阿部謹也のレビュー一覧

  • 対談 中世の再発見

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    読むと面白いのだけども、自分の問題意識とはマッチせず、途中でストップ

    読みたい本が多過ぎて、ガッツリとこないものは、どんどん飛ばしてます

    いや、こういう本があるとかじって知ってれば、そういうタイミングがきたときにまた読めばいいのだ

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    2020年05月01日
  • 近代化と世間 私が見たヨーロッパと日本

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    これまでの主張がコンパクトにまとまっている。第三章は他章と重複する箇所あり、もう少し削ぎ落せたか...。
    個人が尊重されない日本が垣間見れる医師とのエピソードは、他領域においても容易に想像がつく。紡ぎだされる結語は、死が間近に迫ったが故の達観なのだろう。
    “世間”関連書籍を通読してから本書を手に取ることをお勧めする。
    「日本人にとっては一年を超える目的をたてることは容易ではないでしょう。目的自体はたてられても、それを具体的に実行する手だてを決めることは難しいからです。将来計画を立てることに不得手なのは「世間」の時間意識の結果なのです。~中略~このような「世間」においては学問はきわめて不利な立場におかれていることになります。学問はこれらの現世的な価値を超えたところで営まれるものだからです。」

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    2020年04月12日
  • 「教養」とは何か

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    『「世間」とは何か』(1995年、講談社現代新書)の続編です。

    本書では、西洋史における「教養」の形成過程が比較的ていねいにたどられ、そこでは個人の完成が目標とされていたことが明らかにされています。ここで著者は、「教養」とは「自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のためになにができるかを知っている状態、あるいはそれを知ろうと努力している状況」だと定義し、「世間」との対峙のありかたによって「教養」を理解しています。その一方で、フンボルトに代表される「リベラル・アーツ」の理念が国家による統制に絡めとられてしまう可能性があることを指摘します。ここには、日本の「大正教養主義」に代表される教養が、もっぱら「世間」と対峙することをそのうちに組み込んでいないことに対する著者の批判的な見方を読み取ることができるように思われます。

    後半は『アイルランド・サガ』の物語が紹介され、そこに見られる「名誉」のとらえかたについての考察を通して、社会のなかで自己を位置づけつつも社会と対峙する、もうひとつのありかたが見られることが論じられます。そのうえで著者は、こうしたヨーロッパの伝統的な「世間」のありようと、日本における「世間」のありようを対照的に見ようとしています。

    ここで著者は「人間関係の古層」といういいかたをしており、あるいは丸山眞男の議論が念頭にあったのかもしれません。そして丸山のばあいと同様、本書においても著者の問題意識の深さに感銘をおぼえる一方で、問題に対する明瞭な処方箋が示されていないことに苛立ちをおぼえる読者もいるかもしれません。しかしながら、手っ取り早い解決策を性急に求めるよりも、本書の提出している問題をみずから考え掘り下げることのほうがよほど重要ではないかと考えます。

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    2019年09月21日
  • 「教養」とは何か

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    世間の延長にある、集団の「教養」。 その社会(というか世間)に最適化しながらそれぞれが「どう生きるべきか」を身につけていくという生き方。 この二、三世紀で忘れられたもの。 一方で、個人の自己実現のための「教養」ばかりに目が向けられている現代。 特に、西洋とは異なる公の概念(セミパブリック!!)を秘めている日本においては、文字や学問の延長線上にはない「教養」を再考しなければならない。 来たるAIの時代、「リベラルアーツが大事なのだよ」と、偉い人の言葉を拠り所に、無思考の人間性にすがりく私達に問いかける。

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    2019年06月30日
  • 「教養」とは何か

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    学生時代に読んだ本の読み返し。

    「教養がある」というと、一般的には「知識が豊富である」とか「ロジカルである」というイメージがある。マズローの欲求階層でいう「自己実現欲求」を充足させるための要素の1でもあると言えるだろう。

