【感想・ネタバレ】旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三のレビュー

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超絶感動。コロナ終息後の最初の遠距離旅は山口県に決めた。宮本常一が生まれた周防大島行ったあと祐三ラーメン食うんです。
やっぱり「普通から生み出されるパワー」が「異常」となる景色のすさまじさよ。そこに絡むのが華麗なる元財閥でニコニコと没落する日銀総裁・渋沢敬三。なんというドラマ。
そして一番驚いたのが、あの世界に誇る和太鼓集団「鼓童」が、宮本常一なくしては存在しなかっただろうということ。まじっすか。
感動ついでに、関連本を5冊発注。早く読みたい。

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2020年08月09日

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後年まで定職に就かず日本中をフィールドワークして歩いた民俗学者宮本常一と、それを物心両面で援助しつづけた実業家かつ民族学者渋沢敬三の評伝である。最初は宮本だけの評伝として構想されたが、渋沢の存在の巨きさに気がつき二人の評伝というかたちになったという。二人への著者の畏敬の念がが素直に出ているが、ノンフィクションライターとしての矜持を保ち二人の負の部分もきちんと描いているのはさすがである。忘れられた巨人で有った宮本と渋沢は、この本によって十分に顕彰された。

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2012年08月25日

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私の日本地図を読んで以来、気になっていた宮本常一のことがわかった。
彼の妻に同情。う〜ん、宮本常一は、私の中ではイメージダウンです。


読みごたえのある本。

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2012年08月18日

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健脚の民俗学者・宮本常一の人生。 昭和の民俗学者・宮本常一の人生を追ったノンフィクション。
貧しい瀬戸内海の島で育った宮本常一は、父から教わったいくつかのルールを守りながら、日本を旅して廻ります。とにかく国内のあらゆるところをひたすら歩いて、様々な土地の人々の生活を記録し続け、昭和の日本人の姿を明らかにしていきます。民俗学者には、研究室で史料・史実を基に研究する人と、現場でのフィールドワークを重視するタイプがいますが、宮本常一は後者の人であったようです。
日本中を旅して歩く彼のような生き方というのも、自分の人生を考える時とても参考になります。何気なく撮った数万枚の昭和の風景のスナップショットが、今では昭和という時代を知る貴重な資料となっているそうです。彼の業績は、これから益々評価されていくのではないかと思います。
佐野真一のノンフィクションの中では、最高の一冊だと思います。著者の人生にも影響を与えた宮本常一への愛情みたいなものを感じました。

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2010年08月26日

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目次の前に、宮本常一と渋沢敬三の写真が掲載されている。宮本常一のは「長崎県五島、頭ケ島にて(昭和37年8月)」というキャプションが付けられている写真。渡し舟と思われるような小さな船に、船頭と子供2人と宮本を含む大人の客3名、計6名が乗り込んでいる。船は渡し場に着いたのかこれから渡し場を出て行こうとしているのか分からないけれども、渡し場に接している。渡し場の方向を向いた宮本常一がカメラの方向を向かって笑っている。カメラの方向を向いている宮本常一自身もカメラを手にしている。おそらく旅の途中なのだろう。渋沢敬三の写真には、「還暦の春に」というキャプションが付けられている。67歳で没した渋沢敬三にとっては、もう晩年と呼んでも差し支えない年齢。白黒写真なので、色は分からないが、ダークなダブルのスーツを着こなしソファに座り両手の指を体の前で軽く組んでいる。表情は、微笑、ほんの微かに笑っているように私には思える。2人ともに実に魅力的な表情をしている。特に目が印象的だ。この本を読んで、宮本常一も渋沢敬三も、実に魅力的な人物であると感じたから、なおさらそう思えるのか。それとも、写真の表情には、その人の何かが出るのだろうか。こんなことを思うのは珍しいのだけれども、こういった表情をする人になりたいな、と思った。

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2011年07月25日

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 2009年69冊目。「執念」という言葉がピッタリくるノンフィクションの第一人者、佐野眞一さんの作品です。

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2009年10月04日

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新しい土地に行った際には、まず高いところに登る。山がどこにあり、川がどのように流れ、人の暮らしがどこにあるかを俯瞰する。また街に入れば、家の造りや屋根、壁の構造や素材、街路の形成、田畑に植えられているもの、地域住民の服装や表情、その土地の食べ物、夜の街、、様々な土地の風俗を五感で体験する。

これは宮本常一が日本中で実践してきたフィールドワークの実態だ。彼が歩いた足跡を地図に落とせば、日本全体が赤く染まりその距離は地球4周分にもなる。旅する巨人と言われる宮本常一の徹底した現場主義の成果は、『忘れられた日本人』や『民俗学への道』といった著書にまとめられている。

