あらすじ
日本人の生きてきた枠組「世間」とは何か。古代から現代まで、日本人の生活を支配し、日本の特異性をつくってきた「世間」の本質とは? ヨーロッパの「社会」を追究してきた歴史家の視点で問い直す。(講談社現代新書)
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Posted by ブクログ
昔から日本人は世間を意識しながら生きている。
そして、多くの人はその世間というものが思い通りにならず、悩むことも多い。
日本から世間という感覚が無くなる、という可能性はほぼなさそう。
世間から逃げたり、全く離れるということも難しい。世間を馬鹿にしても仕方がない。
大切なのは、自分がその中でどのようなスタンス・立ち位置を取るのか、ということを考えること。
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20年来の積読、というか見当たらなかったので、買い直しました。内容はすっかり忘れてるが読んだ覚えある『ハーメルンの笛吹き男』はあったのですが。本書では、いまでも日本人を支配している「世間」がいかに生まれて発展してきたか、文学作品などを中心に追っています。読み終えての最初の感想は、取り上げられている人物はいずれも「世間」との距離感を意識しており、やはり世間を対象化して観察するには隠者にならないといけないのでしょうかね、という事。かといって、その取り上げ方も決して欧米の個人主義礼賛ではなく、そこは相対化しながら各人物の受け止め方を中心に、しかも文学作品を通して描いているのが解釈のオープンさを感じて良かったと思います。もし著者がもう少し長く生きてたら、このSNS で展開される世間をどう思ったでしょうかね。
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日本社会の特有概念である「世間」について、日本の古典や文学作品から読み解いている。教養として読むのもおすすめ。特に最近読んだ『我輩は猫である』の解釈は面白かった。兼好『徒然草』井原西鶴『好色一代男』を読みたいリストに追加。
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歴史的に、個人として生きようとしてきた人たちは皆隠者である、というのが、日本における「社会」のありようを象徴しているのではないか。西洋におけるsocietyとは違って。そして、どんなに隠者として生きようとしても、他者と関わる(子供ができるとか)ととたんに隠者としては生活できなくなる、という。。確かに。。
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我々は「世間」という言葉に対してどのような印象を持っているだろうか。
Wikipediaには、インド発祥で迷いの世界を表す宗教用語とか書いてあるけど、少なくとも現代日本ではそのような意味で使われることはまずない。「社会」とか「世の中」といったものを表す用語として使われるのが一般的だろう。
本書は日本におけるこの「世間」について、英語の「society」の訳語にあたる「社会」との違い、日本人が自己を形成する上での「世間」との付き合い方、「世間」の中で「個人」はどのような位置を持っているのか、といった観点で論を展開している。
そのテキストとして、万葉集、古今和歌集、方丈記、徒然草、井原西鶴や夏目漱石、永井荷風などの日本文学作品を用いており、それら作品内で描かれた「世間」について考察しながら、日本における「世間」の捉え方の変遷を浮かび上がらせている。
一橋大の学長も勤めた著者は専攻がドイツ史とのことなので、てっきり日本と西洋の「世間」の違いを比較して論を進めるのかと思いきや、前述したような日本国内の文芸作品の解題だけでほぼ一冊を費やしていたのでちょっと意外だった。もちろんこれはこれで意義深い作業だとは思うけど、やはりこれだけでは「世間」というものの解説本として物足りなさは残った。
かつて「世間」は海や山や川のような自然界の出来事も包含していたとか、好色が恥ずべきものとなったのは近代以降とか、漱石は「社会」と「世間」の区別をなしえなかったとか、興味深いこともいっぱい書いてあるんだけどね。
