め、天王寺師範学校の二部に入学した。この間に大宅壮一に会って衝撃を受け、ひと月1万ページを目標にして乱読する生活を3年間続けることになる。師範学校の専攻科で地理学を修めた後、小学校の教師になった。昭和5年に結核を患い、故郷で絶対安静を1年あまり続けたが、その間に雑誌「旅と伝説」で募集された昔話をノート2冊分を送ったのをきっかけにして、後に柳田国男に面会することになる。大阪に戻ると、郷土史研究の仲間と同人誌を出したことをきっかけにして大阪民俗談話会が生まれ、そこに渋沢敬三も出席することになる。
渋沢敬三は明治29年に生まれた。はじめは動物学者を目指したが、その関心は玩具、民具へと移っていった。父親が廃嫡となった翌年、仙台二高の1年生で渋沢同族株式会社の初代社長に就任したが、同じ頃に柳田国男と出会っていた。東大卒業前には、三田の屋敷の屋根裏部屋にアチック・ミュージアムを始めている。卒業後は横浜正金銀行に入行したが、大正14年に柳田が岡正雄らと岡書院から「民族」を創刊した際には敬三がスポンサーになっている。同時期に、人類学、先史学、民族学などの若手研究者が人間の総合的な研究をすることを目的としたAPE会がつくられた。昭和11年には日本民族学会が設立され、事務局はアチック・ミュージアムに置かれたが、昭和12年に保谷に誕生した民族学博物館に移り、アチック・ミュージアムに収蔵されていた民具も移された。これは、その40年後に開設された大阪の国立民族学博物館の母体となった。アチック・ミュージアムは昭和17年に軍部から敵性用語に当たるという命令を受けて日本常民文化研究所と改称され、昭和56年には網野善彦が務める神奈川大学に移管された。
宮本は、昭和10年に東京のアチック・ミュージアムを訪ねると、渋沢から周防大島の海の生活誌をまとめることを求められ、翌年出版された。昭和14年、口内炎を患った際に見舞った森信三から満州に開学した建国大学行きをすすめられたが、渋沢からはその前にひと通り日本を見ておくことをすすめられ、小学校を辞めて上京した。その際、渋沢から「苦労ばかり多くて報いられることは少ないが、君はそれに耐えていける人だと思う」と言われて、民俗学の資料を発掘する作業を期待されている。宮本は、敬三からの体の管理方針を忠実に守りながら、17年2月までに19回、500日の旅を続けた。
敬三は、公職追放後の昭和26年にKDDの社長に就任したが、南方熊楠の業績を広く知らせるためのミナカタ・ソサエティをつくるなど、引き続き学問のパトロネージュの道を歩んだ。
宮本は、昭和22年に水産資料整備委員会の調査員として主に瀬戸内海を担当することになり、島々をたくさん歩くようになった。戦後すぐに敬三が提唱した八学会連合が昭和25年から調査を始め、宮本も対馬や佐渡に関わった。後に民俗学者となる谷川健一が現代日本の風土記を企画すると、宮本が実質的な編集執筆者となって、昭和32年に全7巻の「風土記日本」、昭和34年に「日本残酷物語」として出版された。昭和33年から未来社の雑誌「民話」で連載された「年寄りたち」は、後に「忘れられた日本人」としてまとめられた。昭和36年に「瀬戸内海の研究」で文学博士の学位を受け、渋沢の死後の昭和40年に武蔵野美術大学の教授になった。同時期に、近畿日本ツーリストが企画した「にっぽんのやど」に執筆を宮本に依頼したのをきっかけにして、同社が出資して開設された日本観光文化研究所にも関わるようになった。晩年の昭和54年には、「日本文化形成史」の講義を開始し、これを進化させた形の「海から見た日本」の構想をもって原稿を書き続けていたが、未完のまま生涯を閉じた。
宮本が開拓した歩く学問は、鶴見良行の「バナナと日本人」などを生み、中世民衆と社会史、西日本と東日本の文化の相違への着目は、網野善彦の「無形・公界・楽」などの骨格に影響を与えた。宮本の学問には、体系や方法論がないと言われ、アカデミズムの世界では評価が低いが、鹿野政直、安丸良夫、鶴見俊輔、水上勉、加藤秀俊、司馬遼太郎などが、宮本を高く評価した。 -
