ミラン・クンデラのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレシュール。皮肉的で滑稽でさえある。でも不思議と、充実感のある満ち足りた小説であるように感じた。それまで一見バラバラに進んでいたいくつかの物語が、山場になってドミノ倒しのように連続して影響を与えているのが面白かった。
クンデラ作品は存在の耐えられない軽さに続いて二冊目だが、もしかして作者は尻の穴がとてつもなく好きなのか...!?と困惑している。‘‘おどけ‘‘で、真面目な雰囲気をぶち壊すために入れられているのはもちろん理解しているのだけど、それにしたって、いや、...。ちょっと捉え方に困る。実はエロとみるかギャグなのか私の心が揺れてるだけなんだ。面白い。
スペクタクル、というテーマは現代的だなと思った。インターネットという不特定多数または身近な見知った顔ぶれに自分を”魅せる”ためのツールがそれを助長させているようにも考えた。非倫理的な言動がここ数年でさえも、厳しく取り締まられるようになったと感じるが、モラルの柔道は一部の自分が正義だと信じて疑わない活動家なんかによくみられる気がする。
ひっかかったのは快楽主義のくだりだ。幸福と快楽の概念が混ざっているように思う。日本語の問題なのか、もとからいっしょくたにされているのか。澁澤龍彦の調教済な私のあたまの問題なのか。それによって「お願いだ、友よ、幸福になってくれ。私にはなんとなく、私たちの唯一の希望が、君の幸福になる能力にかかっているという気がするのだ。」の解釈が変わる。希望はおそらく快楽主義の理想のことだ。けれど冒頭で快楽主義は苦しみを遠ざけることだという。悲惨さのなかになげだされた人間、とあるから快楽は前提として苦しみが必要なのに。
きっと重要なのは一度きり、明日はない、というところなのだろう。ドゥノンの小説のほうも読んでみたい。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ最初のうちは面白く読んでいて、付箋なんかもつけたりしたのだけれど、半分も読み進まないうちに何を読まされているのかわからなくなる。
今は誰の話を、なんの話を、いつの話を読んでいるのか?
物語の大半は理解できないうちに零れ落ちてしまったけれど、なんとか少しでも掬い取れたらいいのだが。
ふと見かけた見知らぬ女性の、軽やかにひるがえる手の動きを見て心を惹かれた私は、その女性にアニェスと名付けて、彼女の家族とその関係性について思いを馳せる(妄想する)。
アニェスの母は、家族や友人たちに囲まれて生きることに喜びを感じる人だったが、アニェスの父や彼女は、人と離れて生きることに安心を覚えるタイプだった。
”彼女が求めていたのは、彼らがときどき便りをよこして、身辺に厄介なことはなにも起っていないと請け合ってくれることだけだった。それはまさしく言いあらわしにくく、説明しにくいことだった。彼らに会いたいとも一緒に暮らしたいとも望んでいないのに、彼らが元気でいるかどうか知りたいという彼女の欲求は。”
序盤に出てくるこの文章、「わかるわ~」と思った。
アニェスが夫や娘に対して、一緒に暮らしたいと思わないけれど、元気かどうかは知りたいと思うこと。
でも、私がいつでも同居できる状態での別居を求めているのに対して、アニェスは最後まで同居を望まない。
望まないのに別れることができなかった不幸。不幸?