実は本書の続編にあたる『「教養」とは何か』のほうで西洋との「世間」の違いについて掘り下げており、こちらはそこそこ難解なので感想を書けるかどうか分からないけど、本書のタイトルの答えとしてはこの2冊を合わせて評価しないといけないのかなと思った。
ちなみに序章で大まかな結論は述べられているので、時間の無い方は序章だけ読んでもいいと思います。
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世間とはよく聞く言葉であれど世の中とか、社会とかといった言葉とはニュアンスが違い『自分が関わっている比較的小さな人間関係の環』と説く。
夏目漱石の『坊ちゃん』、吉田兼好の『徒然草』等を時代背景と共に参照しながらの解説が面白い。いずれもまだ読んだ事はないけど…。
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わずらわしいと感じる人とのつながりの中に世間があり、個人よりも強い世間。その世間に嫌気が差した先人たちから、世間の姿を捉えてみようとする本。
今の日本もそうだけど、欧米の個人の人間関係があってこその社会と、個人を押し殺して優先する世間は全く違うというのは納得した。
昔も今も世間が嫌いな人はいるんだね。自分の心を代弁してくれてるのかと思った。私は隠居するほどの勇気はないけど。
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日本人特有の「世間」を考察した本。
歌、仏教、漱石、藤村などから様々な時代の「世間」を捉えている文章は面白い。
色々あって大学のゼミで読んだ本だったけれど、文芸思潮や社会学をかじるのには良いかも。
Posted by ブクログ
昔からあるようでなかった、日本特有の人間関係「世間」について考察した本。
近代西洋の自由で平等な「個人」を前提とする「社会」が普遍的で抽象的なのに対し、日本独特の「世間」は具体的、その外にいる者に対し排他的、長幼の序・互酬の原理が根付いている、情理や感性と関係が深い、無情、世知辛い、ままならないものと捉えられていた、といった特徴を持っている。
そんな「世間」の共通項は万葉の時代から続いているとされる。そして、第一章以降で、日本の奈良~平安時代、鎌倉時代、江戸時代、明治時代において、「世間」がどう捉えられていたかが述べられている。
良い意味で情緒的、悪い意味で閉鎖的な「ムラ的」であるとされる日本だが、人々が世知辛さを感じながらも、そんなムラ的な「世間」が続いたのは、彼らが「世間」に生活の指針を与えていたからなのだと思った。
我々は世間をなくすのではなく、世間とどう向き合っていくかを考えていく必要があるのだろう。なかなか面白く読めた。
Posted by ブクログ
世間ってなんだろう。
その実態はかなり狭く、社会と等値できるものではない。
ヨーロッパの場合には、中世以来諸学の根底に共通の哲学と神学がある。わか国はそういう基盤がないのに明治以降共通の世界観を基にして生まれた西欧流の学問形式が用いられている。形だけの模倣は、一般の人々の意識から程遠いものだったそうである。
兼行、親鸞、西鶴、漱石、荷風、光晴をたどって世間を読む。
ちょうど、それからをよんだとこだったのでタイムリー。解説みたいなものだから本文を知ってた方がわかりやすいと感じた。個人が日本の社会と世間の中でいかに生きていくかという問いに答えようとした1つの試みだったそうである。
門の宗助とおよねはそれからの代助と三千代の後の姿と読むこともできると書いてあり、読んでみたくなった。
人と人の微妙なズレが描かれてるみたい。
漱石が個人と社会の関係の問題で、作品の中では、世間や社会に背を向けた立場を選んでいるところが良いなあと思う。
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学問研究の場も含めて、日本社会のありようを大きく規定している「世間」という思考と行動の枠組みについて考察している本です。
