阿部謹也のレビュー一覧
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20年来の積読、というか見当たらなかったので、買い直しました。内容はすっかり忘れてるが読んだ覚えある『ハーメルンの笛吹き男』はあったのですが。本書では、いまでも日本人を支配している「世間」がいかに生まれて発展してきたか、文学作品などを中心に追っています。読み終えての最初の感想は、取り上げられている人物はいずれも「世間」との距離感を意識しており、やはり世間を対象化して観察するには隠者にならないといけないのでしょうかね、という事。かといって、その取り上げ方も決して欧米の個人主義礼賛ではなく、そこは相対化しながら各人物の受け止め方を中心に、しかも文学作品を通して描いているのが解釈のオープンさを感じて
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「世間とは何か?」の安部謹也の、死ぬ寸前まで書いていた遺作です。彼は、結局行動としての「世間」への対し方は書かなかったように思う。というのも、彼の「行動」は世間に対抗するというよりも大学人の立場でいたのだから、そうしたとしてもひどくはがゆかったに違いない。公演などで出会う人には実践派がいて感心してはいたのだが。
この本で重要なところは、同じ近代化を西欧に習って成し遂げた日本の場合と見習った相手「西欧」とのそのプロセスの徹底比較であろう。日本はまるまる西欧の近代化を受け入れたわけではなかった。西欧の「それ」が日本に合わない場合や「欠点」などは切り捨てた。その切り捨てられた部分が日本の奇習である -
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サブタイトルは「ドイツ的とは何か」。
本書はドイツの特異性として、以下を指摘しています。
-ドイツ民族は、ヨーロッパの中央にあるという特異な位置だけでなく、その発端はゲルマン諸部族にあり、それはドイツという表記には直接つながらない。他のヨーロッパ諸国の言語を見ると、フランス人とフランス語のように、それぞれの国の言語は国や民族を示す固有名詞から名付けられている。
-現代の移民政策にあるようにアジール(庇護権)の理念は近代以降も呪術的なものを抱え込みながら生き残っている。
-中世のドイツは帝国としてヨーロッパの中で優位に立っていた。しかしまさにそれ故にドイツは国家形成において他のヨーロッパ諸国か -
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我々は「世間」という言葉に対してどのような印象を持っているだろうか。
Wikipediaには、インド発祥で迷いの世界を表す宗教用語とか書いてあるけど、少なくとも現代日本ではそのような意味で使われることはまずない。「社会」とか「世の中」といったものを表す用語として使われるのが一般的だろう。
本書は日本におけるこの「世間」について、英語の「society」の訳語にあたる「社会」との違い、日本人が自己を形成する上での「世間」との付き合い方、「世間」の中で「個人」はどのような位置を持っているのか、といった観点で論を展開している。
そのテキストとして、万葉集、古今和歌集、方丈記、徒然草、井原西鶴や夏目 -
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中世の再発見
二人の中世史の巨人を招いた対談本。ワンピースに例える中カイドウとビッグマムの海賊同盟並みの二人。
贈与や宴会、市場などのテーマに関しての対談から、日本とヨーロッパの精神の基層をなす中世の人々の考え方を浮かび上がらせるとともに、11世紀頃を境に他の諸国と全く別の文化的習慣を持つに至ったヨーロッパの特殊性についても触れる。特に贈与ではマルセル・モースの贈与論を引いた上で、贈与や互酬関係において人々が繋がりを持っていたとされる。貨幣は貨幣を媒介にしてこれまで関わってこなかった人々と新たな関係性を取り成すとともに、中世の人々は貨幣の持つ呪術性についても信じていた。ゆえに、彼らは死者への -
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これまでの主張がコンパクトにまとまっている。第三章は他章と重複する箇所あり、もう少し削ぎ落せたか...。
個人が尊重されない日本が垣間見れる医師とのエピソードは、他領域においても容易に想像がつく。紡ぎだされる結語は、死が間近に迫ったが故の達観なのだろう。
“世間”関連書籍を通読してから本書を手に取ることをお勧めする。
「日本人にとっては一年を超える目的をたてることは容易ではないでしょう。目的自体はたてられても、それを具体的に実行する手だてを決めることは難しいからです。将来計画を立てることに不得手なのは「世間」の時間意識の結果なのです。~中略~このような「世間」においては学問はきわめて不利な立場 -
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『「世間」とは何か』(1995年、講談社現代新書)の続編です。
本書では、西洋史における「教養」の形成過程が比較的ていねいにたどられ、そこでは個人の完成が目標とされていたことが明らかにされています。ここで著者は、「教養」とは「自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のためになにができるかを知っている状態、あるいはそれを知ろうと努力している状況」だと定義し、「世間」との対峙のありかたによって「教養」を理解しています。その一方で、フンボルトに代表される「リベラル・アーツ」の理念が国家による統制に絡めとられてしまう可能性があることを指摘します。ここには、日本の「大正教養主義」に代表される教養が、 -
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学生時代に読んだ本の読み返し。
「教養がある」というと、一般的には「知識が豊富である」とか「ロジカルである」というイメージがある。マズローの欲求階層でいう「自己実現欲求」を充足させるための要素の1でもあると言えるだろう。
しかし筆者は「自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のためになにができるかを知っている状態、あるいはそれを知ろうと努力している状況」を「教養がある」と定義している。また「「世間」の中で「世間」を変えてゆく位置にたち、何らかの制度や権威によることなく、自らの生き方を通じて周囲の人に自然に働きかけてゆくことができる人」が「教養のある人」とし、「「世間」の中では個人一人の完 -
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メモ:
日本の宴会の無礼講という考え方は、西洋では公的には失われている→キリスト教による社会統制が働いている
また、忘年会というのは一年間で元に戻るという日本人の時間意識を表している行事で、西洋ではそういうものはない→キリスト教は終末論
これらは、西洋で11世紀にキリスト教による意識の大転換が起こったことと無縁ではなく、これまで歴史学のものさしにされがちだった西洋の風習は、実は世界的に見れば特殊なあり方なのかもしれない
メモ2(p221)
"ヨーロッパがなぜ11世紀以降大きな変化を示したかというと、互酬の関係のなかで、お返しは天国でする、つまり死骸の救済というかたちでそれをいった