その宮本常一を経済的に支えたのは、渋沢敬三である。渋沢栄一の孫として大蔵大臣や日銀総裁に担ぎ上げられる一方で、贅沢税を導入して率先して貧富の格差解消に尽力した。そこには民俗学者として日本の隅々まで歩いた宮本常一の影響があったことは想像に難くない。

よく地域づくりの文脈では、現場が大事だと言われる。しかしそれ以上に重要なのは、その雑多な現場にどのような色彩を乗せて集合知へと昇華させる意味付けの教養であり、圧倒的な経験則に裏打ちされた具体例の集積だろう。宮本常一の足元どころか爪先にも及ばないが、数多くの地域を訪れてようやくその本質が見えてきた。

課題は現場にある。でも課題解決は現場にはない。中央にカネと情報を吸い上げて、十把一絡げにモデル事業だったり横展開とか言っちゃっているところには解はない。個別具体的な事例を積み上げて、大衆の生活のリアリティを見聞きし体感し、自らの想像力の引き出しを広げて異分野と結び付ける。ローカルで興るイノベーションとは、かくも泥臭く奥深いものなのだ。

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2023年11月10日

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先日、金融庁元長官の遠藤さんが、講義の中で紹介された宮本常一の父の言葉に触発され、この本を、手に取りました。大正2年4月(1913年ですから、今から1世紀以上の昔)、山口県の離島だった(周防大橋が架かったのは1976年)、周防大島から旅立つ14歳の常一が書き留めた父善十郎の言葉。 汽車に乗ったら窓から外をよく見よ、から始まる10か条。これからさきは子が親に孝行する時代ではない、親が子が孝行する時代だ、そうでないと、世の中は良くならない等、なんとも素晴らしいものがあります。☆4つであります。

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2022年05月01日

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日本中を旅した民俗学者の宮本常一と、宮本を精神的そして経済的に支えた渋沢敬三のお話し。

宮本常一の著作を読んで以来少し民俗学に興味があった、宮本と渋沢敬三の生い立ちや関係、渋沢栄一の孫である敬三が民俗学を支援した背景、そして名著『忘れられた日本人』の裏話など、綿密な取材を重ねており大変興味深い内容だった。

民俗学というジャンルについては若干理解が曖昧だったが、本作で宮本の行動を知ることにより理解する事が出来た。離島や農村の歴史や風習を調査収集するだけではなく、他のエリアや次の世代に伝える事、そして伝わった情報により少しでも生活が豊かになることが、民俗学本来の役割なのだと思った。

「主流にならぬ事、見落されたものの中にこそ大切なものがある」という一節が非常に印象的だった。

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2016年08月14日

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先に読んだ宮本の自伝「民俗学の旅」や、佐野眞一の「渋沢家三代」と重複する部分も多かったが、2人と関係した研究者も登場し、当時の歴史やつながりも見えてくる。

宮本は明治40年に山口県の周防大島で生まれた。尋常小学校を卒業後は村に残って百姓をしていたが、叔父にすすめられて大阪に出ることになった。島を出る時に父親が伝えた十か条には、汽車に乗ったら窓から外を見ること、人の服装などに注意して見ること、新しく訪ねたところは高いところに登って見ること、時間があったら歩いてみることなど、その後の常一の活動の基盤となったと想像できる内容が盛り込まれている。大阪では、逓信講習所でモールス信号を学び、卒業後は高麗橋郵便局で働いたが、その間に市内を歩いて知った被差別部落に興味を持ち、足繁く通っている。仲間が相次いで肺結核で倒れるのを目にして郵便局を辞め、天王寺師範学校の二部に入学した。この間に大宅壮一に会って衝撃を受け、ひと月1万ページを目標にして乱読する生活を3年間続けることになる。師範学校の専攻科で地理学を修めた後、小学校の教師になった。昭和5年に結核を患い、故郷で絶対安静を1年あまり続けたが、その間に雑誌「旅と伝説」で募集された昔話をノート2冊分を送ったのをきっかけにして、後に柳田国男に面会することになる。大阪に戻ると、郷土史研究の仲間と同人誌を出したことをきっかけにして大阪民俗談話会が生まれ、そこに渋沢敬三も出席することになる。