本書では、兼好法師や親鸞、井原西鶴などのテクストを通じて、日本社会における「世間」という枠組みがどのようにして形成され、またこれらの人びとが「世間」に対してどのように向きあってきたのかということを論じています。そのうえで、夏目漱石や永井荷風、井上光晴といった近代以降の作家たちを例にとりあげ、西洋近代の文明と学問を導入した日本に生きる彼らが、なおも人びとの考え方を規定しつづけてきた「世間」ととヨーロッパ文化との矛盾のはざまで格闘してきたことが明らかにされています。
本書をはじめとして、著者は多くの著作で「世間」について考察をおこなっていますが、その嚆矢となった一冊ということで、著者の基本的な問題意識がかなり率直に語られています。もっとも本書では著者の「世間」のとらえかたが十全に語られているとはいえず、まだ問題の外堀をめぐっているという印象です。山本七平の「空気」論ほど融通無碍な議論ではないものの、無手勝流の日本文化論に見えてしまうところも否定できないように思います。
ひとまずは、こうした日本特有の社会的なありようを克服されるべき前近代的遺物としてしか見ようとしなかった大塚久雄や川島武宜らの立場とは一線を画しているということができるでしょう。丸山眞男のばあいには単純な啓蒙主義と割り切ることができないところがあり、著者の議論にかさなるところも多いように思われますが、学問論という視座から「世間」という問題に切り込んでいるところに著者の「世間」論の大きな特色があるといってよいと思います。
Posted by ブクログ
約20年振りに再読。当時の私のオツムでは理解、消化、吸収できなかったことが少しはできるようになった感はある。自分が身を置く世間の掟、長幼の序と贈与・互酬関係は。生きづらさを感じたこともあり、それこそ隔世というか、その環から避けてきた、背けてきたこともあるし、何を血迷ったのか再度、その環に飛び込んだことも...。世間は変わりつつある。それは地域コミュニティの崩壊という当然の帰結なのだろう。
Posted by ブクログ
とてもわかりやすい「世間」の解説本。「世間」について疑問を投げかける一方で、「世間」がなくなったら日本人は生きていけないという一面があることをも指摘する。
しかし、岡本公三の父親が息子に極刑を望んだのは、自分に対する世間の名誉を優先しているからという理由は「?」だった。それは単純すぎる。そうじゃないかもしれないよな。もし極刑に値する事件を息子が起こしたなら、(もちろん何から何までとことん聞いた上で、そこに一抹でも息子に情状酌量の余地があるもの以外ならば)きっと私が親なら極刑を望むだろう。
Posted by ブクログ
日本歴代の文学・思想から「世間」とは何かを探る。
面白いのは西欧の歴史研究者である阿部先生が、日本の「世間」をテーマにすること。例えば漱石や荷風のように一旦海外での生活をして日本文化の相対化をしたのだろうか。また著者は学長まで勤めており、専攻分野の割りに(偏見?)実務的な世界、すなわち「世間」とも決して疎遠ではなさそうに思える(勝手な想像ですが)。
挙げられた事例の中では、真宗の一種の合理主義に関心がある。他は特殊な一個人の思想とも言えるが、真宗はまさにある文化の層を形成しているから。中井久夫もなにか一向宗地域の特異性を指摘していた記憶が。。。
Posted by ブクログ
歴史的名著ということではあるが、正直1~4章はほぼ斜め読みしてしまった。
まず、社会学的分析ではなく、文学からの分析であること。この方法に慣れておらず、もっぱら社会学的な分析を期待してこの本を読むと、かなりの違和感があると思う。
ただ、やはり歴史的名著と呼ばれるだけあって、「世間」というものを考察しようとしたのはそれだけで歴史的な出来事だと思う。
おそらくポイントなのは、「社会」ではなく「世間」なんだというところなんだろうな。日本人は本当に複雑怪奇。
Posted by ブクログ
読み終わって、今こそ「世間」を「世界」というものに拡張すべき時に至っているのではないかと思った。
ここ最近、フライングタイガースとか第二次大戦前から大戦中、朝鮮戦争まで戦争について調べている。だが、もちろん。ソフトにflight jacket。いたってファッショナブルな営為である。
そんなこんなも含めての世間について考察したわけだが、詩人の金子光晴が関東大震災の後、日本人が戦争に近づいているのを微妙に感じ取っていたと看破していたらしいという記述があったのには驚いた。
まるで、今の忌野清志郎である。地震のあとには戦争がやって来る。そのままではないか?