アニェスは別に不幸ではなかったな。幸せでもなかったかもしれないけれど。
そして、姉の生活に容赦なく入り込んできては振り回す妹のローラ。
彼女のエキセントリックなほどのかまってちゃん言動は、読んでいるだけでしんどい。苦手だ。
不滅。
不老不死とはまた違う。
体は死んでも思いは残るとか、作品が残るとか、思想が残るとか、生きてきた証が残れば、その人の存在は不滅なのかもしれない。
偉人だけではなく、今ならSNS上に、永遠に顔や姿が、発言が消えることなく残されてしまう。
この作品が発表されたときはアルバムの写真の中だったけれど。
”あたしが子どものころ、誰かの写真を撮りたいと思うときには、かならずその人に承諾を求めたものだったわ。(中略)そのうち、いつか、誰もなにも頼まなくなった。カメラの権利はあらゆる権利の上のほうへと高められて、そして、その日からすべてが変わってしまったのよ、完全にすべてが”
”ジャーナリストの力は質問をする権利にもとづくのではなく、答えを強要する権利にもとづくのだ”
30年前の作品とは思えないほど、今の社会にも当てはまる。
というより、30年前よりも、今だ。
アニェスに関する私の妄想部分はまだしも、ゲーテと彼の恋人たちの話や、ゲーテとヘミングウェイの対話、ルーベンスの恋愛事情と、どんどん話は難解に、構造は複雑に、そこにまたアニェスやローラやポール(アニェスの夫)の人生も絡み合って、もう何が何やら。
作者のミラン・クンデラはチェコの作家なのだけど、フランスの作家の小説を読んでいる気がしてしょうがなかった。
多分それは、思想のど真ん中に恋愛や性愛や宗教の愛が動かしようもなく存在しているからなんだろうと思う。
苦手なのだ、そういう作品。
だからそういうものに囚われまいとするアニェスのパートが好きなのかもしれない。
最後のほうに出てくる「リュートひき」は、てっきりローラだと思ったんだけど、アニェスだった。
言われてみれば、アニェス以外の誰でもないとわかるのだけど、サングラスに騙されたよね。
やれやれ。
”彼は死に対する戦闘と、生にたいする闘いのことを語る……「闘い」という単語が、短い演説のあいだに五度繰りかえされ、我が昔の祖国プラハを私に思いおこさせてくれる、赤旗、ポスター、幸福のための闘い、正義のための闘い、未来のための闘い、平和のための闘い。万人による万人の破滅にまで至る平和のための闘いと、チェコの民衆の智慧はそう付けくわえるのを忘れなかったけれど。”
これもまた多分に現在。
チェコではなくウクライナで。
万人による万人の破滅にまで至る平和のための闘い。
経験者の語る、これほどに深く真実をえぐるような言葉があるだろうか。
だがこの作品のテーマは〈不滅〉なんだな。
ああ、とてつもなく理解が遠い。 -
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ミラン・クンデラの初の長編作品である本作。冒頭、故郷の街に降り立ったルドヴィークの目的も過去もまったく見せずに始まるこの物語は、語り手を替え時代を行き来しながら展開し、少しずつ彼と彼に関わる人々の背景や生き様を明らかにしていく。まずこの構成に引き込まれて、一気に読んだ。
1949年、前年の二月事件によりソ連型共産主義政権が樹立したばかりのチェコスロバキアで、党を支持する学生の一人として時流に乗りながらも、ごく普通の若者らしく恋に懊悩していたルドヴィーク。彼が離れた場所で過ごす恋人の楽しそうな様子をやっかんで書き送ったほんの「冗談」のつもりの葉書が、党、そして大学から彼を追放するに至る運命の転換を招く。15年後、辛い炭坑労働を経て研究者として生活を立て直した彼は、この事件の背後にいた恋のライバルへの復讐を胸に故郷へと戻ってきたのだった――。
語り手となるのは、ルドヴィークのほか、彼の現在の恋の相手であるヘレナ、故郷の街に住む幼馴染のヤロスラフ、ルドヴィークと同じく党ににらまれているキリスト教的共産主義者のコストカ。ルドヴィークの復讐に一役演じるヘレナは別として、ヤロスラフとコストカは彼の過去とも関わる人物であり、また、彼ら自身、一人の人間としての弱さ、主観的な正義にとらわれながら懸命に生きている男たちでもある。
「冗談」が冗談として通じない世界、そんな世界の不正義を憎み、自らを陥れた友人とその声に和した仲間たちを憎んだルドヴィークは、復讐計画の思いもよらない展開と、炭坑時代の真剣な恋の相手・ルツィエをめぐる真実を知ったことで、この世界そのものによる「冗談」の中に自分が含まれているのだ、と不意に気づく。世界=歴史には理性や真理などない。人も、行為も、いずれ忘却され、時の中に消えていく。意図や思想による差別化のない忘却、大きな「冗談」としての無意味な世界=歴史の中では、個人のちっぽけな人生も無意味で、過去への憎悪も、復讐も、恋の思い出でさえ、何とも軽く、空しいものでしかない。
モラヴィアの民俗芸能の伝承に心を注いでいるヤロスラフ、自らの熱意の正当性に自負を持ち、一番近しい存在である息子もその熱意を引き継いでくれるものと信じている彼も、準備を重ねた祝典行事の場で、彼の目に見えていた世界とは全く異なる真実を知る。共産主義とキリスト教徒としての信仰の重なりに揺るぎない信念を持つコストカも、独白の果てに信仰を口実として利用している自分自身に気づき、激しく動揺する。
裏切者への憎悪。真剣な恋。伝えていくべき民族の文化。仕事や愛より優先すべき神の声。すべては「冗談」のごとき幻影であり、止まることのない流れに運び去さられ、忘れ去られるだけのものだとしても。そんな感情、熱意、信仰を抱き、あるいは放擲し、そしてまた愚かしく立ち戻る、無意味で空しい人間一人一人の人生は、無意味さ・空しさと共にあってなお、たくましく、まばゆく、愛おしい。
個人的にとても好きな、クンデラの、シニカルなようでいて根底に人生や生命に対する愛を感じる眼差し。そんな彼らしい個性が、初長編作品のこの作品でも存分に発揮されていた。後の作品に繋がるテーマも随所で顔を覗かせていて、その点も興味深かった。
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男と女の物語は地球上どこにもあるけれど、文学上の創作上の高尚とも思える比喩が普遍になって、やっぱり卑近に戻ってきたという感想だ。
「永劫回帰」などと、のっけから難しいと思わせるのが文学で、トマーシュがドンファンで、恋人となったテレザがかわいそう、と同情するのが普通でわかりやすいのか?