渋沢敬三は明治29年に生まれた。はじめは動物学者を目指したが、その関心は玩具、民具へと移っていった。父親が廃嫡となった翌年、仙台二高の1年生で渋沢同族株式会社の初代社長に就任したが、同じ頃に柳田国男と出会っていた。東大卒業前には、三田の屋敷の屋根裏部屋にアチック・ミュージアムを始めている。卒業後は横浜正金銀行に入行したが、大正14年に柳田が岡正雄らと岡書院から「民族」を創刊した際には敬三がスポンサーになっている。同時期に、人類学、先史学、民族学などの若手研究者が人間の総合的な研究をすることを目的としたAPE会がつくられた。昭和11年には日本民族学会が設立され、事務局はアチック・ミュージアムに置かれたが、昭和12年に保谷に誕生した民族学博物館に移り、アチック・ミュージアムに収蔵されていた民具も移された。これは、その40年後に開設された大阪の国立民族学博物館の母体となった。アチック・ミュージアムは昭和17年に軍部から敵性用語に当たるという命令を受けて日本常民文化研究所と改称され、昭和56年には網野善彦が務める神奈川大学に移管された。

宮本は、昭和10年に東京のアチック・ミュージアムを訪ねると、渋沢から周防大島の海の生活誌をまとめることを求められ、翌年出版された。昭和14年、口内炎を患った際に見舞った森信三から満州に開学した建国大学行きをすすめられたが、渋沢からはその前にひと通り日本を見ておくことをすすめられ、小学校を辞めて上京した。その際、渋沢から「苦労ばかり多くて報いられることは少ないが、君はそれに耐えていける人だと思う」と言われて、民俗学の資料を発掘する作業を期待されている。宮本は、敬三からの体の管理方針を忠実に守りながら、17年2月までに19回、500日の旅を続けた。

敬三は、公職追放後の昭和26年にKDDの社長に就任したが、南方熊楠の業績を広く知らせるためのミナカタ・ソサエティをつくるなど、引き続き学問のパトロネージュの道を歩んだ。

宮本は、昭和22年に水産資料整備委員会の調査員として主に瀬戸内海を担当することになり、島々をたくさん歩くようになった。戦後すぐに敬三が提唱した八学会連合が昭和25年から調査を始め、宮本も対馬や佐渡に関わった。後に民俗学者となる谷川健一が現代日本の風土記を企画すると、宮本が実質的な編集執筆者となって、昭和32年に全7巻の「風土記日本」、昭和34年に「日本残酷物語」として出版された。昭和33年から未来社の雑誌「民話」で連載された「年寄りたち」は、後に「忘れられた日本人」としてまとめられた。昭和36年に「瀬戸内海の研究」で文学博士の学位を受け、渋沢の死後の昭和40年に武蔵野美術大学の教授になった。同時期に、近畿日本ツーリストが企画した「にっぽんのやど」に執筆を宮本に依頼したのをきっかけにして、同社が出資して開設された日本観光文化研究所にも関わるようになった。晩年の昭和54年には、「日本文化形成史」の講義を開始し、これを進化させた形の「海から見た日本」の構想をもって原稿を書き続けていたが、未完のまま生涯を閉じた。

宮本が開拓した歩く学問は、鶴見良行の「バナナと日本人」などを生み、中世民衆と社会史、西日本と東日本の文化の相違への着目は、網野善彦の「無形・公界・楽」などの骨格に影響を与えた。宮本の学問には、体系や方法論がないと言われ、アカデミズムの世界では評価が低いが、鹿野政直、安丸良夫、鶴見俊輔、水上勉、加藤秀俊、司馬遼太郎などが、宮本を高く評価した。

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2018年10月31日

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調査のため、日本を歩き訪ねて、73年の生涯で16万キロ。
白地図の日本列島に彼の足跡を赤ペンキで塗ると真っ赤になる。
彼が巨人じゃないなら、もはや巨人は存在しない。

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2013年07月10日

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偉大なる美しい日本人。戦後間もない頃から「地元力による地域振興」「コミュニティデザイン」がこんなに強烈に意識されてたことに驚く。離見の見。

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2011年08月20日

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某都市デザイン事務所の方に教えてもらった本。宮本常一にはハマった・・。とハニカミながら話してくれました。
人生をかけるに値する仕事、まさしくライフワークの話。でも家族との時間は?仕事以外への好奇心はどうするの?凡人の私にはちょっとハードルが高い。

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2010年07月20日

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圧倒された。自分も徒歩旅行が好きで主に伊豆の山中を歩きまわっている。しかし、一日十里、十六万キロを自分の足で歩いている。目標とするにはあまりに高い。伊能忠敬、菅江真澄、宮本常一を見習って私も歩くぞ。今は江戸の掘割全制覇を実施中。いずれ五街道完全踏破と、日本の海岸線(ほぼ)踏破をやるぞ。

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2010年03月03日

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ネタバレ

結論:パトロンって大切
あと「忘れられた日本人」の中の有名なエピソード、土佐源氏の話が実はほとんどフィクションだったというのは衝撃。

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2012年11月18日

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