なんか、時期だったのだなぁ…
しかも、世間は、個人の脳の中にある。ということを確信してしまうような内容だった。いいのか悪いのか…でもまぁ、わたしはまだ生きている。
Mahalo
Posted by ブクログ
遠慮してしまいます。
なんだか申し訳なくなってしまうのです。
「もっとこうしたほうがいいのに」「なんでああしないのか」「こうすればきっとうまくいく」……。
色々なことが頭をよぎります。
でも、それを口にすることはありません。
だって、そうしてしまえば「調和」が乱れてしまうから。
「調和」は日本人の美徳とされ、日本人の特徴の一つともされる。真偽のほどは確かではないが、日本人ほど「世間」を気にする民族はいないとかなんとか。では、その『「世間」とは何か』……? これをきっちりと説明できる人が、どれほどいるだろうか。
日本人は「世間」を気にする一方で、「世間」に無頓着であった。「世間」が「何」なのか、よく知らないままにそれを恐れ、「調和」させようとする。本書は――言うまでもなく「世間」から「名著」として評価されているが――「世間」の正体に迫ろうとする、言わば試験的な一冊である。
【目次】
はじめに
序 章 「世間」とは何か
第一章 「世間」はどのように捉えられてきたのか
第二章 隠者兼好の「世間」
第三章 真宗教団における「世間」―親鸞とその弟子達
第四章 「色」と「金」の世の中―西鶴への視座
第五章 なぜ漱石は読み継がれてきたのか―明治以降の「世間」と「個人」
第六章 荷風と光晴のヨーロッパ
主要引用・参考文献
おわりに
Posted by ブクログ
コレ高校生くらいに買ったような気がする笑 いま大学まで終えてやっと読み通したけど、やっぱよくわかってないと思う笑
「世間とは何か」と言う問いを、日本の文芸作品での使われ方を集めて考える。って企画かと思ったけど…。「世間」という言葉をまず決めて、それを軸に文芸批評を行った。という企画に見えるな。素人目線だけど。
いちおう作業仮説として世間とは…と定義するけど、それがされることはないし。「世間」とは関係のなさそうな文章をとりだして解説されるから読みにくい。
作者の「世間」に対する問題意識ははっきり伝わった。曖昧で非科学的で個人の尊厳を蔑ろにするようなダブルスタンダードとしての世間。現代社会に残るプレモダン要素としての世間。学生時代にちゃんと読めてたらもっとこのことについて勉強したかったなぁ。
Posted by ブクログ
文学を通じて世間という物を分析
世間という言葉は「世の中」とほぼ同義で用いられているが、その実態はかなり狭いもので、社会と等値できるものではない。
自分が関わりをもつ人々の関係の世界と、今後関わりをもつ可能性がある人々の関係の世界に過ぎないのである。
自分が見たことも聞いたこともない人々のことはまったく入っていないのである。世間や世の中という場合、必ず何らかの形で自己の評価や感慨が吐露されていたのである。
これは日本独自のもの
世間には、形をもつものと形をもたないものがある。
形をもつ世間とは、同窓会や会社等。
形をもたない世間とは、隣近所や、年賀状を交換したり贈答を行う人の関係をさす。
世間には厳しい掟がある
1.葬祭への参加に示される、二つの原理がある。一つは長幼の序であり、もう一つは贈与・互酬の原理
2. 世間の名誉を汚さないこと。この背景には「ケガレ」が関係している
Posted by ブクログ
世間とは人と人の関係の環。信仰の基盤のない日本人にとって世間の基準が個人の価値判断の基準となる。世間は、時に権威的で、排他的で、差別的な存在であり、どんな世間に属しているかが問題になる。日本独特の世間と概念がいつ頃から生まれたのか、万葉集から始まり、大鏡、吉田兼好、夏目漱石、永井荷風などの作品から世間というものについて考察を加えた。吉田兼好と夏目漱石は第3者的な立場から世間というものを批判的にみた「徒然草」、「坊っちゃん」、「吾輩は猫である」は多くの人の共感を得る作品となっている。
Posted by ブクログ
”ソーシャル”、”世間”、”空気”などのワードを漁っていたところ、この教科書にも掲載されているような阿部さんの「世間」とは何かに行き着いた。
本書は古典的な書籍から「世間」に関する記述を引用し、その時代時代に応じての「世間」とは何かを客観的に捉えようとした大変興味深い内容だった。
個人的な興味としては歴史的な内容(古典系)は少し省き、明治以降(特に漱石)を中心に読んでみた。
前の鴻上さんの書籍でも指摘がされていたのだが、
社会=Societyには前提として個人=Individualがあるという点があったのだが、日本の場合、組織・社会という単位がメインなので、なかなか社会の定義が難しいという点は興味深かった。
複雑系の社会とはいえ、構成要因は昔も今も変わらず、私たち人間であるために、こういった書籍は時系列を経てもなお色あせることなく、その時代に応じて新たな側面で切り開けることもある。