このふたりのお国がチェコだから運命の歯車が狂ってきた?
チェコ、遠い国の運命は北朝鮮の拉致事件が明るみに出てしまった今の日本でものすごくよくわかるということ。
あれかこれか、あのときああすればこうならない。
と、思っているひとが多いかもしれない。
運命?
なにがどうなって、こうなってくるのか。
あなたがわるい、いやわたしがわるい。
でもだれにもとめられない。その時は選んでいるのだろうから。 -
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ネタバレ作中で、作者はエピソード(エピゾード)のとるにたらなさを語っている。だけれど、本作で伝えられているのはそのエピソードの威力にほかならない。私たちの存在を支え、他者に印象を与え、思い出させるのはエピソードであって、私たち個人そのものではない。
キャラクターの魅力でいうと、ファザコン極めたアニェスの高潔さが好きだし、ヒステリックで自己愛が過ぎる(でも、自分に自信がない)ローラの身勝手さには苛々する。ポールの空しい若さ崇拝や半分意識的な無神経さにも。
でも、最後にアニェスの仕草でポールをつなぎ止めるローラや、その仕草を嬉しがるポールには、スカッとするような可哀相になるような、不思議な気持ちがした。「シャボン玉の中へは庭は入れません まわりをくるくる廻っています。」という詩があって、アニェスに対するローラとポールの関係には、そんなイメージが似合う。
でもさぁべつに、アニェスは自分の仕草を覚えていられようが、どうでもよかったし、むしろ、記憶に残るのが嫌だったんだよね。お父ちゃんのように生きて死にたいっていう気持ちにとりつかれた変な女だったわけで・・・だけど、なんでかそんなこと忘れて、夫子供捨てて好きなことしてるアニェスかっけーって思っちゃう。
だから「不滅」は、そこに収められたたくさんのエピソードを以て、不滅の恐ろしさと輝き、翻って、忘れられることの価値も伝えている・・・、気がする。
あと、作者が女の子の身につける、今でいうワイドパンツ?やカジュアルな服装を憎みに憎み抜いていて笑った。 -
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・ミラン・クンデラ「冗談」(岩波 文庫)は 「作家自らが全面的に手直しした決定版を定本とした新訳。」であるといふ。これは販売用のコピーなのだらうが、ごく素直に読めば、クンデラのチェコ語原典版からの翻訳と解せる。ところがさうではないのである。訳者解説中にかうある、「〈プラハの春〉も〈ビロード革命〉ももはや遠い過去になった二一世紀の現在、もっぱら一個の古典的文学作品として読まれることを願う岩波文庫のこの新訳は、原著者の強い要望に沿って、八五年のフランス語決定訳を収めた二〇一一 年刊行、フランソワ・リカール監修のプレイヤード版を定本としている。」(525頁)だから決定版で旧訳とは違ふのだといふわけである。では、なぜクンデラはチェコ語版を差し置いてこんなフランス語版を作つたのか。大きな誤解があつたことにクンデラが気づいたからである。西欧では「冗談」が「ソ連を中心と する社会主義諸国の社会の実態を暴露し、糾弾する政治・イデオロギー的文書として読まれ」てをり、その文脈で訳もなされてゐた。つまり、それまでの訳は誤 解と誤読の上に成り立つた訳文であつた。これを知つて「衝撃を受けたクンデラは」(524頁)決定訳を求めたのであつた。
