阿部謹也のレビュー一覧
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一言結論:
日本文化の根底に流れる「世間」とそれが生み出す生き辛さについて時代ごとの文学作品から考察した力作。世間の形が変わろうとしている令和の今こそ読むべき本。
感想:
日本人がどこか感じている生き辛さの正体が世間という強制された生き方であることを、ここまで論じた本を他に知りません。それは万葉集の時代から日本文化に色濃く流れているのであり、明治になって西欧の文化や言葉が入ってきても人間関係の本質は現代まで何も変わっていないということがよく分かりました。
ただ、この本が出てから30年あまり経ち、日本も個人が自分で生き方を選択しやすい時代になってきました。そうすると、世間と個人との距離も、特に若い人の間では新たな風潮が生まれていると思うのです。この本の続きを誰かぜひ書いて欲しい。今、日本は本来の意味でのsocietyを実現し得るのかもしれないし、それを良いことだと誰か声高に肯定して欲しいと思います。 -
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文学からみる世間。 最近気になっている、日本人はやたら「場」というものに縛られるのは何故かという点につながってると思い、阿部謹也さんの本であることもあり購入。
序章でだいたいまとまっている。あとは各自体の文学作品を通して、世間と個人がどう変遷したのかを追うようになっている。
日本は個人も社会も明治になって入ってきたものであり、例えば 欧米での社会は個人が確立したものの集合体が社会である。そして個人は絶対的存在である神との関係によって構築されていくという点が興味深い。
かえって日本は「世間」という自分と他人の人間関係の関係性に縛られてその中で生きている。絶対的個人は存在を認められていないという点に同意した。
個人や個性を主張しながらも、集団や場にそぐわない行動は認められにくい風潮があるように感じる。
中にあった、日本人の個人観や集団観に宗教的なものが関わっているという記述があったので其のへんも読んでみたい。 -
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内容はかなり本格的で重い。でも読んでいくと筆者と一緒に謎解きをしてるような感覚がして、それが面白くするすると読めた。
ハーメルンの笛吹き男の伝説を当時の一般庶民や更にその下の被差別階級の人たちの生活や文化をもとに紐解いていくという内容で、ハーメルンの笛吹き男自体の検証も興味深かったけどそれと同じくらいあまり語られることのない庶民の置かれな状況や歴史を知ることができるのが魅力的に感じた。
差別や階級化をされる側の描写が現代の基準から考えるとあまりにも悲惨で、そういった感情の発露として口伝でハーメルンの笛吹き男を含む色々な伝説が語り継がれていったんだなと。
一方で差別や階級を作る側の心情描写も興味深かった。自分とは違う存在への恐怖やその恐怖を発散させるための差別の正当化がリアルに感じた。
この本に書いてあるような庶民や被差別階級の人たちが抱えてる問題は現代においても決して無関係なことではなく、自分たちとは違う属性の人たちへの偏見やそこから生まれた都市伝説的なデマは現代にも沢山あるよね。
数百年くらい経ったらそれらもハーメルンの笛吹き男みたいに伝説になるのかな、それとも当時と違って当たり前に印刷やカメラやインターネットがあるからまた違った結果になるのかな。 -
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阿部謹也(1935~2006年)氏は、一橋大学経済学部卒、一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学、小樽商科大学助教授、アレクサンダー・フォン・フンボルト財団奨学生としてドイツ連邦共和国(西ドイツ)滞在、小樽商科大学教授、東京経済大学教授、一橋大学社会学部教授・学部長、一橋大学学長・名誉教授、国立大学協会会長、共立女子大学学長等を歴任した、西洋史学者。専門はドイツ中世史。サントリー学芸賞、大佛次郎賞等を受賞。紫綬褒章受章。
私はこれまで、著者の著作では、『自分のなかに歴史をよむ』、『日本人の歴史意識―「世間」という視角から』を読んだことがあるが、今般たまたま新古書店で著者の代表作である本書を目にし、手に取った。