    しかし筆者は「自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のためになにができるかを知っている状態、あるいはそれを知ろうと努力している状況」を「教養がある」と定義している。また「「世間」の中で「世間」を変えてゆく位置にたち、何らかの制度や権威によることなく、自らの生き方を通じて周囲の人に自然に働きかけてゆくことができる人」が「教養のある人」とし、「「世間」の中では個人一人の完成はあり得ない」と主張している。

    つまり、自分だけで教養を完結させることはできない、ということだ。たしかに、ある人の教養の有無は他者が評価することであり、その意味では筆者の言う通りである。しかし一方で、他者が教養の有無を評価するためには、まずは自身が自らの努力で知識を身につけることが必要である。自分だけでは完結しないが、日々の勉学無しには決して教養は身に付かない。これが筆者の言いたかったことではないか。

    なお、本書で紹介されている「吉茂遺訓」の「掛け軸の文句を少し覚えたくらいで気位が高くなり、家族はもちろん、他人まで見下し、人の道を踏みはずしてしまう人間になることがある」という話には胸を突かれた。大学教員としてある程度の年数は経っているが、まだまだ「掛け軸の文句を少し覚えた」程度に過ぎないことを肝に銘じておくべきだろう。

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    2018年06月10日
  • 対談 中世の再発見

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    メモ:
    日本の宴会の無礼講という考え方は、西洋では公的には失われている→キリスト教による社会統制が働いている
    また、忘年会というのは一年間で元に戻るという日本人の時間意識を表している行事で、西洋ではそういうものはない→キリスト教は終末論

    これらは、西洋で11世紀にキリスト教による意識の大転換が起こったことと無縁ではなく、これまで歴史学のものさしにされがちだった西洋の風習は、実は世界的に見れば特殊なあり方なのかもしれない

    メモ2(p221)
    "ヨーロッパがなぜ11世紀以降大きな変化を示したかというと、互酬の関係のなかで、お返しは天国でする、つまり死骸の救済というかたちでそれをいったん普遍化したうえで返すという回路をつくったところに非常に大きな変化が生まれた原因があると思う〜中略〜これは、従来の慣行のうえでは、ある意味たいへん困ったことです。しかし、そこで絶対的なものが出され、それを社会が承認していくのがキリスト教の受容だった"
    →日本では何かをもらったら何かを返す、互恵の考え方が今でも普通なのであって、それは、日本と西洋における寄付文化の有無などにも表れているように感じた

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    2017年05月07日
  • 西洋中世の罪と罰 亡霊の社会史