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資本主義の父と民俗学のパトロンの生涯をまとめて読めるのはお手軽と思ったが、あとがきにも書かれている通り、敬三の民俗学へのパトロネージュについてはほとんど触れられておらず、『旅する巨人』を読めとのこと。そりゃそうだ、とは思ったが、渋沢家の生い立ちから没落への歴史を学ぶことができたのはよかった。
栄一は1940年に血洗島の中ノ家に生まれた。現深谷市のこの地は中山道と利根川にも近い交通の要衝で、家はそのメリットを生かした藍玉生産で富をなした。藍の栽培に必要な干鰯は、九十九里から利根川で運ばれた。栄一も14歳になると、単身で藍葉の仕入れに出ている。21歳で江戸に遊学に出て、学問や剣術の修行をする一方で、高崎城乗っ取りのクーデター計画を進めたが、激論の末、中止となる。その後京都に出て、温情を受けた一ツ橋家に仕官することになり、慶応2年に慶喜が将軍職に就くと、陸軍奉行支配調役となった。その1か月後、パリで開かれる万国博に派遣されることになった水戸の徳川昭武の庶務と会計役として随行し、遊学して資本主義を学ぶことになる。帰国後、静岡で謹慎中の慶喜を訪ね、そこで商法会所を開いて、明治政府が全国の諸藩に強制的に貸し付けていた新紙幣を基に、合本法を用いて殖産興業を図った。その1か月後には、新政府の大蔵省租税正に任命されて東京に赴くが、内閣と対立して明治6年に退任すると、在任中に自ら作成した国立銀行条例に基づいた第一国立銀行を創設した。
栄一は、古希を迎えた明治42年にほとんどの関係事業から身を引き、喜寿を迎えた大正5年には第一銀行の頭取をやめて、すべての企業との関係を断った。その後は社会事業に情熱を注ぐ一方、民間経済外交にも献身し、日露戦争後に変調をきたした日米関係を修復させようとしたが、満州事変が勃発した2か月後の昭和6年に91歳で生涯を閉じた。
敬三は明治29年に生まれた。中学時代から生物学に心を寄せ、大正10年に銀行員となったが、柳田国男らの影響を受けて民俗学に興味を持ち、屋敷車庫の屋根裏部屋にアチック・ミュージアムをつくっている。栄一の死に付き添った過労によって糖尿病を患い、療養のために過ごした伊豆の三津浜で、古老の家に伝わる400年の歴史と生活が記された古文書を見せられた。それを筆写して、3000ページに及ぶ「豆州内浦漁民資料」をまとめ、この頃から多くの民俗学者へのパトロネージュを始め、自らも土日曜を利用して52年間に480回もの旅を続けた。昭和12年には、アチック・ミュージアムに収蔵されていた民具を保谷に誕生した民族学博物館に移し、その40年後に開設された大阪の国立民族学博物館の母体となった。
敬三は昭和17年に日本銀行副総裁に任命され、昭和19年には日銀総裁に就任し、終戦後は幣原内閣の下で大蔵大臣に任ぜらた。自ら導入した財産税を納めるために三田の豪邸を物納し、GHQの財閥解体も後に「相当せず」との通告を受けたものの、それを放置して同族会社を解散した。渋沢家に代々仕えた杉本行雄は、敬三が「ニコニコしながら没落していけばいい」と口ぐせのように言っていたと伝えている。物納された渋沢邸は、40年余り6省庁の共同会議所として使用された後、道路拡張工事によって取り壊される際、杉本が払い下げてもらって三沢に移築している。 -
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東日本大震災の原発事故で、東電の体質についてクローズアップされたことをきっかけに、東電に興味を持って読み始めたのだが、とんでもない本だったようだ。
そもそも、この事件について全く予備知識がなかったため、渡辺泰子のような女性が存在していたことに驚いた。事実は小説より奇なり、とはいうけれど。。もう亡くなってしまったので、今更彼女を助けてあげることはできないが、彼女のように心のバランスを壊してしまう前に、周りは気が付いてあげられなかったのだろうか。。。
佐野さんの緻密な調査には頭が上がらない。小説のような読み口でとても強烈な魅力を持つルポルタージュだった。 -
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興味をそそられるタイトルに表紙の写真。しかも佐野眞一著となれば読まないわけにはいかないでしょう。
しかし、読み始めはちときつかった。
