阿部謹也のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
内容はかなり本格的で重い。でも読んでいくと筆者と一緒に謎解きをしてるような感覚がして、それが面白くするすると読めた。
ハーメルンの笛吹き男の伝説を当時の一般庶民や更にその下の被差別階級の人たちの生活や文化をもとに紐解いていくという内容で、ハーメルンの笛吹き男自体の検証も興味深かったけどそれと同じくらいあまり語られることのない庶民の置かれな状況や歴史を知ることができるのが魅力的に感じた。
差別や階級化をされる側の描写が現代の基準から考えるとあまりにも悲惨で、そういった感情の発露として口伝でハーメルンの笛吹き男を含む色々な伝説が語り継がれていったんだなと。
一方で差別や階級を作る側の心情描写も興 -
Posted by ブクログ
阿部謹也(1935~2006年)氏は、一橋大学経済学部卒、一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学、小樽商科大学助教授、アレクサンダー・フォン・フンボルト財団奨学生としてドイツ連邦共和国(西ドイツ)滞在、小樽商科大学教授、東京経済大学教授、一橋大学社会学部教授・学部長、一橋大学学長・名誉教授、国立大学協会会長、共立女子大学学長等を歴任した、西洋史学者。専門はドイツ中世史。サントリー学芸賞、大佛次郎賞等を受賞。紫綬褒章受章。
私はこれまで、著者の著作では、『自分のなかに歴史をよむ』、『日本人の歴史意識―「世間」という視角から』を読んだことがあるが、今般たまたま新古書店で著者の代表作である本 -
Posted by ブクログ
サブタイトルは「ドイツ的とは何か」。
本書はドイツの特異性として、以下を指摘しています。
-ドイツ民族は、ヨーロッパの中央にあるという特異な位置だけでなく、その発端はゲルマン諸部族にあり、それはドイツという表記には直接つながらない。他のヨーロッパ諸国の言語を見ると、フランス人とフランス語のように、それぞれの国の言語は国や民族を示す固有名詞から名付けられている。
-現代の移民政策にあるようにアジール(庇護権)の理念は近代以降も呪術的なものを抱え込みながら生き残っている。
-中世のドイツは帝国としてヨーロッパの中で優位に立っていた。しかしまさにそれ故にドイツは国家形成において他のヨーロッパ諸国か -
Posted by ブクログ
我々は「世間」という言葉に対してどのような印象を持っているだろうか。
Wikipediaには、インド発祥で迷いの世界を表す宗教用語とか書いてあるけど、少なくとも現代日本ではそのような意味で使われることはまずない。「社会」とか「世の中」といったものを表す用語として使われるのが一般的だろう。
本書は日本におけるこの「世間」について、英語の「society」の訳語にあたる「社会」との違い、日本人が自己を形成する上での「世間」との付き合い方、「世間」の中で「個人」はどのような位置を持っているのか、といった観点で論を展開している。
そのテキストとして、万葉集、古今和歌集、方丈記、徒然草、井原西鶴や夏目 -
Posted by ブクログ
中世の再発見
二人の中世史の巨人を招いた対談本。ワンピースに例える中カイドウとビッグマムの海賊同盟並みの二人。
贈与や宴会、市場などのテーマに関しての対談から、日本とヨーロッパの精神の基層をなす中世の人々の考え方を浮かび上がらせるとともに、11世紀頃を境に他の諸国と全く別の文化的習慣を持つに至ったヨーロッパの特殊性についても触れる。特に贈与ではマルセル・モースの贈与論を引いた上で、贈与や互酬関係において人々が繋がりを持っていたとされる。貨幣は貨幣を媒介にしてこれまで関わってこなかった人々と新たな関係性を取り成すとともに、中世の人々は貨幣の持つ呪術性についても信じていた。ゆえに、彼らは死者への -
Posted by ブクログ
これまでの主張がコンパクトにまとまっている。第三章は他章と重複する箇所あり、もう少し削ぎ落せたか...。
個人が尊重されない日本が垣間見れる医師とのエピソードは、他領域においても容易に想像がつく。紡ぎだされる結語は、死が間近に迫ったが故の達観なのだろう。
“世間”関連書籍を通読してから本書を手に取ることをお勧めする。
「日本人にとっては一年を超える目的をたてることは容易ではないでしょう。目的自体はたてられても、それを具体的に実行する手だてを決めることは難しいからです。将来計画を立てることに不得手なのは「世間」の時間意識の結果なのです。~中略~このような「世間」においては学問はきわめて不利な立場 -
Posted by ブクログ
『「世間」とは何か』(1995年、講談社現代新書)の続編です。
本書では、西洋史における「教養」の形成過程が比較的ていねいにたどられ、そこでは個人の完成が目標とされていたことが明らかにされています。ここで著者は、「教養」とは「自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のためになにができるかを知っている状態、あるいはそれを知ろうと努力している状況」だと定義し、「世間」との対峙のありかたによって「教養」を理解しています。その一方で、フンボルトに代表される「リベラル・アーツ」の理念が国家による統制に絡めとられてしまう可能性があることを指摘します。ここには、日本の「大正教養主義」に代表される教養が、