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    西洋中世の罪と罰

    キリスト教以前の亡霊とキリスト教以後の亡霊のありかたについて書かれている。前半は筆者の専門分野でもあるアイスランドサガに見られる亡霊観からキリスト教以前の世界を読み解く。サガでは死者は生者と戦争したりするなど、死者はとても生き生きとしていることがアイスランドサガの様々な物語から説明される。当時の人々にとって死後の世界について考えることがあまりなく、生を全うすることが主題であったようだ。だからこそ、生前に共同体に認められなかったものの恨みは大きく、彼らが死後に生者を襲うようになる。このような死者観は、キリスト教導入後に、生者に救いを求める哀れなものに変わる。キリスト教徒は、自らの布教活動の為に、民衆に死のイメージをすり込んだ。中世民衆説話である「黄金物語」などでは、既に民衆教化の影響もあり、死者のイメージは死後の世界で苦しみ、生者に救いを求めるものに変わっている。キリスト教の布教におけるもっとも大きなインパクトをもたらしたのはカール大帝の王国である。カール大帝はゲルマンのキリスト教化において、教区制というハード的なシステム設計とカロリング・ルネサンスと呼ばれる文化興隆-ソフト面の教化―を成し遂げたのであった。歴史家のウルマンはカロリング・ルネサンスについて、単なる文化興隆ではなく政治的な解釈をしている。カール大帝は従来の慣習に生きる人々を、文化を介在し教義(規範)を浸透させることで、慣習や歴史、伝統とは全く特徴を共有しない神の教えに服する社会への変革を目指したのであった。それがカロリング・ルネサンスのからくりであるという。このようなカロリング・ルネサンスの政治的解釈については筆者も一部を除いて同意している。さて、前置きが長くなったが、キリスト教化後の人々の生き方を決定的に規定したのは『贖罪規定書』である。カール大帝の社会変革は、教区の司祭によって実行に移され、その際司祭は、罪という強力な武器を用いて天国と地獄、そして煉獄の概念を人々に植え付け、日常生活のキリスト教的再編を行ったのであった。『贖罪規定書』はいわばそのハンドブックであり、告解を通じて人々はキリスト教的罪の概念を媒介に、個人について自覚するようになる。ここに、従来の血縁・氏族的共同体(ゲマインシャフト的)からの個人の解放が起こり、新たな社会的結合体(ゲゼルシャフト的)の成員として生まれ変わるプロセスがある。観念的なレベルで「個人」という概念を誕生させた『贖罪規定書』が歴史的に大きな意味を持つことは言うまでもない。以上、本の要約であるが、少し自己の解釈を述べる。『贖罪規定書』と告解の項を読んでいるとき、これが社会の成員になるための通過儀礼的な意味合いを持っていることを感じ、同時に今自分が直面している就職活動との関連性について考えた。ここでは、『贖罪規定書』の宗教的な意味合いというよりも、個人への影響に限定して書く。就職活動を社会人への通過儀礼と位置づけた時、そこに多くの類似性を見出せる。就活生は自己分析という名のもとにそれまでの20年余りの人生を振り返り、それを面接という場で告白し、自己をアウトプットすることを通じて自己認識を高めていく。自己アピールは「チームで成し遂げた経験」など社会の成員として一定の評価に値するものが述べられ、自己分析と面接も、そのような経験にフォーカスされる。このような構造は、『贖罪規定書』が社会成員としてのネガティブリストであるのに対し、面接の自己アピールの評価がポジティブリスト的であることを除いては贖罪規定書の構造ととても似ているように思える。『贖罪規定書』が当時の民衆にとって血縁的結合体に埋没した自己の再認識作業の指南書であったならば、就活における社会人として評価される学生時代の経験を数え上げるプロセスというものもまた、学生として埋没していた自己の再認識作業であることに他ならないのではないか。自分自身、就活や自己分析を曲がりなりにもやってみて、自己というものを再認識する良い機会であったことは認めざるを得ぬ事実であり、新卒一括採用・就活というシステムに問題があるかは別にして、自己にとって意味のある期間であったと思う(まだ就活終わってないけど)。時代は違うが、告解を通じて社会の物差しで自己を図りなおす作業は、中世の人々のその後の人生をより豊かにしたのではないかと私は思う。以上。

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    2017年05月08日
  • 「世間」とは何か

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    世間とはよく聞く言葉であれど世の中とか、社会とかといった言葉とはニュアンスが違い『自分が関わっている比較的小さな人間関係の環』と説く。
    夏目漱石の『坊ちゃん』、吉田兼好の『徒然草』等を時代背景と共に参照しながらの解説が面白い。いずれもまだ読んだ事はないけど…。

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    2015年10月28日
  • 中世賤民の宇宙 ──ヨーロッパ原点への旅

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    ネタバレ

    20140704~0730 久々の阿部謹也節に圧倒。大宇宙と小宇宙の狭間から取り残された”賤民”の存在。中世欧州が、贈与で成り立つ社会から、次第に貨幣社会へと変貌するさま、相続に絡む教会や市の役割などは、のちの相続税や法整備にも関わるのではないかと、経済学に携わる身としては興味深かった。最終章の”音”に対する日欧の感性の違いなんかはもう少し詳しく知りたいなー。

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    2014年07月30日
  • 「世間」とは何か

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    わずらわしいと感じる人とのつながりの中に世間があり、個人よりも強い世間。その世間に嫌気が差した先人たちから、世間の姿を捉えてみようとする本。

    今の日本もそうだけど、欧米の個人の人間関係があってこその社会と、個人を押し殺して優先する世間は全く違うというのは納得した。
    昔も今も世間が嫌いな人はいるんだね。自分の心を代弁してくれてるのかと思った。私は隠居するほどの勇気はないけど。