だって沖縄ヤクザの抗争なんてまったく興味がわかないんだもの。しかも読み始めたのはハワイの空の下。リゾートしながら読む題材ではないわね。能天気な観光客の知らない裏社会にはドロドロの世界もあるんだということはわかったけど。
ただヤクザもんの中で「海燕ジョーの奇跡」のモデルとなった日島稔の話はおもしろかった。組の汚名をはらすため、相手のかしらの首をとった日島は15年の刑期を終えてカタギの仕事についている。おとうさんが行方知れずのフィリピン人という出自や、成績は抜群にいいのに進学できず、ヤクザの道に入ってしまったという生い立ち、そして最期は仕事中の海難事故と数奇な運命をたどっている。時任三郎主演で映画化もされたらしい。見なくっちゃ。
話がヤクザから離れると俄然現実味を帯びて興味深くなってきた。奄美大島出身の人は沖縄でひどい差別を受けていたというのも驚きだったけど、それが1953年奄美群島本土返還という米軍からのビッグプレゼントを境に、非琉球人となった在沖奄美人は更なる差別を受けたという。本土から差別を受けた沖縄が、弱い立場の奄美を差別する。今はもうそんなことはないと思いますが、ひどい時代でした。
その他、鳩山民主党による飛行場移設問題による裏切りや、首里城の王朝尚家の寂しい最後、尖閣諸島の所有者の話、安室奈美恵は輩出したけれど、その後続かない沖縄芸能等々話題は盛りだくさん。
せっかく育てたタレントを本土のプロダクションがスカウトに来てさらっていってしまうという悲劇に象徴されるように、沖縄人は人がいいのかバカなのか(ごめんなさい)…。地場産業にしても重きを置くところを間違っていて(サトウキビばかり保護するあまりせっかくの畜産業が発展していかない。)観光客に出している食材のほとんどが本土産らしい。特産物のはずのゴーヤにしても、本土へ出荷できるように18年がかりで害虫を壊滅させ、いざ出荷できるようになると、本土の家庭でも簡単に栽培できるような食材になり、もはや沖縄特産とは呼べなくなってしまった。
基地返還問題も、初めて知ったのが返還先が国や県ではなく個人だということだ。現在その借地料で生活している人も多く(沖縄最大の軍用地主は竹野一郎で、年間借地料は200億円といわれている。)、いきなり返されてもその土地を有効利用するためには農業開発事業などが必要となり、少なくとも20年はかかると思われる。
いちがいに米軍に出て行ってもらいたい人たちばかりではないんだと驚いた。
戦争や米軍占拠ばかりではない沖縄のかかえる悲劇に目が離せなくなり、ハワイ旅行の途中で一度は放り出そうかと思った本をしっかりとにぎりしめて、ハワイ島からオアフ島へ移り、それでも読み切れなくて日本に戻ってから京都まで連れて行って、やっと読破しました。 -
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ネタバレ被害者のWさんは幸せな家庭で育ち、慶応大学経済学部を卒業後、一流企業に総合職(エコノミスト)として勤めながらも、毎晩仕事帰りに渋谷に立ち寄り、4人もの客をとって売春をしていたという。週末も風俗店に勤務し、その後渋谷で呼び込みをしていたそうだ。
彼女は渋谷区円山町、井の頭線神泉駅から目と鼻の先にある、さびれた木造アパートで殺害され、10日後に発見された。隣に住む不法滞在のネパール人が逮捕され、一度は無罪判決が下されたものの、逆転有罪となり、無期懲役で服役している。この木造アパートは今でも存在し、住んでいる人もいて、ネットで写真が見られる。円山町にも興味を持ったので、行ってみたいと思った(明るい時間限定)。
筆者はネパールまで取材に赴き、本書で一貫して冤罪を主張している。ただし、フェアな視点で読んでも、誰が犯人かを特定するのは難しい。
また、被害者が売春をし続けた理由は、最愛の尊敬する父を失ったからという結論だったが、こじつけっぽいと感じた。尊敬する父を失ってしまう人はたくさんいるが、明らかに病んでいるとはいえ、こういう行為を10年も続ける原動力にはならないだろう。被害者が患っていた拒食症とは関連があると思われる。自分を痛めつけようとする部分があったのだろう。
最後の、裁判の場面には引き込まれた。弁護側の弁論には感動した。最初の無罪判決のところまで本書でカバーされているが、きわめて論理的であり、これがその後どう覆されようがあったのかと思う。
