勅使川原真衣のレビュー一覧
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以前読んだ「『能力』の生きづらさをほぐす」の続編。前回の著書と内容的に重なるところが多かったように思います。
副題にあるような「能力主義」を超えて働くために、社会がどう変わっていくべきか、ということの提言で、個人というより、地道に社会が変わっていかなければならない、という趣旨でした。章のタイトルに「終章まとめ…ず視点を託す」とありますが、明確な解決策はなく、著書のような専門のコンサルが入っている大企業ならまだしも、そうでない大多数の人間にとっては、こうした視点をもちながら、徐々に社会を変えていかなければならない、という将来を見据えた話になると思いました。
以下、目次と要旨●をまとめました。
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既存の学歴論争は日本の雇用慣習が前提とされており、そうした慣習を変えない限りは従来の学歴論争は不毛であるということが著者の主張だと解釈しました。
その上で、著者は組織開発を専門とされていることから、会社組織の仕組みを変えるべきということを大胆に提案しています。確かに、巷での学歴論争が不毛であるという著者の主張には説得力がありましたが、では著者が本書で主張する組織開発の方法が、果たして不毛な学歴論争に終止符を打ち、実際に雇用する側も働く側もWin-Winな関係になれるのかどうかは、あくまで著者の提言の域を超えず、実効性があるのかどうかはあまり響きませんでした。 -
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会社の方に勧めていただいた一冊です。
格差、自己肯定感、ガチャ、自己責任、
リスキリング、タイパ、ウェルビーイング…
どの言葉もよく目にも耳にもしますが、
それって本当はどういうこと??
矮小化して、簡略化して、わかった気になっていない?
そこに潜むモヤモヤや違和感について、
問いから始めようという感じでした。
(著者の意向を100%キャッチできてる自信ないです苦笑)
本書ではインタビューなどで交わした言葉や、
その方への解釈?コメント?についても
話が及んでいる箇所があり、
私もここに書いていることが
的外れだったら…という不安が。苦笑
分けること。分かること。分け合うこと。
問題設 -
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学歴とは何か。なぜ現代の日本では学歴を重要視するのか、また、学歴=有能を指すのか。様々な視点で、学歴社会である日本へ問いを投げて分析している本である。
本著では、学歴とは「頑張れる人の指標」であると述べている。一流大学に入るために幼少期から莫大な資金と教育と時間を投入し、その人が長期間に渡る我慢強さが「頑張れる人」として見られメンバーシップ型雇用へと進む。これが学歴社会を支える要因の一つであると述べる。
私は、学歴自体は別にどこの大学でも良いと思う。だが、その学校を何故あなたは選び、学校生活で何を体験し、何を学び、何を得て、何の高い問題を乗り越えたかが必要な要素だ。
学歴だけで人を判断するのは -
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現代に蔓延る選び選ばれる能力主義。それは本当に正しいことなのかと疑問を投げかける本。とても丁寧に書かれた本だと感じました。こうするべき、真実はこうだ、などという主張ではなく、こうも考えたらどうでしょうかという優しく語りかけてくるような感じでした。
「自分の在り方」に無頓着なままの問題解決などそうないのです。
他人選ぶ視点ではなく、自分のモードを選ぶ視点を持ちたいと思いました。
ただ、この本は広い視野が必要になる本です。視野を広く持つと物事を多面的に見れる代わりに分かりやすい結論がなくなります。そのためこの本を分かりにくいととる人もいるような気がします。(それこそが他人と働くことだという筆 -
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現代人の生きづらさはわかる。
チームメンバーで感想共有したが、みんなうなづきながら聴いていた。恐らく共感する部分があったのだと思うし、当社も能力主義に基づく選民思想全開で人事研修、昇進昇格を決めている。そんな仕組みの中では選ばれることへの喜びは変わらず存在するものの、生きづらさも変わらない。マネージャーを目指さない若者も減らないように思う。
自分のモードをえらぶこと、理論的にはわかるが、モード自体が能力と読み換えることもできてしまうのではないか。役割に関係なく多くの方に読んでもらい、こういう考え方があることを知ってもらいたいと思った一冊。 -
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面白かった。
より良い社会を目指す先にある、タイパ・自己肯定感・成長・能力等など,,の言葉に疑問を投げかけている本。
問題を見つけた時に何かしてないと落ち着かないから、
表層的な回答に飛びついて、解決した気になっている状況ってよくあるよなと思った。
なぜそうなっているのかや構造上の問題をとらえないと本質的な解決はしない。
でも一周回って、
社会を前に進めてる多くの人は本質的な解決なんて求めていないんじゃないかなと思う。
何から行動して解決した気になれて、周りも「あの人は行動した、よくやった」って評価されるし、自分も「これだけやった」って納得できる。
本質をとらえようと時間をかける方が「 -
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今いる場所をどう捉えてその問題を解決していくかという点には一定の方法論かもしれないけど、働くということ全体を語り切れるわけではないように感じる。個人の立場からすれば何かの「能力」という型にはめられて評価されるのは嫌だという気持ちはわかる。ではどうすればいい?働く人誰もが評価される立場になることは避けられない中でどこまでミクロのレベルまで個々人に寄り添うことができるか。そして個々人の集団として競争が必要な資本主義社会の中で生き残ることができるのか。明らかに問題にぶち当たってしまった人は助けなければならない。でも社会全体がそこから降りるのを答えにはできない。とするとどうすればいいのか。
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「傷つき」という言葉にモヤつきがある。著者はそれを、職場で役割の関係性がうまくいっていない時に生まれるものだと言うことを言っていてそれはそうだと思うのだけれど、一方で「ハラスメントされました!傷つきました!」と言う逆パワハラのような声も組織にはあったりする。なので「傷つくということを認めるところから始める」ということは、大事だと思いつつも、あまり能天気に首肯できない、という感じがする。「傷つく」と概念はかなり幅が広いので、本当に個人的ないざこざみたいなものまで一緒くたにされてしまうのではないか、という懸念も自分にはあるように感じる。もう少し違う概念を使った方がいいのではないか?という気もするの
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ネタバレ「能力主義」の言う能力というのって本当に正しいのですか?という前提から能力主義の現状を見直してみようという話
能力はちゃんと定義できないし、そもそもみんなで働いてるんだから個人の能力は胴回りと影響するかを考えるべきであって、その人にこの能力がないとか、あの能力はあるなとかという話ではないのではないか?そこには反対しないのですが、それであっても人を選択する場面というのは出てくるんじゃないかと思いました。業務に適正がないとか、シンプルな経験不足とかで選択しないってこともあるのではという気がします。
ちょっといい替えると、みんな得手不得手はあるんだからそれそれ活躍できる場を作って行きましょうとい