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    2012年07月07日
  • 物語 ドイツの歴史 ドイツ的とは何か

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    ドイツの歴史を通じてEU の中の国民感情の変化、中世にあったアジールという庇護権、多くの音楽家を産んだドイツ的なものとは何かという3つの視点で書かれたドイツ史。音楽に焦点を絞ったドイツ史も執筆するつもりだったらしいが書かれることなく亡くなられたらしく非常に残念。神聖ローマ帝国という高い理念と領邦国家の分立による国民国家形成の遅れと市民の政治参加への挫折が深い内省的な芸術や哲学を生み出す土壌になったようだ。

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    2012年05月03日
  • 西洋中世の罪と罰 亡霊の社会史

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    キリスト教が浸透する以前のヨーロッパ社会の亡霊とキリスト教が普及したヨーロッパ社会の亡霊を比較すると、前者の乱暴で粗野な亡霊と地獄を前におののく哀れな亡霊との際立った違いがある。その違いが、1215年以降、キリスト教徒年1回が必ず行うことになった告解の浸透が背景にあるとしている。個人が司祭の前で罪を告白し、司祭から贖罪を命じられる告解は、それ以前の共同体的な古代異教の世界にいた人々には大きなインパクトを与えたことは容易に想像できる。キリスト教会が戦った古代ヨーロッパの迷信的世界は、告解の手引きである「贖罪規定書」に記述されている数々の迷信、悪魔、魔女からうかがえる。共同体のキリスト教以前の亡霊をエッダ、サガから、以降の亡霊を民間伝承から描いており、具体的イメージでき、良く理解できた。また、悪魔、魔女がキリスト教に追いつめられた異教の神、巫女であるのが良くわかる。死者のイメージの変化から、ヨーロッパの異教的な世界からキリスト教による罪の意識を持った均質な世界への転換を読み取る視点は、興味深い。

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    2012年05月02日
  • 対談 中世の再発見

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    ネタバレ

    網野善彦、阿部謹也という日本史、西洋史の中世史を代表する研究家による対談集。

    二人とも対談を生き生きと行っているのが伝わる。
    「石を投げる」ことにここまで意味を見いだして、議論できるとは。

    中世史を研究するならば、ぜひ読んでおきたい。

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    2012年04月30日
  • 「世間」とは何か

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    日本人特有の「世間」を考察した本。
    歌、仏教、漱石、藤村などから様々な時代の「世間」を捉えている文章は面白い。
    色々あって大学のゼミで読んだ本だったけれど、文芸思潮や社会学をかじるのには良いかも。

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    2011年07月26日
  • 「教養」とは何か

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    教養を扱った本を読むのは久しぶり。

    しかし予想に反し、教養についての記述は全体の半分ほど。
    多くは日本が持つ特殊な「世間」という社会構造について。

    西洋の「近代的個人」や中世アイスランドの「世間」によく似た特徴などを紹介している。
    結局、教養って何だったんだろ。

    しかし、色々なことが載ってて面白かった。
    難易度は、内田樹の難しい本くらい。
    なんとか読める程度。

    有名な本らしいし、そこまで重くないので、とりあえず読んでみることオススメ。
    1日あれば読める。

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    2011年07月19日
  • 「世間」とは何か

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    ネタバレ

     昔からあるようでなかった、日本特有の人間関係「世間」について考察した本。

     近代西洋の自由で平等な「個人」を前提とする「社会」が普遍的で抽象的なのに対し、日本独特の「世間」は具体的、その外にいる者に対し排他的、長幼の序・互酬の原理が根付いている、情理や感性と関係が深い、無情、世知辛い、ままならないものと捉えられていた、といった特徴を持っている。

     そんな「世間」の共通項は万葉の時代から続いているとされる。そして、第一章以降で、日本の奈良~平安時代、鎌倉時代、江戸時代、明治時代において、「世間」がどう捉えられていたかが述べられている。