社会と世間では社会学の分野ではあるが、この境界については様々な分野、またアニメなどでもテーマとして取り上げられることがあるので、一読する価値はあるのではないだろうか。
Posted by ブクログ
阿部謹也連読。
最近ソーシャルメディアが騒がれているので、ソーシャルとは何かを自分なりに考える為に再読した。
世間とsocietyの違いが「実名」と「匿名」の違いに繋がるのではないかという、自分なりの気づきがあった。
だが、何よりも読んでて感じたのは、著者の「孤独」。別に著者の気持ちが書かれているわけではないが、金子光晴の引用は、著者の気持ちを代弁しているようで、響いてきた。考えすぎかもしれないけど。
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
古来から、日本人の生き方を支配してきた「世間」という枠組。
兼好、西鶴、漱石らが描こうとしたその本質とは。
西洋の「社会」と「個人」を追究してきた歴史家の視点から問い直す。
[ 目次 ]
第1章 「世間」はどのように捉えられてきたのか
第2章 隠者兼好の「世間」
第3章 真宗教団における「世間」―親鸞とその弟子達
第4章 「色」と「金」の世の中―西鶴への視座
第5章 なぜ漱石は読み継がれてきたのか―明治以降の「世間」と「個人」
第6章 荷風と光晴のヨーロッパ
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
Posted by ブクログ
<本の紹介>
古来から、日本人の生き方を支配してきた「世間」という枠組。兼好、西鶴、漱石らが描こうとしたその本質とは。西洋の「社会」と「個人」を追究してきた歴史家の視点から問い直す。
「世間」とか「社会」とかって言葉の違いをあんまり意識したことはなかった。
でも、話し言葉では「渡る世間に」とか「世間は狭いね」とか、「世間」を使うことが多いように感じる。
逆に、「社会」って言葉は文字として見ることが多い気が。教科書とか、新聞とか。
おもしろいなーと思いました。
自分を日本人の代表だとは思わないけど、日本に生まれてずっと日本に住んできて、やっぱ見える範囲は大きい社会じゃない。もっと狭い、自分と関わりのある人たちの範囲を自分の社会として見てるんだろうなって思いました。
多分、それぞれの人たちのその範囲を「世間」って言って大きくずれてないと思うし、自分が今までに大事にしてきた人たちも、これから大事にしていきたい人たちも、この「世間」の中に入る人たちだったりする。
本の中では、同じ電車に乗ってる人でも自分と関わりのない人に迷惑がかかってもそこまで気が回らない人も、自分と一緒に乗ってる人に同じことされると気分を害したりして、そこに境界線があるんじゃないかって書き方をしてて、「たしかに」とか思っちゃいました。
その「自分の世間」の範囲を広げていければって思ってもいるし、年々広がっていってるような気もするけど、だからと言って世界中の人たちとつながろうとまでは思ってない。そこまで大きな社会で生きているわけじゃない。
ただ、世界の人たちは「6次の隔たり」でつながっているわけだから、自分が自分の周りにいる人たちと楽しく笑って過ごしていくことを続けていければ、それを受け取った誰かがまた他の誰かにつなげていければ、いつか世界の裏側の人にも届くんだ。だから、自分の世間を大事にしていこう、と改めて思いました。
あと、日本特有の文化として、こんなこともあるんだそうです。
・世間を騒がせたことをお詫びしたい、という言葉は
英語やドイツ語に翻訳することができない。
・宝くじにあたると日本では世間をはばかって隠したりするが、
アメリカでは新聞に堂々と顔写真がでる。
個人的には、そんな日本の文化の方が好きです。
周りにいる人たちのおかげで、自分も活きる。
自分がいることで、周りにいる人たちが活きていく。
自分が今いるのは、両親はもちろんたくさんの人たちのお世話になってきたからだ。
だから、その人たちに自分にできるだけのことを返せる人になりたいです。
そして、もらった分は自分たちだけのものにせず、自分の同世代や後輩たちに確かにつないでいけるといいなと思います。
この本が明らかにしたかったことは全然違うのかもしれないけど、周りの人たちの存在とか、その人たちとの付き合い方について考えるいいきっかけになった本でした。
Posted by ブクログ
「世間」に関して分析的に考えるというよりも、世間に囲まれて生きている中でなんとか世間を対象化しようと試みた人たちの文学作品を通して、世間を捉えてみようという試み。
なので、最初に出てくる世間の定義(個人個人の関係の環)や世間の掟(長幼の序と贈与/互酬の原理)がその作品の分析から引き出されてくる訳ではない。
作品の解説は、万葉集から始まり、徒然草、親鸞の思想、西鶴の諸作品、夏目漱石、永井荷風、金子光晴に至る。