美しい距離(山崎ナオコーラ)でも感じた、一回きりの人生なら確率など問題ではなく、あるかないかの2択でしかないという不思議さ
「Einmal ist Keinmal
一度は数のうちに入らない。一度だけ起こることは、一度も起こらなかったようなものだ。人がただ一つの人生を生きうるとすれば、それは全く生きなかったようなものなのである。」これは本当に共感できる。一回きりしかないものを対象に確率を考えても、実際に起こったことと起こったかもしれないこと、その2種類しかない。
まるでrctをしたかのように正解不正解を語り推論するのはおままごとでしかない。
65偶然が次々と舞い降りて必然の形によみとれる(カップ底のコーヒーの残り滓が模様に見えるときに
滓に情緒が宿る
278「外科部長の神経痛から咲いた花の彼女、あらゆるEs muss sein!の反対にいる彼女」とあるように、トマーシュは地に足がつくよう重みをのせかけてくる義務や提示されたルートから解放され、軽く浮いている状態もかなりふわりと受容、むしろ好ましく思っているように見える。軽さの中でこそ自分で舵を切り運命の情緒を慈しむことができると思っている節もあるのかな
小説内でいかにも出来レースみたいな流れがあったとして、それは流れを人工的に作り出したのでなく、いつでもそれを流れということのできる何かが現実世界に同様に広がっているのを、ただ流れと同定しただけ。それと同じで人生も偶然性を帯びた切り取りや名付けの連続でできている気がする
77「どこか上へ」と望んでいる状態においては、下に落ちるのが怖いというより、良い方向に向かおうという終わりのない進路(想像力でゴールは肥大して最終到達点がなく、最終到達点がないということは振り返った時に延々と下方への道も続いていく)で歩み続ける徒労感より、重力に引き摺り込まれて定点に位置することで心のざわめきを消した方が心地いいのではないかという誘惑がつよい?それによる眩暈があるのか
目前によりよい景色が広がっているかもしれないという焦燥感を回避するために、想像力も自由意志らしき何かも捨ててしまいたい欲求は理解できる
129
誤りが、それ自体は美しくない無計画な無秩序な要素が、間違いとして存在して、それが美しい
偶然に情緒宿るのと一緒か?
秩序に居場所を見出すフランツ(ヨーロッパ的、美のイメージが先に存在していてそこを目指して建築・創造する
ニューヨーク的な雑多さに自由と、自由な無秩序が先に存在してそこに美という観念を見出すサビナ
サビナはヨーロッパの美のような、行進のような、決められたルートに沿った活動を強要されてきたから美的センスとしても生き方としても、自分で無秩序から秩序(美というラベルや評定)を作り出したい
裏切りを続け自由意志を獲得したいという希求を感じる(その一方で、「その歌はサビナを感動させるが、彼女は自分の感動をまじめにはとらない。その歌が美しい嘘だということはよく知っている。」と、嘘に塗れ、徹底的な裏切りはできない自分を知っているのもなんとも言えない切なさがある
131フランツはドラマティックなものを求めていて本質的な価値とかを信じていそう
皆に尊敬されるような論文とか、そういった突出した輝きに憧れるけど、多量の中に埋もれていく研究で妥協している
そこに、突出(大いなる危険とか勇気とか、恐怖とか)がわかりやすく存在するチェコからきたサビナが現れることで運命(本質的な価値が先に存在するもの)の存在と憧れが再度実感されるようになった
絶対的な価値や運命が世に存在するという前提が染みついているのがフランツ
小説の構想のように、乱雑に散らばっているもの(偶然性)にライトを当てることで必然性を創作する方向性で物事を考えるのがサビナ?
132骨と石の集積所が憩いの場になるのは自分で価値観をあてがうという点でニューヨークの街並みを好むのに類似している
最初からある制度化された美に従うのと、小説創作のように自分で偶然に意味をあてがうのと、結局は偶然性へのこじつけという面であまり変わらぬ気もするが
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フランツは浮気を公にして隠し事をなくすことで透明性をもち真実に近づいたが、それによりサビナにとっては観客ができて真実の存在しないステージに立たせられることとなった
文脈に引きずりこまれ観客のいるステージで無理やり演じるような状況から離れて自由になることがサビナの裏切り
開放感を求めて裏切りを続け、もう裏切るものすらなくなり軽くなったはずなのに空虚感がのこる
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自分で無秩序をナラティブにのせ、自己決定のような感覚で重みを得るとともに、意味づけが恣意的であることで本質的で絶対的な価値や運命などないという軽さが同時に存在する?(後半キッチュの話でも、結局はより対象が限定されたキッチュで終幕する)それが重さ=耐えられない軽さにつながるのか?