     良い意味で情緒的、悪い意味で閉鎖的な「ムラ的」であるとされる日本だが、人々が世知辛さを感じながらも、そんなムラ的な「世間」が続いたのは、彼らが「世間」に生活の指針を与えていたからなのだと思った。

     我々は世間をなくすのではなく、世間とどう向き合っていくかを考えていく必要があるのだろう。なかなか面白く読めた。

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    2011年06月06日
  • 物語 ドイツの歴史 ドイツ的とは何か

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    ネタバレ

    ドイツに旅行に行くためにお勉強。この本は思想・文化的背景からの歴史アプローチが多く、ただの歴史本ではないため興味深い内容となっている。

    今回は、なぜドイツで魔女狩りやナチスの台頭が起こったのか、ということが大きな命題だった。
    魔女狩りについては…
    ドイツは森が多く、日本と同じようにそこには神々が宿っていると信じられていた。キリスト教の支配下になっても、他の地域より土着の宗教が長く生活の中に取り入れられていたのだろう。それ故、どの地域よりも強力な方法で人々のキリスト教化と土着宗教の弾圧が行なわれたのだと思った。

    ナチスについては…
    ドイツは地理的にヨーロッパの真ん中に位置しているため常に他国からの侵略の脅威にさらされており、統一も遅れたために公領のるつぼだった。統一も遅れれば帝制の崩壊も遅れ、植民地への進出も先を越される結果に。日本もそうだが、出遅れた領土拡大政策を取り戻すべく、過激な行動に出た可能性が高いと思った。

    思えば今のドイツは私が生まれてから出来たまだまだ若い国。統一ドイツでは東西格差が未だ大きな問題になっているという(友人の話だと「東の人は見れば分かる」とのこと)。一方、ドイツには亡命者を受け入れる法律(アジール法)が存在するため、たくさんの人々(もはや難民)が押し寄せているという。「外国人保護よりも旧東ドイツ国民に職を!」ということで、外国人に排他的な風潮やネオナチの台頭を招いているという。

    世の中は不安定要素があると自分を守るために民族主義・排他的傾向に走ることが多い。今の中東でのイスラム回帰も同じようなことが言えるのかもしれない。

    色々なことを考えさせられた一冊であった。

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    2011年04月30日
  • 中世の星の下で

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    中世ヨーロッパの人々の暮らしを情感溢れる筆致で描く前段は、いわば究極の異文化体験といった趣。
    中世ヨーロッパの世界は現代の我々から見れば剣と魔法のファンタジー世界そのものだが、考えてみれば当たり前の話で、世界を秩序づける説明の体系が、現代とは全く異なっていたということ。

    後段は中世を離れ、歴史学とは何かが論じられるが、中でも、自由な市民が結成した、諸”協会”についての考察が印象に残った。
    ”協会”は中世の兄弟会やギルドの系譜に連なるということだから、このような”結社”はヨーロッパの市民にとっては由緒正しく、また自明のものだったのだろう。
    だとすると、日本国憲法においてはやや唐突に感じられるが、”結社の自由”が基本的人権のデファクトスタンダードとされている意味あいについて、何となく得心がいった。

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    2011年01月15日
  • 「世間」とは何か

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    日本人特有の人付き合い、世間について、兼好、親鸞、西鶴、漱石、荷風らの著作から、その時代においての世間という言葉の概念の変遷を考察している。

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    2011年01月14日
  • 近代化と世間 私が見たヨーロッパと日本

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    [ 内容 ]
    二〇〇六年秋に急逝した歴史家が遺した研究と思索にもとづく、日本人に向けてのメッセージ。
    専門の西洋中世史の研究を超えて、日本史、日本現代社会論にいたるまで、幅広い分野で健筆をふるってきた著者による、文字通り「最後の」書き下ろし。
    自らの五十年に及ぶ研究をもとに、古今東西を縦横に論じる。

    [ 目次 ]
    第1章 西欧社会の特性
    第2章 日本の「世間」
    第3章 歴史意識の東西
    終章 ヨーロッパと日本

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    [ 参考となる書評 ]

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    2010年07月04日