この事件を題材にした桐野夏生氏の「グロテスク」はぜひ読んでみたい。被害者のご冥福を祈り、合掌。 -
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在日三世として貧困から身を起こした孫正義とそのバックグラウンドを描いたノンフィクション。孫正義の生い立ち、家族、これまで歩んで来た道が描かれ、興味深く読んだ。
孫正義がたった一代でSoftBankをNTT、KDDIと肩を並べる通信キャリアに成長させた事は驚異である。方や官の天下りによる後ろ盾で通信キャリアの頂点に君臨していたNTTやKDDIも陰りを見せている。完全なる民のSoftBank、いや、孫正義の戦略、経営思想の勝利であろう。
孫正義は在日という事で、Twitterなどでは酷い攻撃を受けているが、孫正義の飄々とした返しが面白い。常に世界に目を向けている孫正義と島国根性の塊の輩の人間の大きさの違いを見るかのようである。
文庫化にあたり、改めて加筆したようだ。 -
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石原慎太郎の実像に迫るノンフィクション作品です。
汽船会社で人びとの記憶に残る伝説を残した慎太郎の父・潔の生き様から、慎太郎・裕次郎兄弟の活躍、そして都知事になった石原を追い込んだ新銀行東京問題までを、緻密に追いかけています。
「私の関心は、……石原慎太郎という男それ自体の存在もさることながら、彼に向けられた大衆のまなざしの偏光にあったというべきかもしれない」と書かれているように、慎太郎を通して、彼にまなざしを向ける戦後大衆の無意識にまで、著者の考察は届いています。
石原慎太郎について語ることが同時に、賛否いずれにせよ石原を批評する大衆について語ることだというのは真実だと思います。しかしそのことは、本書もまた、石原と彼を生んだ戦後日本の大衆について語ることで、語り手である著者自身について何ほどかを告げているということを意味しているように思います。快活な石原の魅力にどこか惹かれながらも、そこから距離をとろうとしている著者ですが、そうした振舞いが佐野眞一という作家の本質を露にしているように感じるのです。
石原慎太郎について語るということがどのようなことなのか、本書全体がそのことを教えてくれているように感じました。 -
購入済み
知られざる事
この事件が起きた当時、興味本位の、中には被害者を傷つけるような事を報じる雑誌や新聞があり、辟易した記憶がある。
この本は、そのような事は無く、何故このような事件が起きたのかを事実を丁寧に調べて解き明かそうとしている。
しかし、それでも疑問が残っている。
これは被害者が持っていた闇があまりにも深かったためかもしれない。
全てが明らかになってはいないが、この事件に関わる人や事実にはどのようなものが有ったのかを知りたければ、この本を勧められると思う。 -
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東日本大震災と福島原発事故から見えて来る日本の政治の本質に迫るルポルタージュ。
筆者はまえがきで、福島原発事故から三年近く経過した現在の政局から風化しつつある負の遺産と悲惨な記憶を憂いていると共に他のノンフィクション作品を批判している。このまえがきからすると、筆者が語りたいのは東日本大震災よりも、福島原発事故なのだろう。
あれだけ騒いでいた原発事故も三年近くになると選挙戦の材料に使われ、まだ事故は収束の兆しも無いのに東京オリンピック誘致に浮かれる日本は一体どうなっているのか。
第一部は東日本大震災の一週間後の被災地の取材記録。取材記録といっても、筆者が被災地の旧知を訪ねるという私的な色が強い。
第二部では福島第一原発周辺の立入禁止区域の取材から福島原発建設の歴史に迫る。日本で原発が受け入れられるまでの過程と東電がいかに易々と福島に原発を建設出来たのかを描いた辺りは興味深い。しかし、東電の体質を語る上で東電OL事件を引き合いに出す辺りには違和感を覚えた。
全般的に東日本大震災にも福島原発事故にも深い部分にまで斬り込んでおらず、取材記録のコラージュ的な作品という感じである。