自分で語りをつけると、質量の存在が感じられる
今までは実際に質量を把握しておらず、知らないからこそこれだけ重いだろうとなんとなく無意識に増大させていた人生の意味の軽さがのしかかる。重いというより重さという物差しを実際に手に入れ、それが非常に軽いことに虚しさが募る
ナンバーワンとオンリーワンの考え方にも似てる(人間は自分の物差しだけで自分自身を確認できるほど強くない。そもそも物差しだってそれ自体だけでこの世に存在することはできない。ナンバーワンよりオンリーワンは素晴らしい考え方だけれど、それはつまり、これまでは見知らぬ誰かが行ってくれた順位付けを、自分自身で行うということでもある。見知らぬ誰かに「お前は劣っている」と決めつけられる苦痛の代わりに、自ら自分自身に「あの人より劣っている
」と言い聞かせる悲しみが続くという意味でもある。朝井リョウ)
あの人より劣っている、というより、軽くてほぼ質量を持たないことを自覚し続ける
1番いい状態でせいぜいこれなのかと思い知らされるくらいなら、まだいい状態があるだろうと夢見続け、到達しない方がまだいい ゴールは目隠しされているからこそ未知のものだからこそ進む気力が湧いてくる(白痴でもコロンブスは大陸発見前の過程がが1番幸せだったと言われていた
つまり裏切ろうと奮闘しているくらいがちょうどいい
203身体が意志を裏切っているのを観察して、その心の不同意の興奮、他人行儀な身体にさらに興奮が高められる
トマーシュとのセックスでは叫びや愛で目が覆われており、心の非物体性が見えないが他の男とのセックスで身体と心の二重性が強調される瞬間が現れ、それを所望している
心は非物体性を強め、内側に籠るがまた呼び戻される時に愛と女たちは勘違いするのかな
なんでその二重性切望してるのかはよくわからん
テレザは過去の日々に安寧を求めるも、母親から逃げ出し飛び出てきた社会は実は母親に監視されていた世界の拡張でしかないことにきづく
消えて頼りなくなった過去を、川に流されるベンチに重ねている
223それが罪であるか否かというより、罪の意識が芽生えるかどうかで行動や付随する評価が変わるだけなきがする
だから何か新たな事実が発覚して(共産主義信仰が国の荒廃につながった)そこから遡って、ある時点での信仰者に罪と責任があるとみなす(時間の幅を持って罪を伴う存在と考える)のではなく、ある事実発覚時点で罪の意識が(人によって芽生えるかどうかは差があるが)生じる、その人は罪人ではなく罪の意識を伴う存在にその時点でなる、という考え方の方がしっくりくる
284
永劫回帰し複数の選択肢を比較したかのようにして作り出された謎の規定や義務、正解といったものに世は溢れている
それらに押し付けられて地に足をつける生活より、それを裏切ってEs muss sein!の声の聞こえないところへと羽ばたいていき、偶然性に運命を見いだす
そうしてこそ実際に自分で質量という概念を扱い、そしてその軽さ、根本的な意味のなさや恣意性を痛々しいほどに自覚できる。押し付けられた重みに存在するような幻の根拠がなく現実を浮遊し、さらにそれすら一度きりで流れ去る
これが耐えられない軽さなのだろうな
自分はサビナほど執拗に裏切りを求めているわけでも、トマーシュほど軽さ側に本能的にひかれるわけでもないが、サビナの空虚さを痛烈に自覚して、
意識的にトマーシュの軽やかさを手に入れようと頑張っているなーとおもった。サビナよりトマーシュの方が軽やかさの才能があるというか軽さ耐性がある気がする。観客の存在が苦しいのもサビナと一緒
322
キッチュは大多数に都合よく整えられたストーリー。
キッチュからの解放は個人のものの感じ方考え方にばらつきが増えるから本物らしくみえるが、実際キッチュを排除しても自分固有の感じ方なんてものはないし、たどり着くのは、ある程度多様性が自然に存在する、キッチュの延長のような世界でしかない気がする。
操作されている感覚、押し付けられている感覚がばらつきの発生で少なく見えるだけで。
つまり、理解可能な嘘の裏側に位置するがゆえに、その理解不可能性も相まって真実のようにみえるが、実際には嘘でも真実でもない何かがある(多少の多様性が許容されるような範囲内で操作された、対象がより限定的となったキッチュ?、自由意志(自分自身の確実さと単純な真実)の介在などそもそもなさそう)
「自分自身の中にそれを持っていないだろうか?」323
シルバニアの家を出ようと思ってもまた扉に囲まれていることに気づく、の繰り返しというイメージがまたもこれと結びつく。
重みを取っ払おうと家の外にでようとすればするほど、その出ようとする行為により物差しという概念は生まれるが、確実さと真実味を帯びた自身固有のものなどないのではという空虚さで、物差しで測るものすら与えられていない、つまり軽すぎるということに気づく。こういうイメージの方がしっくりくるな
350
まあ結局全て、より汎用性の高いキッチュに回収され存在など忘却される。その意味でも軽い
人間という生物である限り、人類に広く共通のキッチュ的思想(支配の頂点に立っているという)、レールに載っている。さらに鏡に反射してみえるものが自分であるという認識を持つことで身体という概念(そこから派生して心と身体が別であるという着想)もあり、自分の実体が不明確になる
キッチュやあらゆる力関係の勾配から自由になった状態、何もお互いに求めずして一緒にいるのが好ましいと自由意志(と思えるもの).からそう思える関係、これがテレザとカレーニンの関係なのかな
犬のことを好ましく思うのも自由意志ではなく、対象が限定的なキッチュの影響である可能性も拭えないけど。自分の存在を理解しにくくする身体というものを持たずに裸一貫の自由意志として犬を想定するのは荒っぽいなあとは思うけど、そもそも存在として別物すぎるものだからこそ共通のストーリーに飲み込まれることなく人工的な気持ち悪さ(力関係や関係性によって自ずと感情や思考が導かれるような感覚)から解き放たれ純粋さを帯びて見えるのだろうか
En muss seinも力勾配もなくなり、カレーニンと似たような動物、野ウサギとしてトマーシュがテレザには最後感じられたのかなーテレザにとってはカレーニンや野うさぎとしてのトマーシュの存在こそ重みなんだろうな
サビナの話が1番好きだった