本書は、グリム童話で有名な「ハーメルンの笛吹き男」の話が、いかにして生まれ、今日まで伝承されてきたのかを、著者がドイツ滞在中に様々な文献史料に当たり、考察したものである。尚、グリム童話の話は、中世の時代、ハーメルンの街でネズミが大繁殖して人々を悩ませていたある日、街に笛を持ち、まだらの服を着た男が現れ、約束した報酬と引き換えに、笛で街中のネズミを川に誘い出して溺死させたものの、街の人びとが約束を反故にして報酬を払わなかったため、再び街に現れた男は、同様に笛で街の子どもたちを連れ出して、その130人の少年少女は二度と街に戻ってこなかった、というものである。
本書でまず確かめられるのは、1284年6月26日に、130人の子どもたちが、まだら模様の男に連れられてハーメルンの街から姿を消した出来事は歴史上の事実だということで、驚くべきは、その原因・背景について、既に17世紀から様々な研究が為され、その解釈は26にも上るのである。
そして、著者は、それらの様々な解釈について、仔細に分析・考察を行うのであるが、最終的に結論に至るわけではない。しかし、その過程では、それまであまり取り上げられることのなかった、中世の都市や農村の民衆(特に、都市下層民)の日常生活と、その思考世界が浮かび上がってくるのだ。
本書は1974年に刊行(1988年文庫化)され、日本中世史研究の網野善彦らとともに、中世史ブームを作るきっかけとなった作品だが、それらが気付かせてくれるのは、どの時代においても、歴史のメインストリームとして残るのは、支配者が書いた支配者側の歴史であり、実際には、そこには描かれていない大多数の人間の歴史が存在するということである。
グリム童話の一編をもとに、ヨーロッパ中世の民衆の生活に光を当てた、興味深い作品と言えるだろう。
(2023年12月了) -
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サブタイトルは「ドイツ的とは何か」。
本書はドイツの特異性として、以下を指摘しています。
-ドイツ民族は、ヨーロッパの中央にあるという特異な位置だけでなく、その発端はゲルマン諸部族にあり、それはドイツという表記には直接つながらない。他のヨーロッパ諸国の言語を見ると、フランス人とフランス語のように、それぞれの国の言語は国や民族を示す固有名詞から名付けられている。
-現代の移民政策にあるようにアジール(庇護権)の理念は近代以降も呪術的なものを抱え込みながら生き残っている。
-中世のドイツは帝国としてヨーロッパの中で優位に立っていた。しかしまさにそれ故にドイツは国家形成において他のヨーロッパ諸国からおくれをとった。他の諸国が中央集権国家を形成していくときにドイツでは逆に中央集権国家が解体していった。
著者の阿部謹也さんはドイツ、ヨーロッパの民衆史が専門。他に「『世間』とはなにか」で著したように「世間」をキーワードに、個人が生まれない日本社会を批判的に研究し独自の日本人論を展開、言論界でも活躍しています。本書でもドイツ民族が中世から現代に至る過程で いかに個人が誕生し、国家より領邦が重視された世界の中で個人が形成されて行ったかが論ぜられています。
今回、久しぶりにドイツ通史に触れて、非常に複雑な歴史であることを思い出しました。したがい、本書も「物語シリーズ」の中では、読みにくいものとなっています。それでも、叙任権闘争、神聖ローマ帝国、宗教改革、領邦国家、三十年戦争、ビスマルク、ヒトラー、東西冷戦、ドイツ再統一と波瀾万丈の物語を楽しむことができます。ただ、本書が出版されたのは1998年。欧州連合の中のドイツの立ち位置まではカバーしていません。しかし、ドイツ基本法にあるアジール法の問題を掘り下げてゆくと古代・中世にまで視野を広げる必要があることは理解できました。やはり、読んだ方がいい1冊と思います。 -
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我々は「世間」という言葉に対してどのような印象を持っているだろうか。
Wikipediaには、インド発祥で迷いの世界を表す宗教用語とか書いてあるけど、少なくとも現代日本ではそのような意味で使われることはまずない。「社会」とか「世の中」といったものを表す用語として使われるのが一般的だろう。
本書は日本におけるこの「世間」について、英語の「society」の訳語にあたる「社会」との違い、日本人が自己を形成する上での「世間」との付き合い方、「世間」の中で「個人」はどのような位置を持っているのか、といった観点で論を展開している。
そのテキストとして、万葉集、古今和歌集、方丈記、徒然草、井原西鶴や夏目漱石、永井荷風などの日本文学作品を用いており、それら作品内で描かれた「世間」について考察しながら、日本における「世間」の捉え方の変遷を浮かび上がらせている。