・わざわざこんなことを書くのは、さう読んだ方が安直で手つ取り早くて分かり易いと私も思ふからである。「冗談」の初版刊行は'67年であ る。この翌年はプラハの春であり、それがソ連の戦車で蹂躙された年である。東西冷戦の真つ只中である。従つて、このやうな内容の作品が出てくれば、西側の 人間は「政治・イデオロギー的文書として読」みたくならうといふものである。現在でも事情はさう変はらないやうな気がする。ソ連邦は消滅しても中共の支配する中国はあるし、その隣には北朝鮮もある。かういふ国を横目に見てこの「冗談」を読む時、初めのあたりの党に関する記述が妙に生々しく感じられる。私自身は共産党と関係したことは一切ないが、かつて読んだ学生運動等に関する小説に描かれた内容とも重なつて感じられるのである。誤解かもしれないし、私の偏見かもしれない。クンデラにはきつと忌み嫌はれるであらう。しかし、さう読んでしまつた方がどれほど分かり易いことか。またある意味、安心できることか。 時の西欧の人々も同じであつたのかもしをれない。ところがさうではないらしい。当時のチェコでは「人間の実存の小説」(523頁)などと「すこぶる真っ当な文学的受容がなされ」(同前)てゐたといふ。さうか、実存なんだと思ふ。大江健三郎などはそれを正しく理解してゐた(524頁)らしいが、これは類は友 を呼ぶといふことであらう。その点、私はそこに入らないわけで、今に至つてもまだ先の誤読をしたがつてゐる。3日間か4日間の出来事の間に、主人公が己が人生と女性を思ふ……それは確かに「実存」といふことであるのかもしれない。サルトルの「戦後史の実存的経験、ヨーロッパ左翼の神話の崩壊という主題」 (526頁)といふ言ひ方はまだ分かり易い。「存在の耐えられない軽さ」などはこの例であらう。つまり、やはりこれは「政治・イデオロギー的文書として 読」むしかないのではないかと私は思ふ。ルドヴィークの人生は党なくしてありえない。党員になつてしまつたからには、たとへ反党活動で除名されようとも、 党から逃れることはできない。それが共産主義国家といふものであり、そこに生きる主人公ルドヴィークの人生なのである。そんな人生に重きを置いて読んで理解するかどうか、これが分かれ目なのであらう。それなりにおもしろい作品なのだが、私には岩波書店の望む読み方はできないのであつた。 -
Posted by ブクログ
人々がまるで戦場で死ぬように車で死んでいるけれど、しかし現代人の誇りである自動車を禁止するわけにもゆくまい。惨事のかなりのパーセンテージは、無謀な運転手の酩酊に責任を帰するべきだけど、しかしフランスの遠い昔からの栄光である葡萄酒を禁止するわけにはゆくまい。公共の場所での酩酊の一部はビールによるものだけれど、しかしビールも禁止するわけにはゆくまい、というのは市場の自由に関する国際条約の違反になるだろうから。
↑この皮肉めいた冷静な言い回しがとてもいい。
自我の単一性を開発するには二つの方法がある、足し算的方法と引き算的方法である。
嘘をつくな、真実を言え、はある人間が他の人間を対等とみなす限り他の人に向けてはならない質問である。
悲劇の永遠の条件-人間の生より高いとされる価値ある理想が存在すること。戦争の条件も同じ。
悪を行う欲求とか出世主義の欲求からではなく、知性の過剰からナチスや共産主義に参加した若者を生む?
闘いの章だけ読んだ。いい文章だ。
しかしこの愛や性的なものに関する文章はというか話題自体がどうしても苦手だ。シンプルな現実を闇雲に複雑化するだけのようにさえ感じられてしまう退廃差を伴うからだろう。愛や欲が以外でも楽しいことっていっぱいあるじゃん?と思ってしまう私は少々色気が足りないのだろう。何か狭い世界のぐちゃぐちゃな人間関係に絡みつかれていくという意味で腐敗した政治と近いものがある。その内密生というのがいいのだろうけど、どうも私はオープンにしても大丈夫な人間でいたいし、そういう環境に憧れる。愛やぐちゃぐちゃに絡みあう欲の世界に憧れたり、飛び込む勇気を持てる人なんてよっぽど日常生活が安定していて、生命の危機もなく、退屈さえ感じている人ぐらいじゃないかとさえ思ってしまう。ベーシックヒューマンニーズに焦点を戻してみたらいいのではないか?自分から闇雲に複雑性に飛び込んでいくようなものだ。なんとなくできればその複雑性はもう少し視野と射程が広いものにしたいわけである。これはきっといわゆる急に現れてしまった余剰、余裕の使い方を知らない人たちの物語である。