一橋大の学長も勤めた著者は専攻がドイツ史とのことなので、てっきり日本と西洋の「世間」の違いを比較して論を進めるのかと思いきや、前述したような日本国内の文芸作品の解題だけでほぼ一冊を費やしていたのでちょっと意外だった。もちろんこれはこれで意義深い作業だとは思うけど、やはりこれだけでは「世間」というものの解説本として物足りなさは残った。
かつて「世間」は海や山や川のような自然界の出来事も包含していたとか、好色が恥ずべきものとなったのは近代以降とか、漱石は「社会」と「世間」の区別をなしえなかったとか、興味深いこともいっぱい書いてあるんだけどね。
実は本書の続編にあたる『「教養」とは何か』のほうで西洋との「世間」の違いについて掘り下げており、こちらはそこそこ難解なので感想を書けるかどうか分からないけど、本書のタイトルの答えとしてはこの2冊を合わせて評価しないといけないのかなと思った。
ちなみに序章で大まかな結論は述べられているので、時間の無い方は序章だけ読んでもいいと思います。 -
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中世の再発見
二人の中世史の巨人を招いた対談本。ワンピースに例える中カイドウとビッグマムの海賊同盟並みの二人。
贈与や宴会、市場などのテーマに関しての対談から、日本とヨーロッパの精神の基層をなす中世の人々の考え方を浮かび上がらせるとともに、11世紀頃を境に他の諸国と全く別の文化的習慣を持つに至ったヨーロッパの特殊性についても触れる。特に贈与ではマルセル・モースの贈与論を引いた上で、贈与や互酬関係において人々が繋がりを持っていたとされる。貨幣は貨幣を媒介にしてこれまで関わってこなかった人々と新たな関係性を取り成すとともに、中世の人々は貨幣の持つ呪術性についても信じていた。ゆえに、彼らは死者への贈与として貨幣を地中に埋める習慣があったのであるが、キリスト教は死者への贈与を辞めさせ、教会への贈与に切り替えさせた。この転換により、世の中に広がる貨幣の絶対量が増加し、貨幣経済の発展の地盤になったとされる。さらに、貧者に対しての施しと言う観点でも、贈与や互酬の観点から人々にパラダイムシフトを促していた。一般の人々への贈与は反対給付によりその人と関係性が生まれるが、貧者への施しは、反対給付ができないため、関係性は生まれない。しかしながら、キリストは死後の世界にてお返しをすることができるという考え方を広めた。これまでの単なる水平的な互酬の関係性、さらには顔の見える関係性の中で行われていた贈与に対して、死後の世界という垂直的な概念を導入することで、人々の施しや贈与の関係性に広がりを生み出した(普遍化)ことにヨーロッパ史における最大の転換点が生まれたという話は非常に面白かった。
キリスト教会が彼岸を設定した新たな贈与慣行を形成することで、教会には多くの貨幣が集まることになるが、その時代には支配者は教会に近づくことでしか自らの地盤を形成することができなかった。しかしながら、このような贈与慣行に対して、ルターが免罪符批判によって彼岸を媒介とした教会への寄進を一部看破したことで、教会に多くの貨幣が集約する贈与慣行を衰退させ、世俗の支配者が聖なる世界の支配者に対抗する土壌を作ったという点で、世界史的な意味を持つ。ルターの免罪符批判により聖俗のパワーバランスが崩れるが、キリスト教が生み出した垂直的な概念-時間の組織化-は人々に根付いており、こうした概念が「公」の概念へ繋がっていく。「公」とは垂直的な概念を導入することによって、人々の横のつながりを拡大させ、これまでの地縁血縁のみの関係性からの広がりを生み出した。今回の対談の最大のポイントは、阿部謹也氏がこの「公」の概念から網野氏の代名詞である「無縁」の概念に近似した形を見出すとことにあった。 -
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教養といういかにもな翻訳語を西欧の歴史的観点を踏まえて解説した本である。
筆者は結論として、教養のある人を、「世間」における立ち位置を把握し、その中で何ができるか知っている、あるいは知ろうとしている状態と定義している。
日本では明治以降に生まれたとされる、"個としての自分"に向き合うこと、そこから"どう生きるか"を考えるようになる。
そして時に排他的な集団にもなり得る"世間"で何ができるか?どうすれば良くなるか?を考え、知ることこそ教養であるとしている。
令和ではインターネットが当たり前となり、情報やコミュニティがほぼ民主化されている。
そんな今日において大小問わず開かれた"世間"は、多くの選択肢を与えてくれるからこそ、選択の自由に苦しめられないよう、自分自身で決断することもある種の教養ではないかと思いました。